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第5話 目覚めと出会い その5

 街路へ目を配りながら、アリナはしばらく黙っていた。和憲の指が左の掌を擦るのをやめ、両手が膝の上へ落ち着くまで、急かすようなことは言わなかった。

 風に押された紙片が道路を渡り、放置された車の下へ消えた。追ってくる足音はない。その静けさを確かめてから、彼女は男へ顔を向けた。


「ねえ、おじさん。一つ、聞いてもいい?」


 和憲が顔を上げた。


「さっき、どうしてわたしを庇ってくれたの?」

「いや、ヤバそうだったから」

「うん、それは分かるんだけど……わたし、おじさんを撃っちゃったんだよ?」


 和憲は胸元へ目を落とし、不思議そうに彼女を見た。


「さっきも話したと思うけど……」

「話したよ。でも、怒らないのと、助けに戻ってくるのは違うでしょ?」

「ゾンビだと思ったんだろ?オレも逆なら撃ってたと思うし」

「だからって、自分が噛まれそうになるところまでいく?」


 和憲は少し考え、赤目が現れた通路の方へ目をやった。


「まあ、あのままだと噛まれてただろうし。放っておいても後味悪いだろ」


 それで説明が済んだらしく、視線が戻ってきた。

 アリナは続きを待ち、やがて軽く唇を結んだ。彼の中では、脚が抜けず、逃げられず、襲われそうになっていたことだけで、助ける理由になっているらしい。


 ここへ来るまでに会った人間たちの顔が浮かんだ。親切そうに道を教え、対価を受け取ったあとで仲間の待ち伏せる場所へ誘導した男。困っているふりで近づき、荷物へ手を伸ばした者。助け合いを説きながら、見返りの話になると態度を変えた者もいた。


 明るく話しているからといって、差し出された手をそのまま取るわけにはいかない。相手の望みを確かめる前に借りを作らないことは、身を守るための習慣になっていた。


 目の前の男は、何を求めているのだろう。物資か、同行者か。それとも、まだ言い出していない何かがあるのか。

 考えかけたところで、和憲の視線が彼女の足元へ落ちた。


「足、腫れてないか」

「え? ああ、大丈夫。ちょっと挟んだだけだから」

「そっか。痛くなったら、言った方がいいぞ」

「うん。……誰に?」


 和憲は少し黙った。


「……ごめん、そこまで考えてなかった」


 少し辺りを見回した後、自分で言っておいて困ったように眉を寄せる。その顔に、アリナは思わず息を漏らした。


「そこ、大事なところじゃない? もう、おじさんってば」

「そうだな」

「分かった。無理はしないよ。痛くなったら、ひとまずおじさんに言うね」

「ああ」


 それなら自分にもできると思ったのか、男は頷いた。何をしてくれるのかまでは決まっていないのに、アリナもそれ以上は聞かなかった。

 周囲へもう一度目を配り、銃を携行具へ収めた。


「おじさん。改めて、ごめんね。感染者だと思ったけど、ちゃんと確かめられなかったのは、わたしだから」


 和憲が目を上げたところへ、まっすぐ言葉を続ける。


「それと、助けてくれてありがとう。おじさんが来てくれなかったら、本当に危なかった」


 疑問が解けたわけでも、警戒を捨てたわけでもなかった。それでも、謝罪と礼を曖昧なまま済ませたくはなかった。

 和憲は居心地が悪そうに肩を動かした。


「オレも、撃ってもらって助かったし」

「えっ?」

「ああ、赤い目のヤツの方な」

「そっちね! びっくりした、最初のことかと思っちゃった!」


 胸を押さえたアリナをよそに、和憲は左腕を眺めて口を開いた。


「こっちこそ色々とごめんな。あの時、こっちがこうなるって分かってたら、もう少し何とかできたかもしれないけど」

「おじさん、腕が変わるの知らなかったんだよね?」

「びっくりしたよな、あれ」

「あれで!? 新しい道具を見つけたみたいな顔してたよ?」

「そうか?」


 真顔で聞き返され、アリナは笑い混じりに息をついた。本人なりには驚いていたらしい。それ以上確かめるのはやめ、少し間隔を空けてコンクリートの縁へ腰を下ろした。

 痛む足を楽な位置へ置くと、ようやく身体の力が抜けた。灰色の雲の隙間から傾いた陽が差し込み、壊れた窓や車の屋根を薄い橙色に染めている。こんな街にも夕暮れは来るのだと、和憲はぼんやり思った。


