第6話 目覚めと出会い その6
アリナは急かさず、その横顔を窺った。目を覚ましたばかりで、身体も周囲も以前とは変わっていたのだ。受け答えができるからといって、記憶まで整理されているとは限らないのかもしれない。
「……すぐに出てこないなら、今はいいよ。無理に聞くつもりはないから」
「すまん。ありがとう」
和憲がそれ以上は何も言わなかったので、アリナも問い直さなかった。
ただ、そこで話を終える代わりに、彼女は口元へ楽しげな笑みを浮かべた。
「でも、名前がないと不便だし……そうだ。恩人様って呼ぶね!」
「……恩人様?」
聞き慣れない呼び方を確かめるように、和憲が繰り返した。その眉がわずかに寄ったのを見て、アリナはますます笑みを深めた。
「うん。わたしを助けてくれたから」
「いや、大げさじゃないか?」
「大げさじゃないよ!あのとき来てくれなかったら、わたし、こうしてお話できてなかったかもしれないんだよ?」
明るく答えながらも、彼女の目は和憲から逸れなかった。
脚が抜けず、赤い目が迫ってきた瞬間のことは、まだ鮮明に覚えている。そこへ割って入った背中も、その実験着に自分が開けた穴も。呼び方には少しばかり彼を困らせたい気持ちが混じっていたが、助けられたことへの感謝は、それとは別に確かにあった。
「だから、わたしにとっては恩人様。それでいいでしょ?」
笑顔で言い切られ、和憲は恥ずかし気に頬を掻いた。
「様までつくとなあ……」
「つけたいんだもん。さっきはわたしの名前に『さん』をつけたでしょ?」
「あれとは、ちょっと違う気がするけど」
「細かいことは気にしないの、恩人様!」
さっそく呼ばれて、和憲は居心地が悪そうに肩を動かした。アリナはその反応に小さく笑ったが、からかいすぎないうちに、声を少し柔らかくした。
「名前を教えてくれたら、そっちで呼ぶよ。それまでは、これでいい?」
「分かった。好きに呼んでくれ」
「うん!じゃあ、そうするね」
満足そうに頷いたアリナの隣で、和憲はまた左手へ目を落とした。呼ばれ慣れない言葉がまだ耳に残っているのか、指を曲げ伸ばししながら、困ったように口元を歪めている。
その横顔を眺め、アリナは笑みを残したまま鞄を膝へ引き寄せた。
名前は、結局分からなかった。それでも、自分を助けてくれた人だということだけは、もう分かっていた。
和憲は裂けた袖を摘まみ、残っていた細い糸を引っ張った。
「……これ、縫ってどうにかなるかな」
「恩人様、それはもう素直に着替えよう? 縫うところを探す方が大変だよ」
「だよなあ……」
納得して布を離すと、両腕を膝へ戻した。
アリナは鞄を引き寄せ、留め具を確かめた。話していないことも、話すつもりのないこともあった。男について確かめたいことも、何から手をつけるべきか決められないほど残っている。
けれど、考えをまとめようとするたび、狭い通路で前へ出た背中が浮かんだ。彼の腕が変わり始めたのは、自分を庇った、そのあとだった。
隣へ目を向けると、和憲は彼女の銃を見ていた。
「そう言えば、それ、変形は一瞬なんだな」
「銃? うん、慣れればすぐだよ!」
「今度はじっくり、変形するとこ見てみたいな。どういう構造になってるのか気になるなー」
「あの時は見てる余裕、なかったもんね。恩人様の腕も、あっという間に戻っちゃったけど」
「オレのは、仕組みが分からないから」
「わたしは、むしろ恩人様の身体の仕組みを知りたいよ!」
和憲は曖昧な顔をして、夕陽へ視線を戻した。銃には興味を示すのに、自分の身体は分からないままでいいらしい。記憶が曖昧だとしても、この呑気さまでそのせいにしていいのか、アリナには判断がつかなかった。
風が吹き、彼女の長い亜麻色の髪と、和憲の裂けた袖を揺らした。
足を確かめようとアリナが屈んだとき、鞄の開きかけた収納口から、白いものが滑り落ちた。丸い耳のついた小さなぬいぐるみが舗装を一度転がり、和憲の足元で止まる。
和憲の右手が動きかけ、途中で止まった。
「……これ、オレが触ると汚れるな」
血のついた指を見て、拾いやすいように足を引いた。
「あっ、ありがと。こら、勝手に飛び出しちゃだめでしょ」
アリナは白い熊を拾い上げ、丸い腹の埃を払った。潰れた片耳を整え、縫い目に引っかかった草を摘まむ。裏返して汚れを確かめてから顔を上げると、和憲がその手元を見ていた。
鞄へ戻そうとした指が、わずかに止まった。
「……なあに? こういうの持ってるの、意外だった?」
明るく尋ねたが、熊を支える手は胸元へ寄っていた。荷物になるだけだとか、子供でもあるまいしとか、そんなことを言う人間もいる。笑って流すつもりではあったが、今はあまり聞きたくなかった。
