第5話 五呼吸では、足りません
アルヴィンは、約束の時間に来るようになった。
来られない日は、前もって伝えてくれた。
変化は、小さかった。
けれど、朝の挨拶が返ってくるだけで、その日一日の感じは変わる。
夕方、廊下で会っても、通り過ぎなくなった。
「今日、店では」
私は、働き始める前の研修へ通っていた。
古い店主のエダさんは、私を伯爵令嬢として扱わなかった。
紙の値段を覚える。棚を拭く。注文を間違えずに記録する。
前世の記憶があっても、こちらの仕入れ先は全部、知らない。
「封筒の数え方を、間違えました。厚さで判断してはいけませんね」
彼は、真剣に聞いた。
「私も、帳面の枚数を間違えた」
あの帳面を使ってくれていると分かって、私は嬉しかった。
でも、何が書かれているかは聞かなかった。
心の声と同じで、持ち主のものだから。
週末、彼の叔母のメアリ様が訪ねてきた。
私たちは、離婚を予定していることを伝えた。
最初の契約のことも。
メアリ様は、二人を見た。
「急いで結婚させようとした私にも、考えることがあるわね」
怒らなかった。
ただ、少し寂しそうだった。
「今、一緒にお茶を飲むことまで、やめなくてよいのでしょう?」
私は頷いた。
その日の茶菓子は、三人で食べた。
叔母が帰ったあと、公爵は私へ言った。
「君に、伝えたいことがある」
私は待った。
彼は、窓を見た。
机を見た。
また、私を見た。
「紙を、使ってもよいだろうか」
「白紙でしたら」
「離婚届の方を」
私は、彼の顔を見た。
「祝福を、使うのですか」
「知られて困ることも、あるだろう。だが、私の方から頼むなら」
彼の耳が赤かった。
私は、引き出しを開けた。
すでに一度、彼の言葉を聞いている。
今度は、頼まれて聞く。
「分かりました。ただ、それで全部伝えたことには、しないでください」
彼は頷いた。
紙へ、指先を乗せた。
『君に笑ってほしい。私の隣で。できれば、離婚したあとも』
声が、胸へ落ちた。
『今日の髪は、いつもより短く結んでいる。可愛い。いや、それを先に考えるな』
五呼吸が終わった。
私は、紙を持ったまま止まった。
彼も、止まっていた。
「……どこまで」
「髪まで」
彼が目を閉じた。
私は、口元を押さえた。
笑ってはいけない場面なのに、少し笑ってしまった。
「離婚したあとも、私に笑ってほしいというのは」
続きを、尋ねた。
「会いに行きたい」
彼は、今度は自分の声で言った。
「店へ、客として。仕事の邪魔にならないときに、話がしたい」
私は、紙をしまった。
五呼吸では足りない。
髪型の話を、最初にされたくもない。
でも、この人はようやく、会いたいと口にした。
「店主へ、客の来る許可は要りません。ただ、私を散歩へ誘うなら、私へ聞いてください」
彼は頷き、真っ直ぐ私を見た。
「離婚したあと、君を散歩へ誘ってもいいか」
私は、少しだけ返事を延ばした。
その間、彼が待ってくれることを確かめたかった。
「はい」
彼が、初めて、隠さずに笑った。




