第7話 八つ当たり その1
研究施設を離れてからも、自らに下された任務を遂行すべく、アリナは和憲の傍らを歩いていた。
ひとまず休める場所と着替えを探そうという話になったものの、敷地の外へ出て間もなく、二人は通りにたむろしていたゾンビの群れに行く手を塞がれた。引き返す側にも姿が現れ、結局、和憲が前へ出て、アリナがその取りこぼしを撃つ形になった。
最後の一体が倒れたときには、西の空に残る光が、建物の陰を長く引き延ばしていた。
「……これで、おしまい?」
銃を構えたまま尋ねるアリナに、和憲はすぐには答えなかった。車の陰や建物の奥へ意識を向け、近づく気配がないことを確かめてから、ようやく左腕を下ろした。
「多分。近くには、もういないと思う」
「そっか……。お疲れさま、恩人様」
弾んだ声にも、さすがに疲れが混じっていた。
和憲が腕へ意識を向けると、肘から先を形作っていた異形の輪郭が崩れ始めた。硬い刃が肉へ溶け込むように縮み、その下から人間の皮膚が戻ってくる。太い指が五本に分かれたところで曲げてみれば、関節は何の支障もなく動いた。
アリナは銃の残弾を確かめながら、その変化を横目で追っていた。最初のように声こそ上げなかったが、指が戻りきるまで何度も視線を寄越している。
腕の奥の熱が薄れるのを感じながら、和憲は足元へ目を落とした。
首を失ったものや胴を断たれたものが、ひび割れた舗装に折り重なっている。黒ずんだ血がその隙間へ溜まり、腐臭と鉄臭さが湿った空気に淀んでいた。
かつては、人間だったものだ。
それを斬る事に慣れたつもりはない。ただ、ようやく終わったという実感が、ほかの感情より先に、荒い呼吸の隙間へ入り込んできた。
「少し、座ってもいいか」
「もちろん。あっちにしよう? ここだと足元、ひどいから」
アリナが示したのは、シャッターの下りた店の前だった。血の流れていない歩道の縁へ腰を下ろすと、戦っている間は気にならなかった身体の重さが戻り、和憲の背中が丸くなった。
隣ではアリナも、傷めた足へそっと触れていた。和憲が目を向けると、彼女は気づいて笑った。
「平気だよ。ちゃんと歩けてたでしょ?」
「そうか?無理してないなら、いいけど……」
「恩人様もね。ずっと前に出てくれてたんだから、少し休んで」
そう言って、彼女は街路へ目を戻した。
和憲は膝に肘を置き、息を吐いた。全身を駆け巡っていた力が静まり、その空いたところへ、それまで考えずに済んでいたものが浮かび上がってきた。
『和憲くん、ま〜た昼飯一人?』
不意に蘇った声に、顔を上げた。
「どうしたの、恩人様?」
隣でアリナがこちらを見ていた。その青い目を認め、和憲はゆっくり視線を落とした。
「いや。何でもない」
耳に残っていたのは、記憶の中の声だった。その向こうには、もう遠い昔のように感じられる昼休みの光景があった。
綺麗な人だった。
顔立ちだけではない。悪戯っぽく目を細めて笑う仕草や、からかう言葉にも棘を感じさせない声が好きだった。何を話せばいいのかと身構えているうちに、彼女の方からどうでもいい話を始めてしまう。
こちらが面白い返事をできなくても、気まずそうな顔一つせず、別の日にはまた同じように名前を呼んでくれた。
彼女には夫がいて、幼い娘もいた。
時折聞かされる家族との暮らしは、和憲にとって馴染みのない遠い世界の出来事だった。娘の話をするときに目元が柔らかくなるのを見るのも好きだったし、夫の話が出れば、自分の入り込む場所がないことも分かっていた。
だから、どうにかなりたいとは望まなかった。少なくとも、望まないようにはしていた。
それでも昼休みが近づけば、今日は声をかけてもらえるだろうかと考えた。話せそうな出来事は覚えておこうとしたし、その機会がなかった日には、一人で食べる弁当がいつもより味気なく感じられた。