和憲は熊の顔を眺め、ぽつりと言った。
「いや。可愛くていいな、それ」
アリナは瞬きをした。
男は丸い腹と短い手足を見て、納得したように頷いている。その顔から熊へ視線を戻した途端、彼女の口元が緩んだ。
「……ふふっ。そっか、恩人様も、そう思うんだ」
笑いを堪えきれず、肩が小さく揺れた。血塗れの実験着を着て、つい先ほどまで異形の刃を振り回していた男が、同じ呑気な顔で白い熊を褒めている。その取り合わせがおかしくて、同時に、少し嬉しかった。
「変なこと言ったか?」
「ううん! ただ、恩人様の口から『可愛い』って出てくると思わなくて。ごめんね、びっくりしちゃった」
和憲は胸元を見下ろした。裂けた袖から太い腕が出て、血の乾いた布が腹の上で皺を作っている。
「まあ、似合わないだろうけど……」
少し口を曲げてから、熊へ目を戻した。
「ぬいぐるみが可愛いのは事実だしな」
「うん!そうだね、可愛いよね」
今度の返事は、素直に口から出た。
からかわれたと怒るでもなく、彼女に合わせて笑うでもない。自分に似合うかどうかと、熊が可愛いかどうかは、別の話だと思っているらしかった。
「その、ちょっと座りにくそうな感じとか。いいと思うけどな」
「あ、分かる? お腹が丸くて、ころんってなっちゃうの。でも、背中を支えてあげれば、ちゃんと座れるんだよ」
「そうなのか」
頷かれて、アリナは熊を膝へ座らせ、背中へ指を添えた。
「ほら、こうやって」
「おお。座ったな」
得意になって見せてから、何をしているのだろうと思った。今日会ったばかりの男に、廃墟の玄関先でぬいぐるみの座らせ方を教えている。
それでも、急いでしまおうとは思わなかった。片耳をもう一度整える間も、男の視線は気にならなかった。
自分が笑われても、こちらの大事なものを笑い返さなかった。ただ可愛いと思って、そう言った。そのことが、警戒していた肩から少しずつ力を抜いていった。
「……恩人様って、やっぱり変わってるね」
「褒めたら、変だと言われたな」
「悪い意味じゃないよ!ほんとに、ね」
和憲は首を捻ったが、追及せず街へ目を戻した。
アリナはその横顔を眺めてから、熊を鞄へ収めた。耳が折れないように位置を直し、今度は留め具をきちんと閉じる。
身体の異常も、身を投げ出した理由も、納得できたわけではない。自分の事情を打ち明けられる相手かどうかも、まだ分からなかった。
それでも、鞄を下ろした場所は、先ほどより少しだけ男の近くになった。
和憲は気づかず、また裂けた袖の糸を摘まんでいる。アリナは笑いそうになり、今度は唇の端で堪えた。
二人の足元まで夕陽が伸びていた。まだ名も知らない男と並び、彼女はしばらく、廃墟の窓に残る橙色の光を眺めていた。
やがて、向かいの建物の影が、二人の足元へ届き始めた。窓に残っていた橙色も少しずつ薄れ、吹き抜ける風に、日中とは違う冷たさが混じっている。
アリナは鞄の肩紐を手繰り寄せると、傷めた足へゆっくり体重を移しながら立ち上がった。
「恩人様、ちょっとだけ外してもいい?」
「どうかしたか?」
「ちょっと用事。すぐ戻るから、ここで待っててね」
和憲も腰を浮かせかけたが、アリナが片手を上げると、その動きを止めた。
「一人で大丈夫か?」
「大丈夫だよ。すぐそこだから。……それとも、女の子の用事についてくる?」
少し首を傾げて尋ねると、和憲は間を置いてから腰を下ろした。
「……気をつけてな」
「うん。覗いちゃだめだからね、恩人様!」
ひらひらと手を振り、アリナは建物の角へ向かった。振り返ったときには、和憲はもう街の方を眺めていた。こちらを気にしないようにしているのか、膝へ両手を置いて、妙に行儀よく座っている。
その後ろ姿に、アリナの口元が少し緩んだ。
角を曲がると、表通りからの風が途切れた。建物の側面には室外機が並び、倒れた金網の向こうで枯れ草が揺れている。彼女は足元の硝子を避け、さらに奥の、壁が内側へ窪んだところまで進んだ。
一度立ち止まり、来た方へ耳を澄ませる。
足音はついてこなかった。和憲の座っている玄関先も、ここからでは見えない。声を抑えれば、通り抜ける風の音に紛れるだろう。
アリナは鞄の内側へ指を差し入れ、仕切りの奥に収めていた小型の無線機を取り出した。慣れた手つきで操作し、音量を絞って耳元へ寄せる。短い雑音が二度続いたあと、女の声が届いた。
『……アリナか。連絡、遅かったやんか』
「ごめんね。ちょっと、いろいろあって」
『その“いろいろ”を聞くための無線や。今、話せるんか?』
「うん。少しだけなら。報告したいことがあるの」
声の明るさはそのままに、アリナは壁の角へ目を向けた。誰もいないことを確かめてから、送信のスイッチを押す。
