残っているもの
二人は校内のコートへ移り、それぞれ準備を整える。
三セットマッチ。
私は小声で彼を止めようとした。
「三セットは無茶やないと?」
「無理だと思ったら、そこでやめるよ」
「信用できん」
「……ごめん」
その謝り方からは、やめる気を感じない。
顔を見れば分かる。
やりたいんだ。
どうしても。
「……無茶せんでよ」
「うん」
まだ言いたいことはあった。
でも。
私は、それ以上の言葉を呑み込んだ。
*
序盤は彼が圧倒した。
6-2。
球質は、水ヶ瀬くんの方が明らかに重い。
体格も、彼よりずっと大きい。
なのに、彼が先にいる。
打点へ。
コースへ。
次のポジションへ。
水ヶ瀬くんが決めるはずの球を先回りしてカウンターする。
「相変わらず、天才だな」
水ヶ瀬くんが笑った。
けれど彼は笑わなかった。
2セット目。
3-1。
そこから少しずつ、彼の動きが鈍った。
半歩。
一歩。
遅れる。
ラケットワークの巧みさで凌ぐ。
それでも、次第に誤魔化せなくなる。
5-7。
「大丈夫?」
私は小声で話しかける。
「……うん」
給水を終えた彼は、短く答えるとベースラインへ戻っていった。
水ヶ瀬くんは、その様子を黙って見ていた。
最終セット。
呼吸が荒い。
軸がぶれる。
球が伸びない。
結局、1-6。
気づけば、辺りは静まり返り、残っているのは私達三人だけだった。
「ありがとう、甘露寺」
水ヶ瀬くんは言った。
「俺は、お前に勝つことだけを考えてきた。やはりテニスの質では及ばない」
「……」
「だから、もっとフィジカルで圧倒する。そして、これからも勝ち続ける。もちろん、お前にも」
「……」
それだけ言うと、ラケットを片付けて立ち去った。
「……大丈夫?」
水ヶ瀬くんの姿が見えなくなると、途端に彼はしゃがみ込んだ。
「負けた……」
「……うん」
本当は、言ってやりたかった。
なんで彼を追い詰めたんだ。
身体が悪いって言ったじゃないか。
けれど、私もプレーヤーとしてコートに立っていた人間だ。
水ヶ瀬くんの気持ちも、少しだけ分かってしまう。
どんな状況であれ、ずっと追いかけてきた相手との真剣勝負。
そこで手を抜くなんて、考えられない。
水ヶ瀬くんは、そのために来たのだから。
そして、続けると決めたのは、彼自身だ。
だから水ヶ瀬くんも、最後まで本気だった。
「水ヶ瀬くんには、棄権した以外は負けたことなかった。一回も」
「……」
「セットだって、取られたことなかった」
声が震える。
「病気になる前なら……」
私は黙る。
「病気にならなかったら、僕は勝てた」
「……」
「もっと身体も大きくなってた。もっとトレーニングできた。プロになって、世界で戦って……」
涙が落ちる。
「全部、病気のせいだ」
初めてだった。
彼のこんな顔を見るのは。
競技者としての彼が剥き出しになっていた。
「僕には何も残ってない」
「……」
「家族は、ずっと応援してくれてる。皆、僕を大切にしてくれる。でも……」
肩が震える。
「テニスできないなら、死んだ方がよかったなんて、言えると思う!?」
「……」
「僕は……僕は……!」
泣いた。
私は何も言えなかった。
励ます言葉なんて、一つも思いつかなかった。
だって、私だって誰にも言えないようなことを抱えていたから。
加害者に、死ねばいいのにと思った。
父の優しささえ、重く圧し掛かり煩わしかった。
だから。
抱きしめた。
「……中牟田、さん……」
彼の身体が、一瞬だけ強張った。
細い。
思っていたより、ずっと細い。
「……ごめん」
「なんが」
「みっともない」
「お互い様やん」
彼は少し笑った。
気づけば、私の頬にも涙が伝っていた。
私も泣きながら笑った。
*
その日の夜。
私は父のショップが閉まるのを待っていた。
店先の灯りを消したのを確認してから、話した。
「お父さん」
「ん?」
「お母さんが病気のときって、どんな気持ちだった?」
父の手が止まる。
「怖かったばい」
「毎日?」
「毎日」
「……」
「ばってん、幸せやった。それに、時間ば大切にせないかんって思った」
「そっか……」
「栞」
「ん?」
「父ちゃんは、傍におることしかできんかった」
父は少しだけ目を伏せた。
「でも、傍におりたかった」
「そっか……」
私は静かに頷いた。
*
次の日、早朝。
ラケットケースを持って、一人で公園へ行った。
ピンク色の振動止めがついた、自分のラケットとボールを取り出す。
「……」
壁の前へ立った。
強い意志を持って、優しく打った。
返ってくる。
二球。
三球。
彼のフォームを真似しようとは思わない。
私の身体では同じにはならない。
右脚は完全じゃない。
昔の自分とも違う。
でも。
テイクバックを終えるタイミング。
ボールへ入る一歩。
打点を待つ感覚。
何度も何度も彼を見てきた。
何度も何度も彼のボールを受けた。
いつの間にか。
頭で考えるより先に、身体が動く瞬間があった。
(……)
彼のテニスじゃない。
私のテニス。
でも、その中に。
確かに、彼から受け取った何かがある。
私は、もう一球、強く打った。




