↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/31

第9話 着替えと素敵な贈り物 その1

 夜明けのあと、二人は車庫に隣接した小さな事務室へ移り、十分な休憩を取った。

 和憲が周囲の気配を確かめ、アリナが窓と出入口を調べてから、交代で身体を休めることにした。事務机の陰には雨漏りの跡もなく、古い長椅子は埃を払えば横になれた。奥には書類棚で仕切られた一角もあり、通りに面した窓を布で覆うと、ようやく人目を気にせず息をつける場所になった。


 和憲も、今度は無理に立ち上がろうとしなかった。長椅子へ身体を預け、目を閉じると、ほどなく意識が沈んだ。

 次に目を覚ましたときには、脚の重さも肩の強張りも、ずいぶん薄れていた。机の向こうで衣擦れの音がして、アリナが起きたことに気づく。


「あ、恩人様。よく眠れた?」

「うん、バッチリ。ごめん、先に休ませてもらって――」


 上体を起こし、声の方へ顔を向けたところで、和憲は言葉を失った。

 書類棚の陰から出てきたアリナは、水色のブラジャーとショーツ姿だった。脱いだ衣服を腕に抱え、空いた手には小さな布を持っている。昨夜の汚れを拭っていたらしく、机の端には使いかけの水が置かれていた。


 和憲は一瞬、何を見たのか理解できない顔で固まった。それから耳まで赤くなり、勢いよく反対側へ顔を向ける。


「……ちゃんと服を着なさい」

「え?」


 アリナは自分の格好を見下ろし、それから、壁へ向かって座り直した男を見た。


「着るよ。これから。汚れを落としてたところなの」

「なら、向こうで済ませてから出てきなさい。こんなおっさんの前で、そんな格好をしないの」


 声だけ聞けば注意する大人らしかったが、目は頑なにこちらへ向かない。膝へ置かれた両手まで妙に行儀よく揃っていて、どうにも落ち着かない様子だった。


 アリナの口元に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。

 昨夜は何度呼んでも平気そうな顔をして、こちらばかり心配させられた。その男が今は、自分が少し近づくだけで肩を強張らせている。


「そんなに困っちゃう?」

「困るだろ、普通に」


 返事があまりに真面目だったので、アリナは抱えた服の上へ顎を寄せ、少しだけ声を弾ませた。


「……襲っちゃう?」

「襲いません」


 即答だった。

 振り向きもしないまま、そこだけはきっぱり言われ、アリナは堪えきれずに笑った。


「ふふ、知ってる♪」

「だったら、からかわないでくれ。朝から心臓に悪い」

「恩人様でも、そういうのは心臓に悪いんだね」

「そりゃ悪いよ。タダでさえ女性慣れしてないし、ましてやアリナさん相手なんだから……」


 和憲は壁に残った掲示物を見つめた。剥がれかけた紙に何が書いてあるのか、少しも頭へ入ってこない。背後でアリナが動くたび、見てはいけないと思う意識ばかりが強くなった。

 その様子を眺めていたアリナは、笑いを収め、少し声を柔らかくした。


「でもね。わたし、恩人様になら見られても平気だよ」


 和憲の肩が、わずかに動いた。


「……いや、それは」

「誰の前でも、こんな格好で出てくるわけじゃないからね?」


 何気ない口調だったが、今度は笑わせようとしている響きではなかった。

 和憲は返事に困った。


 安心できる相手だと思ってもらえているのなら、それは嬉しい。けれど、ここまで警戒されないのは、男としてまったく意識されていないということなのだろうか。

 そうかと思えば、彼女は自分が赤くなるのを見て、明らかに楽しんでいる。

 そもそも、自分が何を期待してそんなことを考えているのかと思うと、ますます顔が熱くなった。


「……これ、喜んでいい話なのか?」


 思わず口に出すと、背後から楽しそうな声が返ってきた。


「恩人様のこと、信用してるってことだよ!」

「そっか。そう思ってくれるのは、ありがたいんだけど……」


 和憲は一度頷き、それでも振り向かずに続けた。


「ありがたいけど、服は着てくれ」

「はーい♡」


 アリナは笑いながら書類棚の向こうへ戻った。衣擦れの音が遠ざかってからも、和憲はしばらく壁を見ていた。

 信用されるのは嬉しい。嬉しいのだが、それと平静でいられるかどうかは、また別の話だった。

 やがて、いつもの服装に戻ったアリナが顔を出した。


「もう見ても大丈夫だよ」


 恐る恐る振り向いた和憲を見て、彼女はまた笑いそうになったが、今度は唇の端で堪えた。彼はまだ少し赤い顔で、机の上の水を指さしている。


「……飯も、ちゃんと食べてな」

「うん。食べたら、わたしも少し寝るね」

「ああ。気配に注意しとくし、外は見とくから」


 いつもの調子へ戻ろうとしているのが分かり、アリナもそれ以上はからかわなかった。


 食事を終えたアリナは、水の容器を机へ置くと、長椅子に腰掛けたまま荷物を探った。取り出したのは、手のひらに収まるほどの塗り薬だった。蓋を開けて中身を確かめ、それから入口の方へ向かおうとしていた和憲を呼び止める。