「そうだ、まだ名乗ってなかったね」


 隣の声に顔を向けると、アリナが自分を指さした。傾いた陽の光が亜麻色の髪を照らし、片目を隠した前髪の縁を淡く透かしている。


「わたし、小之瀬(このせ)アリナ。アリナって呼んでくれたらいいよ!」

「えっと、小之瀬さん、か」


 和憲が頷くと、アリナは小さく首を傾げた。


「あれ? 名前でいいのに。アリナだよ、ア・リ・ナ」


 聞き取りにくかったのかと思い、もう一度はっきり告げる。ところが和憲は、すぐには呼び直さなかった。膝に置いた手へ視線を落とし、指についた血の汚れを親指で擦っている。


「いや、聞こえてはいるんだけど……」

「じゃあ、どうしたの?」

「こんなおっさんから名前で呼ばれるのって、イヤじゃないか?」


 アリナは一瞬、返す言葉を失った。

 胸を撃たれても、腕が刃になっても、あれほど呑気にしていた男である。自分の身体がどうなっているかさえ、動くならいいと片づけていたくせに、呼び方一つでそんなことを気にするのかと思った。


 けれど、顔を覗いてみれば、冗談を言っている様子はなかった。こちらから名前でいいと伝えたことは分かっていても、それだけで距離を詰めてよいものか、迷っているらしい。

 アリナは少しだけ声を柔らかくした。


「イヤじゃないよ。わたしが、そう呼んでほしいって言ってるんだもん」

「そうか?」

「そうだよ。おじさんに名前で呼ばれたからって、気持ち悪いとか思わないから。遠慮しないで、アリナって呼んで?」


 和憲は彼女の顔を見て、すぐに視線を膝へ戻した。何かを確かめるように一度口を閉じ、それから、普段よりわずかに小さな声を出した。


「……アリナ、さん」


 名前と敬称の間に、不自然な隙間があった。

 アリナは瞬きをしたあと、ゆっくり口の端を持ち上げた。血塗れの男が大真面目に呼び方を気にしているだけでも意外だったのに、今の声には、これまで聞いたことのない遠慮が滲んでいた。


「なぁに?おじさん」


 わざと楽しげに返事をして、少し身を傾ける。逃げた視線を追うように顔を覗き込むと、和憲は顎を引いた。


「……もしかして、照れてるの?」


 ニンマリと笑って尋ねられ、和憲は右手で頬を掻いた。否定を探すような間があったものの、結局、諦めたように息をつく。


「いや、こんな美人さんを名前で呼ぶ機会なんて、人生でなかったから……」


 今度は、アリナの方が目を丸くした。

 からかわれたわけではないと分かっていても、思いがけない言葉に驚いた。和憲は彼女の反応を楽しむ様子もなく、ただ事情を説明しただけの顔で、裂けた袖へ目を落としている。


「……美人さん?」

「美人さん」


 ためらいのない肯定に、口元が勝手に緩んだ。頬の奥がじわりと熱を持ち、アリナは思わず顔を背けかける。けれど、せっかくもらった嬉しい言葉を隠すのも惜しくて、赤くなった頬を誤魔化すように指先を添えた。


 アリナは前髪の横へ指を添え、頬にかかっていた髪を軽く払った。さっきまで少し丸めていた背筋が伸び、顎も心持ち上がる。笑みを抑えるつもりはあったのに、思った以上に嬉しくて、どうにも上手くいかなかった。


「……そっかあ〜。おじさんには、そう見えるんだ?」

「オレにはって言うか、アリナさん、誰がどう見ても美人だろ」

「ふふっ。おじさん、見る目あるね!」


 得意げに胸を張ると、和憲はその顔を見て、少しだけ口元を緩めた。


「そうか?」

「そうだよ。だから、これからはちゃんと名前で呼んでね。美人さんの方からお願いしてるんだから!」

「ん……アリナさん、な」

「うん、それでよし!」


 満足して頷きながら、アリナはまだ緩んでいる口元を指先で隠した。大げさに褒められたわけでもないのに、嬉しさが残っている。取り入ろうとした言葉ではなく、呼び慣れない理由として当然のように出てきたからこそ、素直に受け取れたのかもしれなかった。


 和憲はやり取りが済んだと思ったらしく、左手へ視線を戻した。爪の間に入り込んだ黒い汚れを眺め、指を曲げ伸ばししている。

 アリナも機嫌よくその様子を見ていたが、しばらくして、大事なことが一つ抜けていると気づいた。


「……ところで、おじさんは?」

「ん?」

「名前! わたしの名前だけ、いっぱい呼んでもらっちゃったけど。おじさんの方は、まだ聞いてないよ?」

「えっと……オレの名前は……」


 和憲はそこで少し間を置いた。記憶を失った訳ではない、答えるべき名も持っている。

 だが、何の価値を持たないとされた存在である自分の名を告げることは何となく躊躇われた。

 名無し、誰でもない誰か、それくらいの方が自分には相応しい。

 和憲はアリナの問いにぼんやりと、そんな事を考えていた。

 

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