「崩壊した研究施設の跡地で、生きている男の人を見つけたよ。施設の中にいて、実験着を着てた。本人は、目を覚ましたばかりみたい」
『生存者か。名前は?』
「まだ聞けてないんだ。記憶が混乱してるのか、言いたくないのかも……だから名前は分からない」
『ほな、そっちは後でええ。ほかに分かったことは?』
アリナの指が、無線機の側面を握り直した。
「左腕が、刃に変わるの」
向こうの声が止まった。かすかな雑音だけが続き、アリナは返事を待ちながら、壁際に積もった落ち葉へ視線を落とした。
『……武器をつけとる、いう話やないな?』
「うん。手も腕も形が変わって、大きな刃になるんだよ。わたし、すぐ近くで見たから、そこは間違いない。ゾンビと戦ったあとには、普通の腕に戻ってた」
『自分の意思で変えとるんか』
「そこまでは、まだ。本人も仕組みは分からないって言ってる。ただ、わたしを助けてくれたときに変わったの。刃になったあとも普通にお話出来たし、わたしに襲いかかってきたりはしなかったよ」
狭い通路へ割って入った背中が浮かんだ。変わっていく腕を、自分も初めて見るような顔で確かめながら、それでも和憲は前に立っていた。
『……助けてもろたんか、あんた』
「そうなの。だから、恩人様って呼んでるよ」
『名前が分からんからいうて、ずいぶん立派な呼び名つけたな』
「ぴったりでしょ? 本人は、様はいらないって顔してるけどね」
笑い声が表へ漏れないように、アリナは口元を手で覆った。
『それで。その恩人様は、どんな様子や』
「え〜っと、なんて言えばいいんだろう?……とっても、のんびりしてる、かな?」
『……のんびり?』
女が同じ言葉を繰り返した。そのあとに続いた沈黙には、先ほどとは違う戸惑いがあった。
『アリナ。左腕が刃になる男の話をしとるんやで』
「そうだよ。その人が、とってものんびりしてるの」
『いや、そこをもう一遍言われてもな。もうちょい、ほかにあるやろ』
「でも、大事なことだと思うんだけどなあ。自分の腕があんなふうになったのに、裂けた服を縫えないかなって気にしてるんだよ? それに、わたしのぬいぐるみを見て、可愛いって褒めてくれたんだ!」
話しているうちに、白い熊を眺めていた顔が思い出された。あれほどのことがあったあとで、ぬいぐるみが座っただけのことに、感心したように頷く男だった。
『……ぬいぐるみ』
「うん。お腹が丸くて、座りにくそうなところがいいんだって。ちょっと分かる気がしない?」
『知らんがな。熊の品評会やっとる場合ちゃうねん』
低い声で返され、アリナは肩を小さく揺らした。
「とにかく、話はちゃんと通じるし、危ないことをしようとしてる様子もないよ。わたしにも親切だし」
『そら分かった。ただ、あんたに親切なんと、危険がないんは別の話や。そこは分けて見とき』
「うん。それは、分かってる」
アリナは笑みを薄く残したまま、無線機を耳へ寄せ直した。
風に押された落ち葉が、靴の先へ触れて止まった。建物の向こうからは、物音ひとつ聞こえてこない。和憲はまだ、あの場所で大人しく待っているのだろう。
『アリナ。その男に同行し。そのまま監視を続けてや』
女の口調から、先ほどまでの呆れた響きが消えていた。
『どこへ向かうか、何をするか。腕が変わる前後の様子も、できる範囲で確かめとき。せやけど、調べるために無理に戦わせたりはせんでええ』
「了解。恩人様の傍に居て様子を見ておけばいいんだね」
『それと、左腕以上の変化が出たら、すぐに報告し。右腕でも、身体のほかの場所でもや。見た目だけやなく、言動がおかしなった時もな。些細なことやと思って、後回しにせんように』
「うん、分かった。変わったことがあったら、ちゃんと知らせるよ」
返事をしながら、アリナは通りへ戻る道を見た。
監視。そう言われれば、これから彼の隣にいることには、はっきりとした理由がつく。まだ分からないことだらけの男を見ているのだから、するべきことも間違ってはいないのだろう。
ただ、あの男の出会ってから今に至るまでの行動を、報告のために覚えていたわけではなかった。
「それじゃ、そろそろ戻るね。あんまり遅いと、恩人様が心配して探しに来ちゃうかもしれないから」
『……また、ずいぶんと懐いたなあ』
「ふふ、だって文字通り命の恩人様だもん♪」
明るく答え、アリナは壁から背を離した。無線機をしまおうと指を動かしかけたところで、向こうから、まだ通信を切るなと短く呼び止められる。
『……頼んだで、アリナ。そいつが“エデン”にとって脅威となるか、必要な存在になるか――よう見極めとかなあかんからな』




