第8話 八つ当たり その2
最初の一体が手を伸ばすより早く、和憲は左腕を横へ振り抜いた。
首が飛び、身体が倒れきる前に次へ踏み込む。肩口から胸を斜めに断ち、引き戻した刃で三体目を押し返した。
動きに洗練されたところはない。大きく振れば身体が流れ、踏み込みすぎれば足が追いつかない。それでも、宿った力が拙さを補い、迫る身体を入口から遠ざけていた。
アリナは扉の陰から銃を構えた。
和憲は一体も中へ通すまいとしていた。横へ逸れる影があれば身体ごと進路を塞ぎ、そのせいで正面の相手へ刃を戻すのが遅れる。彼女を守ろうとする動きが、そのまま自分の隙になっていた。
「恩人様、右! もう一体来てる!」
声に応じて和憲が刃を戻した、その背後から別の影が組みついた。
アリナが狙いを変えるより早く、腐った口が和憲の肩へ沈んだ。
布が引きつれ、その下から赤い血が溢れた。
彼女の顔から、血の気が引いた。
「――恩人様!」
声が裏返った。
傷が治ることと、感染しないことは同じではない。助けるために外へ残った男が、今の一度で取り返しのつかないことになったのかもしれない。
和憲が身体を捻り、組みついた一体を剥がした。その頭が彼の肩から離れた瞬間、アリナは引き金を引いた。銃声に重なって死体が倒れ、和憲が短く息を吐く。
「恩人様、戻って! 肩、噛まれてる!」
「みたいだな……!ちょっと待ってな」
和憲は次に迫った一体を斬り倒した。
アリナは踏み出しかけ、入口を塞ぐ死者を見て止まった。ここで出れば、彼はまた自分を庇わなければならない。それが分かるからこそ、足を動かせなかった。
数歩下がった和憲の服の裂け目から、傷の縁が寄り始めているのが見えた。それでも、安堵することはできなかった。
「治っても、噛まれていいことにはならないんだからね……!」
和憲は頷いたが、返事をする前に次の腕が伸びてきた。
夜は長かった。
一体を倒しても呻き声は途絶えず、二体を斬った先から別の影が近づいてきた。街灯は点かず、月も雲に隠れていたが、死者の気配だけは暗闇でもはっきりと感じ取れた。
アリナはむやみに撃たなかった。和憲が対処できる相手には光を当て、横から来るものは声で知らせた。けれど、彼が危なくなれば、ためらわず引き金を引いた。
自分が襲われるまで待つつもりはなかった。
「左から二体!」
「分かった!」
「恩人様、後ろは段差! もう下がれないよ!」
入口に死骸が積もると、和憲は衣服を右手で掴み、通りへ放って足場を作った。その短い間も、アリナは銃口を下げず、死体の陰で手足が動けば光を向けた。
何度も噛まれた。
肩や腹から血が流れるたび、彼女の呼吸も止まりかけた。傷が塞がるのを見ても、次も同じように治るとは限らない。返事が遅れれば、感染の兆候ではないかと胸が冷えた。
「恩人様、聞こえてる!?」
「大丈夫!聞こえてる」
「だったら返事して。ちゃんと返事してよ!」
和憲は次から、短くても声を返した。
どれほど時間が経った頃だったか、通りの奥から、ほかとは違う気配が近づいた。
和憲が顔を向けると、人影の間で赤い目が揺れた。最初に戦った個体より身体が大きく、膨れた肩が周囲のゾンビを押し退けている。
「アリナさん。ちょっと、まずいのが来たかも……」
「見えてる。恩人様、下がれる?」
返事をするより早く、赤目が飛び出した。
和憲は左腕を持ち上げ、その身体を受け止めた。刃が胸元へ食い込んでも勢いは止まらず、足裏が舗装を擦った。右手で肩を押し返そうとしたところへ、脇から別の一体が組みつく。
足元には、倒れた死体があった。
踵が乗り上げ、膝が折れた。踏ん張ろうとしても、左腕は相手の身体に挟まれ、すぐには引き抜けない。濁った口が、刃越しに顔へ迫ってきた。
