第9話 着替えと素敵な贈り物 その1
夜明けのあと、二人は車庫に隣接した小さな事務室へ移り、十分な休憩を取った。
和憲が周囲の気配を確かめ、アリナが窓と出入口を調べてから、交代で身体を休めることにした。事務机の陰には雨漏りの跡もなく、古い長椅子は埃を払えば横になれた。奥には書類棚で仕切られた一角もあり、通りに面した窓を布で覆うと、ようやく人目を気にせず息をつける場所になった。
和憲も、今度は無理に立ち上がろうとしなかった。長椅子へ身体を預け、目を閉じると、ほどなく意識が沈んだ。
次に目を覚ましたときには、脚の重さも肩の強張りも、ずいぶん薄れていた。机の向こうで衣擦れの音がして、アリナが起きたことに気づく。
「あ、恩人様。よく眠れた?」
「うん、バッチリ。ごめん、先に休ませてもらって――」
上体を起こし、声の方へ顔を向けたところで、和憲は言葉を失った。
書類棚の陰から出てきたアリナは、水色のブラジャーとショーツ姿だった。脱いだ衣服を腕に抱え、空いた手には小さな布を持っている。昨夜の汚れを拭っていたらしく、机の端には使いかけの水が置かれていた。
和憲は一瞬、何を見たのか理解できない顔で固まった。それから耳まで赤くなり、勢いよく反対側へ顔を向ける。
「……ちゃんと服を着なさい」
「え?」
アリナは自分の格好を見下ろし、それから、壁へ向かって座り直した男を見た。
「着るよ。これから。汚れを落としてたところなの」
「なら、向こうで済ませてから出てきなさい。こんなおっさんの前で、そんな格好をしないの」
声だけ聞けば注意する大人らしかったが、目は頑なにこちらへ向かない。膝へ置かれた両手まで妙に行儀よく揃っていて、どうにも落ち着かない様子だった。
アリナの口元に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。
昨夜は何度呼んでも平気そうな顔をして、こちらばかり心配させられた。その男が今は、自分が少し近づくだけで肩を強張らせている。
「そんなに困っちゃう?」
「困るだろ、普通に」
返事があまりに真面目だったので、アリナは抱えた服の上へ顎を寄せ、少しだけ声を弾ませた。
「……襲っちゃう?」
「襲いません」
即答だった。
振り向きもしないまま、そこだけはきっぱり言われ、アリナは堪えきれずに笑った。
「ふふ、知ってる♪」
「だったら、からかわないでくれ。朝から心臓に悪い」
「恩人様でも、そういうのは心臓に悪いんだね」
「そりゃ悪いよ。タダでさえ女性慣れしてないし、ましてやアリナさん相手なんだから……」
和憲は壁に残った掲示物を見つめた。剥がれかけた紙に何が書いてあるのか、少しも頭へ入ってこない。背後でアリナが動くたび、見てはいけないと思う意識ばかりが強くなった。
その様子を眺めていたアリナは、笑いを収め、少し声を柔らかくした。
「でもね。わたし、恩人様になら見られても平気だよ」
和憲の肩が、わずかに動いた。
「……いや、それは」
「誰の前でも、こんな格好で出てくるわけじゃないからね?」
何気ない口調だったが、今度は笑わせようとしている響きではなかった。
和憲は返事に困った。
安心できる相手だと思ってもらえているのなら、それは嬉しい。けれど、ここまで警戒されないのは、男としてまったく意識されていないということなのだろうか。
そうかと思えば、彼女は自分が赤くなるのを見て、明らかに楽しんでいる。
そもそも、自分が何を期待してそんなことを考えているのかと思うと、ますます顔が熱くなった。
「……これ、喜んでいい話なのか?」
思わず口に出すと、背後から楽しそうな声が返ってきた。
「恩人様のこと、信用してるってことだよ!」
「そっか。そう思ってくれるのは、ありがたいんだけど……」
和憲は一度頷き、それでも振り向かずに続けた。
「ありがたいけど、服は着てくれ」
「はーい♡」
アリナは笑いながら書類棚の向こうへ戻った。衣擦れの音が遠ざかってからも、和憲はしばらく壁を見ていた。
信用されるのは嬉しい。嬉しいのだが、それと平静でいられるかどうかは、また別の話だった。
やがて、いつもの服装に戻ったアリナが顔を出した。
「もう見ても大丈夫だよ」
恐る恐る振り向いた和憲を見て、彼女はまた笑いそうになったが、今度は唇の端で堪えた。彼はまだ少し赤い顔で、机の上の水を指さしている。
「……飯も、ちゃんと食べてな」
「うん。食べたら、わたしも少し寝るね」