「ねえ、恩人様。寝る前に、もう一つお願いしてもいい?」

「いいよ、どした?」


 振り返った和憲へ、アリナは容器を差し出した。


「これ、足に塗ってくれない?」


 和憲の視線が、彼女の手元から足元へ落ちた。  アリナは靴を脱ぎ、傷めた方の足をわずかに前へ出していた。足首の周りには、まだうっすらと腫れが残っている。歩けるようにはなっていても、一晩休んだだけですっかり治るほど軽いものではなかったらしい。


「……自分で塗った方がいいんじゃないか?」

「外側は塗れるんだけど、後ろの方が見づらくて。変に足をひねると、ちょっと痛いんだよね」


 言いながら、アリナが膝を引き寄せようとする。

 途中で眉がわずかに寄ったのを見て、和憲は思わず手を出しかけた。けれど、その手で彼女の足に触れることになるのだと気づくと、宙に浮かせたまま動きを止める。


「だったら、見えるところだけでも……いや、でもなあ。オレ、こういうのは加減が分からんし」

「強く押さないで、薄く塗ってくれれば大丈夫だよ」 「そうは言っても、痛いところだろ。オレがやるより――」


 そこまで言ったところで、アリナが少し首を傾けた。  両手で持った容器を胸元へ寄せ、座った姿勢から和憲の顔を見上げる。いつものようにからかう言葉が続くかと思ったが、彼女は小さく眉を下げただけだった。


「……お願い、恩人様」


 和憲は口を閉じた。


「恩人様なら、痛くしないようにしてくれるでしょ?」


 柔らかな声でそう言われると、断るために並べかけていた言葉が、どれもひどく薄情なものに思えてきた。

 困っているのなら手を貸せばいい。ただそれだけのことなのに、自分ばかりが余計な意識をしている。その自覚がまた気恥ずかしく、和憲は一度、顔を背けて息を吐いた。


「……分かったよ。分かったから、その顔で頼まないでくれ」

「やってくれる?」

「うん。ただ、痛かったらすぐ言ってな。我慢されると分からんから」

「やったあ♪ありがとう、恩人様!」


 嬉しそうに容器を差し出すアリナから目を逸らしつつ、和憲はそれを受け取った。

 手を清めてから、長椅子の前へ腰を下ろす。アリナは座る位置を少しずらし、足を支えやすいように伸ばした。和憲は畳んだ布を下へ敷き、どこまで触れていいものか迷った末に、まず彼女の顔を見た。


「踵、持つぞ」

「うん」


 返事を確かめてから、踵の下へ手のひらを差し入れる。  持ち上げたのは、ほんの少しだった。それでも、自分の手の中に彼女の足が収まった途端、和憲の肩には余計な力が入った。

 昨夜の汚れは丁寧に拭われていた。足首から甲へ続く肌には土埃も残っておらず、布で覆われた窓から漏れる明かりが、骨の輪郭に沿って淡い陰影を作っている。踝の形が分かるところと、腫れによって境目が少し曖昧になっているところ。その違いを見比べながら、和憲は支える位置を慎重に調整した。


 指に触れる肌は、自分の手とはずいぶん違っていた。踵には歩いてきた分の確かな硬さがあるのに、そこから足首へ寄ると、表面はきめ細かく、滑らかになる。押さえつけないよう添えた指の腹にも、その違いははっきり伝わった。爪を引っかけてしまわないか気になり、和憲は指先を少し伸ばして持ち直す。


「……痛くない?」

「大丈夫だよ。まだ支えてもらってるだけだし」


 声に笑いが混じっていた。

 和憲は気まずそうに頷き、空いている手の指へ少量の薬を取った。白い薬を腫れの周りへ置き、力を込めず、短い動きでそっと広げていく。


 塗り始めると、肌の上に薄く残っていた水気とは違う、薬の滑りが指先に加わった。少し動かしただけでも思った以上に広がるため、和憲はすぐに手を止めて量を確かめた。赤みのある場所ではいっそう慎重になり、皮膚を引っ張らないよう、触れるか触れないかほどに力を抜く。


 足の後ろ側へ回るときも、彼女の足首をひねることはしなかった。自分の方が身体を傾け、覗き込むようにして塗り残しを探す。その窮屈な姿勢を見下ろして、アリナが小さく笑った。