「うへっ……!」
アリナは銃の側面へ指を走らせた。
短い金属音とともに銃身が前方へ伸び、肩当てがせり出す。上面の照準器が起き上がる間に、彼女は扉の反対側へ身体を移していた。
狙撃銃を肩へ据え、柱へ身を寄せて構える。正面からでは、その向こうに和憲がいる。横へ位置を変えたことで、赤目の頭部が彼の輪郭から外れた。
「恩人様、そのまま顔を伏せて!」
和憲が顎を引いた。
照準の中で、赤い目が跳ねる。アリナは息を止め、引き金を引いた。
重い銃声が、車庫の壁を震わせた。
赤目の頭が横へ弾け、和憲へ覆いかぶさっていた身体から力が抜けた。彼はその隙に左腕を引き抜き、組みついていたもう一体を振り払った。
「……助かった」
「お礼はあと! 立てる?」
「なんとか」
和憲は赤目の死体を押し退け、どうにか立ち上がった。
アリナは彼の足が定まるまで照準を外さなかった。頬に当たる銃床の冷たさも、引き金から離した指の震えも、遅れて感じられた。
あと少し遅ければ、顔を噛まれていた。
アリナは一度だけ強く瞬きをし、次の影へ目を向けた。
和憲も、もう前へ出すぎることはなかった。
八つ当たりでしかないことは分かっていた。研究が実を結ばなかったことも、世界が壊れたことも、死者たちへ怒ってどうにかなるものではない。彼女が死んだと決まったわけですらなかった。
それでも刃を振るうたびに次を求めていた気持ちは、疲労と、背後から届く声の中で、少しずつ形を変えていた。
息は荒く、脚も肩も重い。それなのに肉体は傷つくたびに修復を始める。そこまでして生きようとする身体が腹立たしくなる瞬間もあったが、振り返れば、アリナも棚へ肩を預けていた。
アリナは傷めた足を庇いながら、銃を構え続けている。
和憲は入口から離れず、近づく気配を斬り倒し続けた。
空の色が変わったことにも、すぐには気づかなかった。
最後の一体を倒し、次に備えて腕を持ち上げたところで、和憲は動きを止めた。
新しい呻き声が聞こえない。
死骸の向こうに建物の輪郭が浮かび、その間から覗く空が薄く白んでいた。
「…………朝?」
アリナが入口へ寄り、彼の肩越しに空を見上げた。
「……うん。朝だよ」
声はすっかり掠れていた。
車庫の前から向かいの歩道まで、黒い残骸が重なっている。和憲は近づく気配がないことを確かめ、左腕を下ろした。
その途端、膝から力が抜けた。
「うおっ……」
「恩人様!」
入口脇へ尻から座り込むと、アリナが駆け寄って膝をついた。銃を脇へ置き、彼の顔と破れた服を繰り返し見比べる。
「ああ、大丈夫。ちょっと、脚が……」
「気分は? 寒かったり、熱かったりしない?」
「そう言うのはないな。疲れたくらいだな」
「本当に?」
「本当に」
もう刃は要らないと思うと、左腕が形を崩し、血に汚れた指が戻ってきた。
肩の服をずらせば、まだ新しい歯型が残っていた。けれど、見ている間にも傷の縁が寄り、痛みが薄れていく。
「……ゾンビになる気配はないな」
その呟きが消える頃には、傷はほとんど閉じていた。
和憲は息を吐き、アリナの持つ傍らの銃へ目を落とした。展開したままの長い銃身には、夜の間についた埃が薄く積もっている。
「……カッコつけといて、弾、使わせちゃったな。ごめん」
アリナの手が止まった。
ゆっくり顔を上げた彼女を見て、和憲も口を閉じた。青い瞳の縁に、涙が溜まっていた。
「……弾のことを謝ってほしいんじゃないよ」
アリナの声震えていた。
「恩人様を助けるために撃ったの。わたしが、撃つって決めたの。だから、弾を使ったことは、いいの」
言葉を区切るたび、喉の奥で息が引っかかった。アリナは一度唇を噛み、それでも和憲から目を逸らさなかった。
