第7話 最後の心の声
最後の十日間、公爵はよく笑った。
私の部屋から箱が一つ減るたび、少し口を閉じる。
それでも、戻せとは言わなかった。
仕事の帰りに、店で教わったことを話すと、聞いてくれた。
「離婚を、取りやめることもできるのだろう」
ある夜、彼が尋ねた。
「はい」
私は頷いた。
自分でも、何度も考えた。
今なら話ができる。恋をしてもいい。
このまま屋敷に残れば、楽なことはたくさんある。
「でも、一度、終えたいです」
彼は、私の続きを待った。
「私たちは、恋をしなくてよいから、結婚しました。私は見合いを断る代わりに、ここへ来た。自分で暮らしを選ぶことを、先へ延ばしたのだと思います」
彼の目が、少し揺れた。
「今、あなたが好きかどうかを考えるときにも、公爵の妻でいる安心と、分けられなくなります」
好きだと言わなかった。
好きではないとも、言わなかった。
「自分の部屋と仕事を持って、また、あなたへ会いたいか考えたいです」
アルヴィンは、頷いた。
「君の暮らしから、私の家を一度外すということか」
「はい」
私は、自分の膝を見た。
「寂しくさせたいわけでは、ありません」
「それは、分かる」
彼の声は、少し低かった。
「寂しいことと、君が間違っていることは、同じではない」
出発の日は、晴れた。
来月は雨が多いという、夫の予想は、その日だけ外れた。
神殿へ行く前、私たちは最後の書類を確認した。
契約で取り決めた生活費と、私が持ち込んだ持ち物。
店へ勤めるための資金は、私の貯えから用意してある。
婚姻の継続を条件にするものは、なかった。
「この用紙を、最後に使ってもよいか」
彼が尋ねた。
「伝えたいことが、ありますか」
「ある。言葉でも、言う」
私は頷いた。
彼が紙へ触れた。
『泣きそうだ。でも、笑って見送りたい。彼女が振り返って、私の顔を心配しないように』
五呼吸。
私は、彼の手を見た。
声が途切れたあと、彼が言った。
「寂しい。君が、ここから出ていくのは」
私は、顔を上げた。
「だが、仕事を始める君を、喜びたい。どちらも、本当だ」
彼は、笑おうとした。
うまくいかなかった。
その目を見て、私も笑うのをやめた。
「今日は、笑ってくださらなくてもいいです」
彼の肩へ、手を置いた。
「私も、寂しいので」
神殿では、二人とも自分の意思を伝えた。
婚姻の解消が記録され、用紙の銀の縁が、静かに白くなった。
彼へ返しても、声は聞こえなかった。
建物を出たところで、私は一礼した。
公爵夫人としての、最後の礼。
「お世話になりました」
「こちらこそ」
彼は、私の顔を見た。
「明後日、店へ行っても?」
私は、少し笑った。
「お客様としてなら。ただ、開店前には来ないでください」
その返事を聞いて、彼はやっと笑えた。




