第4話 目覚めと出会い その4
眼鏡がないと見えづらいと訴えたばかりの男が、またしても足元を見落とした。
アリナの撃ったゾンビが車体から崩れ、和憲の方へ倒れ込む。それを避けて足を引いた拍子に踵が縁石へ当たり、今度は後ろへ転びかけた。
「おじさん、後ろ!ちゃんと足元も見てね!」
「見るところが多いな……!」
右手を車のボンネットにつき、どうにか踏みとどまる。支えにした鉄板が掌の下で凹んだが、アリナはそこへ目を落としかけた男を、さらに大きな声で呼び戻した。
「車はあと!前をお願い!」
和憲の動きには、戦い慣れた者の無駄のなさがまるでなかった。刃を振りすぎて体勢を崩し、死体に足を取られ、自分で壊したものにも気を取られる。見ている方が冷やりとする一方、迫るものを押し返す力だけは、明らかに人間の範囲を超えていた。
アリナは弾数を意識しながら、彼が取りこぼしたものへ照準を移した。振られる刃の軌道から離れ、一発ずつ確実に撃つ。その合間にも背後を見て、逃げ道が塞がれていないことを確かめた。
あの腕がこちらへ向けば、銃を構え直す暇もないかもしれない。そんな考えがよぎるたび、通路で自分を庇った背中が浮かんだ。
正体も、助けた理由も分からない。それでも今は、この危なっかしい男が噛みつかれないよう、声と銃弾を送り続けていた。
最後の一体が、ひび割れた舗装へ倒れた。
身体が二度ほど痙攣して動かなくなると、和憲は刃を下ろし、周囲へ意識を向けた。車の陰にも、開いた扉の向こうにも、すぐに迫るものはない。遠くには同じ気配が残っていたが、こちらへ向かってはいなかった。
「……もう、来ないと思う」
口にして、ようやく肩の力が抜けた。
持ち上げた刃から黒い液体が滴る。払おうと腕を動かしかけたところへ、アリナの声が飛んだ。
「おじさん、待って! そっちだと、わたしにかかっちゃう!」
「あっと、すまん」
慌てて反対を向いて軽く振ると、黒い雫が舗装へ散った。その先に生えていた雑草も刃に触れ、まとめて落ちる。和憲は短くなった草を見下ろし、腕を身体へ寄せた。
「……気をつけないとな」
「うん、ぜひお願い! わたし、草と一緒に刈られたくないからね!」
言いながらも、アリナは銃を構えたまま周囲を確かめていた。死体の間と車の陰を順に見渡してから、ようやく銃口を下げる。
「ここから離れよう。おじさん、少し歩ける?」
「ん」
彼女に続き、建物の外壁に沿って歩いた。アリナは傷めた足をわずかに庇っていたが、立ち止まるほどではない。和憲も長い刃を壁に擦らないよう気をつけ、割れた窓の並ぶ守衛室を通り過ぎた。
正面玄関の側へ回ったところで、敷地の向こうに街が見えた。
和憲は足を止めた。
灰色の雲の下に、窓の抜け落ちた建物が並んでいた。道路には放置された車が幾重にも連なり、遠くの一角から細い煙が立ち昇っている。消えた信号の下を紙くずが転がっても、それを踏む足も、追い越す車もなかった。
研究施設だけではなかったのだ。
戦っている間には考えずに済んでいた事実が、胸の奥へゆっくり沈んでいった。
「……終わってるよなあ」
アリナが振り返った。
「……外も、こうなってると思わなかった?」
「ああ。建物の中だけじゃ、なかったんだな」
街を見たまま頬を掻こうとして、和憲は左腕を止めた。視界へ入った黒い刃を見つめ、右手で掻き直してから、改めて肘の先へ目を落とす。
「これ、戻らないかな」
「戻し方、分からないの?」
「出し方も分からなかったからなあ」
「そっか、そうだよね……。じゃあ、ゆっくり試してみよっか。わたし、ちょっと離れてるね」
アリナが脇へ退くと、和憲は肘を曲げ伸ばしした。痛みも重さもほとんどないが、このままでは不便だった。顔を洗うにも着替えるにも、いちいち何かを切ってしまいそうだ。
元の手を思い浮かべ、指を曲げようと意識した。
刃の赤い光が弱まり、硬かった輪郭が崩れ始めた。黒ずんだ組織が縮み、肉の内側へ沈み込んでいく。アリナが唇を開いたまま見守る前で、巨大な刃は形を失い、毛の生えた太い腕へ戻った。
「お。戻った」
「わあ……本当に戻っちゃった。おじさん、指、ちゃんと動く?」
言われて掌を開き、握り、もう一度開いた。五本とも揃っており、手首にも肘にも痛みはない。爪まで以前のままなのを確かめると、ひとまず満足して腕を下ろした。
「よかった。これなら着替えられるな」
「うん、着替えは大事! でも、ほかにも気になること、ない?」
「袖が駄目になった」
「まだ服のお話だった!」
和憲は裂けた布から顔を上げ、彼女の表情を見て、ようやく尋ねられていることに思い至った。
「あ、身体の方か。どうなってるんだろうとは思うけど……」
左手をもう一度握り、開く。
「オレの頭で考えて、分かることでもなさそうだし。動くなら、とりあえずいいか」
「その『とりあえず』で済ませていい範囲、広すぎないかなあ……」
アリナは眉を下げたが、本人が落ち着いているところへ不安を押しつけても仕方がない。和憲は玄関脇の低いコンクリートの縁へ腰を下ろし、両腕を膝に置いた。
