ほどける
七月。
放課後になっても、教室には昼間の熱がこもる。
開け放した窓の向こうでは、蝉がこれでもかというほど鳴いていた。私は鞄を肩に掛けながら、額に張り付いた前髪を指で払った。
「じゃあ明日は博多駅で四時三十分に待ち合わせね」
弥生がスマホの画面を確認しながら言う。
「四時三十分!?」
私の鞄が肩からずり落ちた。
弥生は、そんな私を見て楽しそうに目を細める。
「文句言わん。追い山ば見に行くっちゃろ?」
「四時半て、私の電源切れとる時間やん……」
隣でかなたが小さく笑った。
西日を受けて、黒髪に混じった白い一束が薄く透けて見えた。
「僕は楽しみ」
その顔には、眠気の心配なんて欠片もなさそうだった。
「君は東京から来たばっかりやけんそうやろうけど、私は寝てたいとよ」
「はいはい。明日は、ちゃんと起きてね」
弥生は呆れたように言いながらも、口元は笑っていた。
(弥生、大人しいんはウソやったっとね……)
入学したばかりの頃、階段で私を支えてくれた物静かな女子は、いつの間にか見る影もなくなっていた。
*
そうして、翌早朝。
まだ空が暗いうちから、博多の町には人が溢れる。
法被。
提灯。
掛け声。
勢水。
狭い道を埋める熱気。
――おいさ! おいさ!
地面まで震えているようだった。
隣の彼は、子供みたいに目を輝かせている。「凄い……」という彼の呟きを耳で拾い言葉を掛けようかと思った、その時だった。
「きゃっ!?」
沿道から山笠へ勢いよく浴びせられた勢水の飛沫を避けて、目の前の男の人が大きく後ずさってきた。
押された私はバランスを崩す。
次の瞬間。
左手首を掴まれ、倒れかけた身体を横から引き戻された。
「大丈夫?」
彼が私の腕を支えたまま、顔を覗き込んでいる。
「う、うん」
どうにか両足をついて体勢を立て直す。
けれど、勢水を避けようと動いた人達が押し合うように流れ込み、人混みはさっきよりも詰まっていた。肩と肩が触れ合い、少し油断すれば人波に負けそうになる。
彼の手が、私の手首から離れかけた。そうして、その指先が迷うように私の手を探した。
そして。
握った。
「危ないから」
それだけ言って、彼は山笠へ視線を戻した。
「うん、ありがとう……」
「うん……」
長年ラケットを握ってきたはずの手は、思っていたよりも柔らかい。
だからといって、頼りないわけじゃない。
手を繋いでいることには落ち着かないのに、その手には不思議と安らぎを覚えた。
温かい。
彼との間に残っていた何かが、ほんの少しだけほどけた気がした。
「あの……」
「ん?」
「この間は、ごめん。私、君に悪いことしたと思っとう」
握られた手が、少しだけ強くなった。
「僕も、ごめん。いつ謝ればいいのか、ずっと考えてた」
「君は、すぐ謝ってくれたやん」
「でも、もう一回ちゃんと謝りたかった。やっぱり立ち入り過ぎだったと思う。テニスのことだったから、つい」
「お互いさま……やね」
「うん」
二人で小さく笑う。
胸の奥が、じわっと熱くなった。
(私、どげんしたっちゃろ……)
――おいさ! おいさ!
再び大きな掛け声が響く。
私は山笠へ目を向けたまま、隣にいる彼のことばかり意識していた。