「わたしが危ないときだけ撃てって……そんなの、できるわけないでしょ。目の前で恩人様が噛まれてるのに、隠れて見てるだけなんて……!」
握った手が膝の上で震えていた。
「本当に、心配したんだから!」
張り上げた声が途中で崩れ、一粒の涙が頬を伝った。
「傷は治っても、感染したらどうしようって。返事がなくなったらどうしようって、ずっと怖かった。あの赤目に押さえつけられたときだって、間に合わなかったらって……!」
和憲は困って頬を動かした。
「いや、ほら。でも全然なんともないし、傷も――」
そこまで言いかけて、和憲の言葉が止まった。
アリナは笑っていなかった。
夜の間、何度も聞こえていた声が、どれほどの恐怖を押し込めたものだったのか、今になって和憲は理解した。
冗談にすれば空気が軽くなると思ったが、彼女は軽くしてほしくて話しているのではなかった。
和憲は視線を落とし、口を開き直した。
「……ごめん」
言い訳も、笑いもつけなかった。 アリナはすぐには返事をせず、唇を結んだまま何度か呼吸を整えた。彼の肩から服を戻す指にも、まだ力が入っていた。
和憲は膝の上で左手を開いた。乾いた血が指の節にこびりつき、曲げるたびに細かく剥がれる。その下には、もう傷のない皮膚があった。
「……昔のこと、ちょっと思い出してたんだ」
アリナの指が止まった。
和憲は自分の手を眺めたまま、言葉を探すように少し間を置いた。
「前はさ、誰かが困ってても、オレに何ができるんだろうなって、考えてるうちに終わることが多くて。出ていって、余計な手間を増やしてもなあ、とか、うだうだしてた」
慰めを求めるような口調ではなかった。
そんなこともあったと、昔の暮らしの一部を確かめているような声だった。
アリナは口を挟まずに待った。名前を尋ねたときには話してくれなかった男が、途切れがちに、自分のことを話そうとしていた。
「でも……今はこの腕があるし、傷も治るし。オレが外にいれば、アリナさんは足を休められるだろ。弾だって、残しといた方がいいんだろうしな」
和憲はそこで顔を上げた。
目が合うと、少しだけ申し訳なさそうに眉が下がった。
「……少しでも、アリナさんの役に立てればと思ったんだよ」
アリナの唇がわずかに開いた。
返そうとした言葉は、すぐには声にならなかった。
和憲が自分の足を気にしていたことは知っていた。安全な場所へ入るよう言われたときも、守ろうとしてくれているのだとは分かっていた。
けれど、何度噛まれても前に立ち続ける姿を見ているうちに、どうして自分をそこまで粗末にするのか、そればかりが分からなくなっていた。
「いろいろ教えてもらったしな。オレが分からんことも、アリナさんは知ってるし。だから、できることくらいは、やっとこうかって」
和憲は血に汚れた手へ目を戻した。
「……まあ、結局、また助けてもらったけど」
口元に浮かびかけた苦笑を見て、アリナは首を横に振った。
「……残念そうに言わないでよ」
和憲が顔を上げた。
アリナは膝の上で握っていた手をほどき、彼の左手へそっと重ねた。血でざらついた皮膚の感触が、指の腹に伝わった。
「役に立ってくれたよ。施設の中でも、今夜も。恩人様がいてくれたから、わたし、こうしてお話できてるんだよ」
和憲は重なった手を見下ろした。汚れる、と言いたそうに指を動かしたが、アリナが離さずにいると、そのまま大人しくなった。
「でも、助けてもらう度にそんなに傷だらけになられたら……ありがとうって言う前に、怖くなっちゃうよ」
言い終える頃には、声がまた少し細くなっていた。
アリナはゆっくり息を吐き、和憲の手の温かさを確かめた。あれほど血を流したのに、今も温かい。こちらの話を聞き、困ったような顔までしている。それを見ていると、胸の奥に詰まっていたものが少しずつ緩んでいった。