彼女は街路と建物の角を確かめ、数歩離れた位置に立った。彼を見張るというより、座った男の背後と道路の両方が見える場所だった。ただ、銃はまだ手放さなかった。
「ねえ、おじさん。本当に、さっき目を覚ましたばっかりなんだよね?」
「ああ」
「外のことも、誰かから聞いたりしてない?」
「前にニュースじゃ見てたけど。ここまでとは……」
言葉の途切れた横顔を、アリナは見つめた。
まだ知らないことばかりで、話をすべて信じられるわけではない。それでも、街を眺める目の鈍い戸惑いは、作って見せているようには思えなかった。
和憲は小さく息を吐いた。
「駄目だったか……」
「……何が?」
「ワクチン。間に合わなかったんだなって」
アリナは返事を失った。
実験着に記された番号と、消えた銃創。腕から生まれた刃。それらを思い返し、背後の建物へ目を向けた。割れた窓の奥は暗く、今の言葉に繋がるものがどこに残っているのか、外からでは分からない。
訊き返そうとしたところで、和憲が顔を上げた。
「そういえば、そっちは何しに来たんだ?」
アリナの指が銃の側面で止まった。
男は正面玄関を見上げている。問い詰める調子ではなく、ようやく思いついた疑問を口にしただけのようだった。
「こんなところに、一人で」
「使えるものを探しに来たんだよ。こういう施設なら、薬とか器材とか、残ってることがあるからね!」
答えながら鞄の肩紐を掛け直した。弾んだ声はいつも通りだったが、鞄の口を身体の方へ寄せる動きが続いた。
「薬か」
「うん。全部持ち出されちゃったとは限らないでしょ? 棚の奥に一つ残ってるだけでも、助かることがあるんだ」
和憲が頷いたあとも、彼女は肩紐から手を離さなかった。脇から覗いた硬いケースを肘で奥へ押し込み、男の実験着へ視線を移す。
「おじさんは、ほかに誰か見なかった? 動いてる機械とか、明かりがついてる部屋でもいいんだけど」
「誰もいなかったな。赤いランプはついてたけど……」
「どこに?」
それまでより早い問い返しだった。
顔を上げた和憲に、アリナは首を傾げてみせた。
「電気が残ってるなら、保管設備も動いてるかもしれないから。確認できるなら、しておきたいんだよね」
「そういうことか。賢いなあ」
感心され、彼女は笑みを返した。けれど視線は逸らさず、その先の言葉を待っている。
和憲は眉を寄せ、歩いてきた廊下を思い出そうとしていた。
「オレが寝てた部屋だよ。途中にもあったと思うけど……案内しろって言われても、自信ないな」
「大丈夫、すぐ戻って、なんて言わないよ!」
「ならよかった。あれがまだいるところ、戻るのは面倒くさい」
建物の奥へ顔を向ける和憲を見て、アリナは質問を切り上げた。銃を安全な方へ向け、弾倉を確かめる。残りを数え、補充する手順を挟めば、今のわずかな間も不自然には見えない。
ただ、和憲には最初から追及するつもりなどなかったらしい。
「何か見つかるといいな」
そう言って、街へ目を戻した。
アリナの手が、今度は別の理由で止まった。薬を探しているという説明を、そのまま受け取っている。自分の身体についても、こちらの事情についても、この男は無理に答えを引き出そうとしなかった。
「……うん。ありがとね」
声を少し落として返し、弾を補充した。留め具を確かめて顔を上げると、和憲は左の掌を眺めていた。
指を曲げ伸ばしする仕草は、先ほどと変わらない。だが、その目から、身体の仕組みに感心していたときの気の抜けた明るさが消えていた。
「どうしたの、おじさん。動かしにくい?」
「いや」
右手で左の手首を掴み、親指で皮膚を擦る。刃のあった場所には、毛と血の汚れしか残っていなかった。
「簡単に、切れるんだなって」
アリナは搬入口の方を見た。ここから死体は見えないが、風が変わるたび、腐敗臭に新しい血の臭いが混じって届いた。
先ほどまでなら、切れ味に感心しているのだと受け取ったかもしれない。しかし、今の和憲は自分の手を握り込むでもなく、膝の上で持て余すように置いていた。
「……襲ってきたんだよ。止めなかったら、おじさんも、わたしも危なかった」
「そうだな」
反論する気はないらしかった。和憲は小さく頷いたが、掌から目を離さなかった。
腕が刃になったことは、ひとまず動くからいいと済ませられた。力が増したことにも、扉が開いて便利だと感心できた。自分の身体が何に変えられたところで、今さら元に戻してくれと訴える相手もいない。
けれど、その腕で切ったものには顔があった。
白衣を着た者もいれば、擦り切れた上着を羽織った者もいた。片方だけ残った靴や、千切れかけた袖口が、妙に目に残っている。動いている間は歯や爪しか見ていなかったのに、倒れてしまうと、かつて服を選び、靴を履いて出かけた人間の姿が、そこから消えなかった。
アリナは口を閉じた。
何もかも平気なわけではないのだと、ようやく分かった。驚くところがずれていて、危険に対して呑気すぎる。それでも、目の前の男は、切れたことを喜んで座っているのではなかった。
もう大丈夫、と軽く声をかけるのはやめた。銃口を下げたまま街路へ目を戻し、彼が手を見つめている間は、自分が周囲を見ていようと思った。