彼女にとっては、誰にでも向ける程度の親切だったのだろう。和憲も分かっていたつもりだったが、名前を呼ばれることが、くだらない話を聞いてもらえることが、どれほど支えになっていたかまでは、きっと知られていない。
パンデミックが始まってからも、真っ先に気になったのは彼女だった。
画面に表示される死者数が増え、感染地域を示す地図が、昨日まで無事だった場所まで赤く染めていく。病院の機能不全や都市の封鎖を伝える声を聞くたび、彼女は大丈夫だろうかと考えた。
娘は無事なのか。夫とは一緒にいられているのか。三人で逃げられていればいいと思う一方で、その先もいずれ同じことになるのではないかという恐れが離れなかった。
ワクチンさえ間に合えばと、何度考えたか分からない。
だから、実験体になると決まったとき、胸の奥でほんの少しだけ心が躍った。
どんな理由で選ばれたにせよ、役に立てる可能性がある。突然いなくなっても惜しむ人間のろくにいない自分が、誰かを助けるために使われる。大した使い道もなかった人生なのだから、一人でも多く助かるなら、その方がよほどましだった。
その一人の中に彼女がいて、夫と娘も助かるのなら、自分の身体がどうなっても構わない。
そう思っていたのは嘘ではない。けれど、それだけだったと言い切れるほど、和憲の願いは綺麗でもなかった。
『和憲くんのおかげだったんだって?』
いつか全部が終わって、また会えたなら。少し驚いた顔でそう言われて、うまい返事もできずにいる自分を想像した。
大したことはしていないと答えながら、本当は次の言葉を待っているのだろう。
『凄いじゃん。よく頑張ったね、和憲くん!』
あの笑顔で、そんなふうに言ってもらいたかった。
彼女の暮らしを変えてほしかったわけではない。ただ、その記憶の片隅に、いつも一人で昼飯を食べていた男とは少し違う自分が残ってくれたら、生まれてきたことにも多少は意味があったと思えそうだった。
我ながら幼稚な期待だった。それでも、その場面を思い浮かべると、ありとあらゆる苦痛と痛みを伴う実験の数々も耐えられる気がした。何度身体を切り刻まれても、何を身体へ入れられても、その先にワクチンがあるならいい。そんな思いを繋ぎ合わせながら、研究施設での日々を過ごした。
そうして耐えた先にあったのが、この街だった。
膝の上で手を握ると、太い指が掌へ食い込んだ。
彼女がどこにいるのか、生きているのかさえ分からない。夫や娘と一緒にいられているのか。それとも、足元に転がるものと同じ姿に――。
そこまで考え、拳へさらに力を込めた。
「馬鹿だな、ホント」
乾いた呟きに、アリナが顔を向けた。
「……恩人様?」
返事はなかった。
何かになれるかもしれないと期待して、行き着いた先がこれだった。身体をどれほど弄られても耐えたのに、何を守れたのかと問われれば、答えられるものは何もない。
顔を上げると、重たい雲が夕暮れの光をくすませていた。その空に彼女の笑顔を思い浮かべると、胸の奥に、戦っていたときとは違う痛みが残った。
「……生きてて」
声が途切れた。
「……欲しいな」
アリナはすぐには言葉を返さなかった。
誰のことなのかは分からない。けれど、先ほど自分を美人だと言って照れていたときとも、傷を眺めて不思議がっていたときとも違う横顔だった。
「……会いたい人がいるんだね」
静かに尋ねると、和憲は少しだけ彼女を見た。
「そうだな……」
それ以上は話さなかった。アリナも名前や間柄を聞かず、彼と同じ方へ目を向けた。
「どこかで、無事にいてくれるといいね」
「……ありがとな」
和憲は礼を言って小さく頷いた。
それと同時に、静けさの奥から、和憲は不快な感覚が近づいているのに気づいた。
姿より先に身体の内側がざわつき、やがて低い呻き声と、靴底を引きずる音が建物の間から届いてくる。