同行する理由なら、すでに与えられていた。彼の変化を見張り、必要なことを報告する。それが自分の任務だった。
だが、返事があるまで何度も呼んだことも、危ない場所から戻ってきてほしかったことも、誰かに命じられたからではない。
和憲は、その事情を何も知らないまま、自分の役に立とうとしていた。
重ねた手に、わずかに力が入った。
言えないことがある。それでも、この場で伝えようとしている気持ちまで、嘘にしたくはなかった。
「わたしのこと、考えてくれたのは嬉しいよ。でもね、恩人様。わたしだって、恩人様の役に立ちたいの」
「……そうなのか」
「そうだよ。そうじゃなかったら、こんなに怒らないでしょ?」
少しだけ眉を寄せてみせると、和憲は返す言葉がないように口を閉じた。その顔を見て、アリナの口元にも、ようやく小さな笑みが戻った。
「自分は助ける側にまわるのに、わたしには見ててほしいなんて、ずるいよ。わたしだって、助けてもらうだけじゃ嫌だもん」
「……そういうつもりじゃ、なかったんだけどな」
「うん。だから、次からは一緒に考えよう?」
アリナは和憲の手を軽く叩いた。
「一人で何とかするって決める前に、わたしにも相談して。危なかったら呼んでくれていいし、助かったなら、そう言ってくれればいいの。弾のことより、まずはそっち」 「……分かった」
和憲はしばらく重なった手を見ていた。
自分が前へ出れば、その分だけ彼女が安全になる。そう考えていた。けれど、身体を隠せる場所に入れたからといって、怖い思いまでさせずに済むわけではなかった。
頼ることまで望まれるとは、思っていなかった。
「分かった。次は、ちゃんと相談する」 「うん。約束だからね」
アリナは彼の顔を確かめてから、ようやく手を離した。 和憲は傍らの長い銃身へ目をやり、今度は彼女へ向き直って言った。
「あの赤目のヤツに押さえられたとき、本当に助かった。ありがとう」
アリナは一度、ゆっくりと頷いた。瞳はまだ潤んでいたが、口元には先ほどよりも確かな笑みが浮かんでいた。
「……うん。そのお礼なら、受け取る」
銃を手元へ引き寄せ、側面の機構を操作する。小さな金属音を立てて銃身と肩当てが畳まれ、武器が元の形へ戻った。
留め具を確かめて膝に置くと、彼女も隣へ腰を下ろし、車庫の壁に背中を預けた。
肩が触れそうな距離だったが、どちらも離れなかった。
雲の切れ間から朝日が差し始めていた。
廃墟の壁も、放置された車も、一晩かけて斬り捨てた死骸も、同じ光の中へ輪郭を現していく。和憲は眩しさに目を細め、その明るさの中で、また想い続けてきた女性の顔を思い出した。
生きているなら、今どこにいるのだろう。同じ朝日を、夫と娘と三人で見ているだろうか。 そうだったらいいと思った。
自分を忘れていても、あの頃のように笑えているなら、それでよかった。もう一度名前を呼んでもらいたい気持ちは消えなかったが、そのために生きていてほしいわけではなかった。
隣で、アリナが長く息を吐いた。
和憲は膝の上の左手へ目を落とした。さっきまで重ねられていた手の感触が、まだそこに残っている気がした。
誰かの無事を願う気持ちなら、分かっていたつもりだった。それなのに、自分へ向けられた同じ気持ちには、随分と鈍かったらしい。
遠くで何かが軋み、アリナが顔を上げた。和憲も同じ方へ意識を向けたが、近づく気配はなかった。
「大丈夫。何も来てない」
「……そっか」
今度こそ、彼女の肩から力が抜けた。 二人はしばらく何も話さず、冷えた身体に朝日が当たるのを待っていた。
それが和憲にとって、壊れた世界で迎える最初の夜明けだった。