「恩人様、そんなに緊張しなくてもいいんだよ?」

「いや、するよ。痛くしたら困るし」

「さっきから、全然痛くないよ」

「なら、いいんだけど……」


 そう答える顔は、耳の辺りまで赤かった。

 アリナはもう少しからかってみたくなったが、足を支える手があまりにも慎重なので、ひとまず言葉を飲み込んだ。和憲は彼女の表情を何度も確かめ、そのたびに手元へ視線を戻している。少しでも痛そうにすれば、すぐにやめるつもりなのだろう。


 自分で頼んだことなのに、そんなふうに気遣われていると、アリナまで落ち着かなくなった。

 長椅子の縁へ置いていた手を膝に戻し、指を揃える。黙っていると和憲の丁寧さばかりが気になってしまい、何か話そうと口を開きかけたところで、彼がぽつりと言った。


「……綺麗な足だなあ」


 アリナの指が止まった。


「え?」


 和憲はまだ手元を見ていた。

 薬を塗り終えたところと、これから塗るところの境目を確かめながら、深く考えずに言葉を続ける。


「いや、肌も滑らかだし。こんな綺麗な足に傷が残ったら、もったいないなと思って」


 言い終えてから、和憲の手がぴたりと止まった。  ゆっくり顔を上げると、アリナがこちらを見ていた。先ほどまで楽しそうに上がっていた口元は少し緩み、青い瞳が落ち着かないように揺れている。頬には、和憲にも見間違えようのない赤みが差していた。


「……あ」


 和憲は自分の発言を思い返し、みるみる表情を曇らせた。

 手当てを頼まれただけなのに、自分は何を口走っているのだろう。

 しかも、彼女の足を手に持ったままである。安心して任せてくれた相手へ向ける言葉として、あまりに無遠慮だった気がした。

 支えていた踵を、畳んだ布の上へ静かに下ろす。


「……ごめん、セクハラだよな」


 先ほどまで赤かった顔が、今度は目に見えてしょんぼりとした。

 和憲が手を引こうとしたところで、アリナは慌てて身を乗り出した。


「ち、違うよ! そうじゃないから!」

「でも、急にそんなこと言われても気持ち悪いだろ。しかも、こんな顔したおっさんに……」

「また自分の顔、悪く言ってる!?気持ち悪いなんて思ってないよ!恩人様が、いきなり褒めるからビックリして……」


 勢いよく否定したものの、最後の方は声が小さくなった。

 和憲を見つめたまま言い切れず、アリナは視線を自分の膝へ落とす。そこで黙れば誤解されたままだと思い直し、もう一度、彼の顔を覗き込んだ。


「嫌だったわけじゃないよ。本当に」

「……そうなのか?」

「そうなの!ちょっと、恥ずかしくなっただけ」


 言葉にすると、頬の熱が余計にはっきりした。

 さっきまで和憲の顔が赤くなるのを楽しんでいたのに、今は自分がまともに目を合わせられない。彼にそのつもりがなかったことまで分かるから、なおさらどう返していいのか困ってしまう。


「だから、そんなに落ち込まないで。……褒めてくれたのは、嬉しかったんだから……ね?」


 和憲は目を瞬かせたあと、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。


「そっか。なら、よかった」

「うん♪」


 互いに短く返事をしてから、二人とも黙った。

 事務室の外で、風に揺れた何かがかたりと鳴る。和憲はその音へ一度顔を向け、周囲の気配を確かめてから、手元の容器に目を戻した。


「……あと、少しだけ残ってるから。塗っちゃってもいいか?」

「えへへ、お願いします」


 アリナの返事は、先ほどよりもおとなしかった。

 和憲はもう一度踵を支え、塗り残したところへ薬を広げた。相変わらず顔は赤く、手つきも必要以上に慎重だったが、アリナは今度、それをからかわなかった。膝の上で指を重ねたまま、少し俯いて、手当てが終わるのを待っていた。

 やがて和憲が薬の蓋を閉めると、彼女はそっと足を引き寄せた。


「ありがとう、恩人様」

「これで少しでも楽になるといいな」

「……うん。恩人様が塗ってくれたから、きっと効果もバツグンだね♪」


 顔を赤くしたまま頭をかく和憲を見て、クスリと微笑み、アリナはそのまま長椅子へ身体を横たえた。傷めた足を楽な位置へ置き、銃を手の届くところへ引き寄せる。

 和憲が立ち上がり、入口のそばへ座るまで、その背中を目で追っていた。

 足に残る薬は少しひんやりしていたのに、頬の熱はまだ引かなかった。

 アリナは口元へ浮かびそうになる笑みを抑え、小さく息をついてから呼びかけた。


「おやすみ、恩人様」

「おやすみ。ゆっくりしててな」


 いつもの静かな返事が聞こえた。

 アリナは安心して目を閉じたが、眠りに落ちるまでのしばらくは、思いがけず向けられた褒め言葉を、何度も胸の中で思い返していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。