しかも、一方向ではなかった。
「うへ……またかよ」
アリナも腰を上げ、銃を抜いた。
「どっち?」
「向こうと……あっちも。結構いるな」
崩れかけた店舗から一体が現れ、横転した車の向こうでも影が揺れた。路地には二体、三体と続き、蓋の外れたマンホールからは、腐った指に続いて頭が這い上がってくる。
「もう少し、物思いに耽ってたい気分だったんだけどな」
「その気持ちは分かるけど、場所を変えよう? わたし、弾もそんなに余裕ないよ」
アリナは通りの両側を見比べた。来た道にも人影が現れ始めている。走り抜けるには距離があり、傷めた足で追いつかれずに逃げられるかは怪しかった。
和憲は傍らの建物へ顔を向けた。
「あそこ、中にはいないと思う」
小さな車庫だった。アリナが半開きの脇扉から光を差し入れると、奥には古い荷台と空の棚が見えた。窓は高く、道路に面したシャッターは閉じている。
「恩人様も来て。扉を閉めて、何かで押さえれば――」
「オレがここで食い止めるから、アリナさんは中に隠れてろ」
アリナは振り返った。
聞き間違えたのかと思った。けれど、和憲はすでに通りへ向き直り、近づいてくる影を数えるように見渡している。
「待って。恩人様、一人で相手するつもり?」
「この入口なら、後ろへ回られにくいだろ」
「そういう話じゃなくて! さっきだって、危なかったところ、いっぱいあったでしょ?」
和憲は彼女の銃へ目を落とし、それから傷めた足を見た。
「弾だって貴重だろうし。アリナさんがヤバい時だけ撃ってくれ」
「……わたしが?」
問い返すと、和憲は当然のように頷いた。
「こっちを抜けて、そっちへ行ったヤツとかな」
「じゃあ、恩人様が危なくなったときは?」
和憲は左手を軽く握った。
「こっちはこっちで何とかするよ」
「何とかって……」
アリナは銃を握り直した。彼が言っているのは、危ないところを補ってほしいという話ですらなかった。自分のために弾を使わず、彼女自身を守るために残せと言っているのだ。
胸の傷が塞がったからといって、何をされても平気だと決まったわけではない。それなのに、その不確かな身体を当てにして、一人で引き受けようとしている。
言い返しかけたところで、角を曲がる影が増えた。話している間にも距離は縮まり、逃げるために通りを横切る余地はなくなっていた。
アリナは唇を結び、車庫へ一歩入った。扉の陰へ身を寄せたが、銃口は外へ向けたままだった。
「……中にはいる。でも、恩人様が危なくなったら、わたしは撃つからね」
「いや、だから――」
「そこは譲らないよ。これで死んだりしたら怒るから!」
和憲は肩越しに振り返り、困ったように眉を動かした。
「それは怖いな」
それから、ふと考え直すように首を傾げる。
「いや、待てよ?アリナさんみたいな美人からの説教とか、むしろご褒美なのでは……?」
「こんなときまで、なに考えてるの!?」
呆れた声が車庫に響いた。頬が熱くなったことまで腹立たしくて、アリナは眉を吊り上げたが、和憲はもう前へ向き直っていた。
「まあ、なるべく怒られないようにするさ」
「なるべくじゃなくて、ちゃんと戻ってきて!」
和憲は振り返って頷き、左腕へ意識を向けた。
皮膚の下で異物が脈打ち、指が形を失っていく。静まりかけた熱が肩の奥へ満ち、黒ずんだ刃が夕暮れの光を鈍く返した。
「どうせ、襲って来るんだったら……」
低く零れた声は、背後のアリナには聞き取れなかった。
想い続けてきた人の安否も分からないまま、こんな身体になって生き残っている。そのやり場のない思いが、近づく呻き声に押されて言葉になった。
「オレの八つ当たりに付き合ってくれ」
結局、なんの役にも立たなかった自分を払拭するように首を小さく振った後、和憲は迫りくる屍を睨見つけた。