「ああ。気配に注意しとくし、外は見とくから」
いつもの調子へ戻ろうとしているのが分かり、アリナもそれ以上はからかわなかった。
食事を終えたアリナは、水の容器を机へ置くと、長椅子に腰掛けたまま荷物を探った。取り出したのは、手のひらに収まるほどの塗り薬だった。蓋を開けて中身を確かめ、それから入口の方へ向かおうとしていた和憲を呼び止める。
「ねえ、恩人様。寝る前に、もう一つお願いしてもいい?」
「いいよ、どした?」
振り返った和憲へ、アリナは容器を差し出した。
「これ、足に塗ってくれない?」
和憲の視線が、彼女の手元から足元へ落ちた。 アリナは靴を脱ぎ、傷めた方の足をわずかに前へ出していた。足首の周りには、まだうっすらと腫れが残っている。歩けるようにはなっていても、一晩休んだだけですっかり治るほど軽いものではなかったらしい。
「……自分で塗った方がいいんじゃないか?」
「外側は塗れるんだけど、後ろの方が見づらくて。変に足をひねると、ちょっと痛いんだよね」
言いながら、アリナが膝を引き寄せようとする。
途中で眉がわずかに寄ったのを見て、和憲は思わず手を出しかけた。けれど、その手で彼女の足に触れることになるのだと気づくと、宙に浮かせたまま動きを止める。
「だったら、見えるところだけでも……いや、でもなあ。オレ、こういうのは加減が分からんし」
「強く押さないで、薄く塗ってくれれば大丈夫だよ」 「そうは言っても、痛いところだろ。オレがやるより――」
そこまで言ったところで、アリナが少し首を傾けた。 両手で持った容器を胸元へ寄せ、座った姿勢から和憲の顔を見上げる。いつものようにからかう言葉が続くかと思ったが、彼女は小さく眉を下げただけだった。
「……お願い、恩人様」
和憲は口を閉じた。
「恩人様なら、痛くしないようにしてくれるでしょ?」
柔らかな声でそう言われると、断るために並べかけていた言葉が、どれもひどく薄情なものに思えてきた。
困っているのなら手を貸せばいい。ただそれだけのことなのに、自分ばかりが余計な意識をしている。その自覚がまた気恥ずかしく、和憲は一度、顔を背けて息を吐いた。
「……分かったよ。分かったから、その顔で頼まないでくれ」
「やってくれる?」
「うん。ただ、痛かったらすぐ言ってな。我慢されると分からんから」
「やったあ♪ありがとう、恩人様!」
嬉しそうに容器を差し出すアリナから目を逸らしつつ、和憲はそれを受け取った。
手を清めてから、長椅子の前へ腰を下ろす。アリナは座る位置を少しずらし、足を支えやすいように伸ばした。和憲は畳んだ布を下へ敷き、どこまで触れていいものか迷った末に、まず彼女の顔を見た。
「踵、持つぞ」
「うん」
返事を確かめてから、踵の下へ手のひらを差し入れる。 持ち上げたのは、ほんの少しだった。それでも、自分の手の中に彼女の足が収まった途端、和憲の肩には余計な力が入った。
昨夜の汚れは丁寧に拭われていた。足首から甲へ続く肌には土埃も残っておらず、布で覆われた窓から漏れる明かりが、骨の輪郭に沿って淡い陰影を作っている。踝の形が分かるところと、腫れによって境目が少し曖昧になっているところ。その違いを見比べながら、和憲は支える位置を慎重に調整した。
指に触れる肌は、自分の手とはずいぶん違っていた。踵には歩いてきた分の確かな硬さがあるのに、そこから足首へ寄ると、表面はきめ細かく、滑らかになる。押さえつけないよう添えた指の腹にも、その違いははっきり伝わった。爪を引っかけてしまわないか気になり、和憲は指先を少し伸ばして持ち直す。
「……痛くない?」
「大丈夫だよ。まだ支えてもらってるだけだし」
声に笑いが混じっていた。
和憲は気まずそうに頷き、空いている手の指へ少量の薬を取った。白い薬を腫れの周りへ置き、力を込めず、短い動きでそっと広げていく。
塗り始めると、肌の上に薄く残っていた水気とは違う、薬の滑りが指先に加わった。少し動かしただけでも思った以上に広がるため、和憲はすぐに手を止めて量を確かめた。赤みのある場所ではいっそう慎重になり、皮膚を引っ張らないよう、触れるか触れないかほどに力を抜く。
足の後ろ側へ回るときも、彼女の足首をひねることはしなかった。自分の方が身体を傾け、覗き込むようにして塗り残しを探す。その窮屈な姿勢を見下ろして、アリナが小さく笑った。
「恩人様、そんなに緊張しなくてもいいんだよ?」
「いや、するよ。痛くしたら困るし」
「さっきから、全然痛くないよ」
「なら、いいんだけど……」
