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反射

 八月。

 事故以来、リハビリは言われたことをこなしているだけだったけれど、いつからか家でのトレーニングも前ほど手を抜かなくなっていた。

 別に、テニスに戻りたいわけじゃない。

 ただ、治せるものまで治さない理由もないと思うようになっていた。


「え!? お祖父ちゃん、私テニスしよらんよ!?」


「今はしよらんでも、今までしよったっちゃろうもん。球出しでもよかけん来んか」


 そう言いながら、私は自然と右脚に触れていた。

 筑清学園に入れてもらった恩もあるし、断りづらい。

 なにより、祖父から直接「来い」と言われたこと自体が初めてで、悪い気はしなかった。


「で、なんで僕まで?」


 学校へ向かう坂道で、彼が首を傾げる。


「君がおった方が、全部上手くいくけん」


「中牟田さんのお祖父さんは、孫娘とやりたいんじゃないの?」


「……」


 蝉がうるさい。

 聞こえない。

 何も聞こえない。

 *

 コートへ着くと、そこには予想外の人物がいた。


「かなた。そげな老いぼれの相手ばすることなか」


 甘露寺長政(ながまさ)さん。

 そして、私の祖父――上白水大膳(かみしろうずたいぜん)。


「なんか貴様ん」


「貴様んこそ、なんか」


 白いポロ。

 白い短パン。

 白いソックス。

 白いシューズ。

 服装だけなら双子なのに、顔は全く似ていない。

 そして、口が悪い。

 もの凄く悪い。


「栞ちゃんは、こげな頑固爺に似らんでよかったばい」


「長政、けたくるぞ。貴様んとこの孫も同じやろうが」


「かなたは儂に似て顔よか、テニスよかになったったい」


「貴様んに似よったら、牛蛙みたいな面になっとったわ」


 私とかなたは、二人して身体を硬直させたまま、目だけをキョロキョロと動かしていた。

 そうして祖父達は、言い方こそ違えど「息の根を止めてやる」と同じ意味のきつい博多弁を吐き捨てて、それぞれのベースラインへ大股で歩いていった。


「な、なんかごめんね」


「僕の方こそ……」


 そして、二人の迫力ある試合は始まったのだが……


「あー!」


「うおー!」


 声だけは、凄い。

 ただ、ボールも動きも極めて遅い。

 なのに、落ちない。

 互いに深く返し合いながら、何十球でもラリーが続く。

 私は初めのうちこそハラハラして見ていたけれど、次第に目が離せなくなっていた。

 何十年も前からテニスをしている二人が、今もこうしてラケットを握っている。


 契約も。

 全国大会も。

 世界ランキングも。

 何も関係ない。

 ただ、楽しそうだった。


(こんなテニスも、あるんだ……)


 それは、まるで小さい頃、あの公園で夢中になって壁打ちをしていた私みたいだった。


「ダブルスば、するばい」


 突然、祖父が言った。


「え!? 私、やらんよ!」


「サーブとリターンだけすればよか」


「栞ちゃん、あとはかなたが全部拾うけん、よかよか」


「よくなかよ!」


 身体を強張らせて抵抗したものの、当然のように押し切られた。

 私は仕方なく、持ってきていた古いラケットを手に取る。

 そして、コートへ立った。


(……)


 半年ぶりだった。

 コートの照り返しが、先ほどよりも強く感じられる。

 足の裏が、硬いコートの感触を敏感に拾う。

 右脚の硬さが否応でも拒絶の意思を示す。


「少しアップしよう」


 そう言って、彼がネットの向こうのサービスライン付近へ立つ。断る理由もなく、私も向かい側のサービスライン付近へ立ってショートラリーに備えた。


 ――ポン。


 柔らかな打球が、ネットを越えてやってきた。

 私は躊躇いながらもテイクバックした。

 右脚が突っ張る。


 ――ポン。


 手のひらに伝わってきた感触。

 知っている。

 ずっと知っていた振動。

 遠ざけていたものが、手のひらから蘇ってくる。

 彼がまた同じ場所へ返す。

 私も返す。

 また返ってくる。

 同じ高さ。

 同じ深さ。

 同じテンポ。


 動くたびに、錆びついていた全身の筋肉が少しずつ起き上がってくる。

 でも、思った通りに動こうとすると一拍遅れるのがじれったい。

 右脚だけが、別の意思を持っているみたいな感覚がもどかしい。


(……)


 それでも、大きく動かされることもなくラリーは続く。

 ただ彼を信じて、ラケットを出せばいい。

 そのうち、彼のインパクトと私の準備のタイミングが重なってきた。

 彼が打つ。

 私の身体が先に動く。

 私が打つ。

 彼が同じところへ返す。


(なん、これ……)


 自分のリズムなのか、彼のリズムなのか。

 分からなくなる。


「大丈夫?」


「うん……」


「じゃあ、下がろうか」


 彼が打ちながらベースラインまで下がる。

 私も続く。

 距離が伸びても、ボールは変わらず打ちやすい。

 少し目測を誤れば振り遅れるほど伸びてくるのに、打点だけは毎回こちらへ差し出されるように揃っていた。


(やっぱり、凄か……)


 そうして、ダブルスが始まった。

 最初は本当に立っているだけだった。

 でも、祖父達は負けず嫌いを発揮して次第に容赦なく私ばかりを狙い出した。


「……」


 腹が立った。

 気が付けば、左脚に軸を預けて叩き返していた。


「よしっ!」


 ポイントを取る。

 隣から手が出る。


「ナイス!」


 反射的に、その手を叩く。

 パンッ。

(……)

 ハイタッチ。

 それだけなのに、なんでこんなに心が弾むんだろう。

 *

 その夜。

 ベッドへ寝転がった私は、天井を見上げていた。


「楽しかったと……?」


 右脚を見る。

 素直に喜んでいいのか分からない。

 でも、楽しかった。

 それを認めるのが怖い。

 テニスを好きだと認めてしまえば、事故後の自分を裏切る気がした。

 あれだけ苦しんだ自分が。

 あれだけ「もうしない」と決めた自分が。

 全部、嘘になる気がした。


 スマホが光る。

〈今日はありがとう。楽しかった!〉

(……)

〈体調は?〉

 数秒後、OKのスタンプが返ってきた。


「なんか、しゃーしかね……」


 あの屈託のない顔まで浮かんできて、余計に腹が立つ。

 胸が、妙にうるさい。

 私はそれを誤魔化すように、枕へ顔を埋めた。

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