そう答える顔は、耳の辺りまで赤かった。
アリナはもう少しからかってみたくなったが、足を支える手があまりにも慎重なので、ひとまず言葉を飲み込んだ。和憲は彼女の表情を何度も確かめ、そのたびに手元へ視線を戻している。少しでも痛そうにすれば、すぐにやめるつもりなのだろう。
自分で頼んだことなのに、そんなふうに気遣われていると、アリナまで落ち着かなくなった。
長椅子の縁へ置いていた手を膝に戻し、指を揃える。黙っていると和憲の丁寧さばかりが気になってしまい、何か話そうと口を開きかけたところで、彼がぽつりと言った。
「……綺麗な足だなあ」
アリナの指が止まった。
「え?」
和憲はまだ手元を見ていた。
薬を塗り終えたところと、これから塗るところの境目を確かめながら、深く考えずに言葉を続ける。
「いや、肌も滑らかだし。こんな綺麗な足に傷が残ったら、もったいないなと思って」
言い終えてから、和憲の手がぴたりと止まった。 ゆっくり顔を上げると、アリナがこちらを見ていた。先ほどまで楽しそうに上がっていた口元は少し緩み、青い瞳が落ち着かないように揺れている。頬には、和憲にも見間違えようのない赤みが差していた。
「……あ」
和憲は自分の発言を思い返し、みるみる表情を曇らせた。
手当てを頼まれただけなのに、自分は何を口走っているのだろう。
しかも、彼女の足を手に持ったままである。安心して任せてくれた相手へ向ける言葉として、あまりに無遠慮だった気がした。
支えていた踵を、畳んだ布の上へ静かに下ろす。
「……ごめん、セクハラだよな」
先ほどまで赤かった顔が、今度は目に見えてしょんぼりとした。
和憲が手を引こうとしたところで、アリナは慌てて身を乗り出した。
「ち、違うよ! そうじゃないから!」
「でも、急にそんなこと言われても気持ち悪いだろ。しかも、こんな顔したおっさんに……」
「また自分の顔、悪く言ってる!?気持ち悪いなんて思ってないよ!恩人様が、いきなり褒めるからビックリして……」
勢いよく否定したものの、最後の方は声が小さくなった。
和憲を見つめたまま言い切れず、アリナは視線を自分の膝へ落とす。そこで黙れば誤解されたままだと思い直し、もう一度、彼の顔を覗き込んだ。
「嫌だったわけじゃないよ。本当に」
「……そうなのか?」
「そうなの!ちょっと、恥ずかしくなっただけ」
言葉にすると、頬の熱が余計にはっきりした。
さっきまで和憲の顔が赤くなるのを楽しんでいたのに、今は自分がまともに目を合わせられない。彼にそのつもりがなかったことまで分かるから、なおさらどう返していいのか困ってしまう。
「だから、そんなに落ち込まないで。……褒めてくれたのは、嬉しかったんだから……ね?」
和憲は目を瞬かせたあと、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。
「そっか。なら、よかった」
「うん♪」
互いに短く返事をしてから、二人とも黙った。
事務室の外で、風に揺れた何かがかたりと鳴る。和憲はその音へ一度顔を向け、周囲の気配を確かめてから、手元の容器に目を戻した。
「……あと、少しだけ残ってるから。塗っちゃってもいいか?」
「えへへ、お願いします」
アリナの返事は、先ほどよりもおとなしかった。
和憲はもう一度踵を支え、塗り残したところへ薬を広げた。相変わらず顔は赤く、手つきも必要以上に慎重だったが、アリナは今度、それをからかわなかった。膝の上で指を重ねたまま、少し俯いて、手当てが終わるのを待っていた。
やがて和憲が薬の蓋を閉めると、彼女はそっと足を引き寄せた。
「ありがとう、恩人様」
「これで少しでも楽になるといいな」
「……うん。恩人様が塗ってくれたから、きっと効果もバツグンだね♪」
顔を赤くしたまま頭をかく和憲を見て、クスリと微笑み、アリナはそのまま長椅子へ身体を横たえた。傷めた足を楽な位置へ置き、銃を手の届くところへ引き寄せる。
和憲が立ち上がり、入口のそばへ座るまで、その背中を目で追っていた。
足に残る薬は少しひんやりしていたのに、頬の熱はまだ引かなかった。
アリナは口元へ浮かびそうになる笑みを抑え、小さく息をついてから呼びかけた。
「おやすみ、恩人様」
「おやすみ。ゆっくりしててな」
いつもの静かな返事が聞こえた。
アリナは安心して目を閉じたが、眠りに落ちるまでのしばらくは、思いがけず向けられた褒め言葉を、何度も胸の中で思い返していた。




