第3話 目覚めと出会い その3
和憲は、自分の左腕を見ていた。
つい先ほどまで指のあった場所から、黒ずんだ巨大な刃が伸びている。肘のあたりで重なった硬い組織が、そのまま分厚い刃の根元を形作り、表面には血管のような赤い光が脈打っていた。
指を動かそうとすると、刃先がわずかに揺れた。押しつけられた赤目の腕の感触まで伝わってくるのが、何とも奇妙だった。
「へえ〜……。こうなるのか」
背後でアリナが息を詰めた。驚いているのかと思えば、その声は初めて使う道具を確かめるように呑気だった。
「おじさん、それ、自分の腕なんだよね!?」
「そうみたいだな」
もっとも、和憲にも理解できているわけではない。腕から何かが出てきたという事実だけを、ひとまず受け止めていた。詳しく考えようにも、目の前の相手は待ってくれそうになかった。
赤目が濁った声を吐き、空いた手を顔へ伸ばしてきた。
「うへっ!」
爪から首を引き、相手を遠ざけようと左腕を払い上げる。思っていたほどの抵抗もなく、黒い刃が押し合っていた腕を断った。そのまま肩を深く裂き、壁へ黒い飛沫を散らす。
「……切れた」
腕が床へ落ちても、赤目は止まらなかった。崩れた姿勢で踏み込み、残った手を和憲の首へ伸ばす。身を引きかけた和憲は、踵の後ろにアリナの脚があることに気づき、半端な姿勢で踏みとどまった。
「おじさん、頭を下げて!」
声に従って首をすくめると、耳のすぐ横で銃声が弾けた。赤目の顔が後ろへ跳ね、続く一発で身体の力が抜ける。大きな影が和憲の肩を掠め、通路へ崩れ落ちた。
床を揺らす音のあとには、耳の奥を刺す高い音が残った。和憲はしばらく腰を屈めて死体を眺め、右手で耳を擦りながら身体を起こした。
「おお……。耳、キーンってなるな」
「ごめんね、近かったもんね! ……って、ほかにも気にするところ、いっぱいあると思うんだけど!」
床に片手をついたアリナの視線を追い、和憲は刃を持ち上げた。彼女の肩が強張ったので、慌てて先端を反対へ向ける。見た目より軽く、自分の腕が長くなっていることを忘れそうだった。
「これ、そっち向けない方がいいな」
「うん、お願い! うっかりバッサリ、なんて絶対やめてね!」
「あ、なんかそれ、リズムいいな」
「そこ褒めてくれるのは、あとでいいから!」
「すまん」
あっさり謝った和憲は、排水溝へ目を落とした。
「脚、大丈夫か」
アリナは返事をしかけ、彼の顔を見上げた。胸の傷が消え、腕まで刃になったというのに、この男はまだ自分の脚を気にしている。助けに戻ってきた背中を思い出し、勢いよく返そうとした声が少しだけ柔らかくなった。
「……うん。でも、まだ抜けないの。格子が引っかかっちゃって」
「ちょっと待ってな」
和憲は刃を遠ざけたまま膝をつき、右手で格子の縁を掴んだ。少し隙間を作るつもりだったが、力を込めた途端、鉄が軋んで蓋ごと枠から剥がれた。
手にぶら下がった格子は、弓なりに曲がっていた。
「力持ちになったもんだ」
「わあ、助かった! ありがとう、おじさん! ……でもそれ、片手で曲げちゃうものじゃないよね!?」
礼を言いながらも、アリナの視線は歪んだ鉄と和憲の顔を往復した。錆びているとはいえ、針金ではない。言われてみれば、以前なら持ち上げるだけでも難儀したはずだった。
「まあ、便利だしいいだろ」
「便利なのは、すっごくよく分かったんだけどね!」
蓋を壁際へ立て掛ける男に、アリナはそれ以上言うのを諦めた。まず脚を引き抜き、壁を支えに立ち上がる。足首を動かすと痛みはあったが、体重はかけられた。
「歩けそうか?」
「うん、大丈夫。それより、おじさんの腕は? 痛かったりしない?」
「痛いとかはないな。ちょっと変な感じはするけど」
肘を曲げ、脈打つ赤い筋を眺める。
「思ったより軽いんだよ。もうちょっと重そうなのにな」
「そっか、軽いんだ! ……使い心地じゃなくて、身体を心配してるんだよ?」
「うん?」
不思議そうに聞き返され、アリナは困ったように眉を下げた。平気だという返事はありがたい。それでも、何が起きているか分からない身体を、こんなふうに眺めていられる気持ちは理解できなかった。
和憲は刃を下ろし、通路の奥へ顔を向けた。
赤目から受けた圧迫感は消えていたが、もっと小さな気配が幾つも近づいていた。壁で見えないはずなのに、一つが角を曲がり、その後ろを別のものが続くことまで、ぼんやりと分かる。
「……まだ来るぞ」
「えっ、見えるの? ここから?」
「見えないけど、なんか分かるんだよな」
こめかみに右手を添えてみた。目や耳とは違うところで何かを拾っているようだったが、説明に使えそうな言葉は浮かばない。
「こっちに来てる。何人?何匹?か」
通路の角から、濁った呻き声が聞こえた。
アリナは和憲を一度見て、銃を構え直した。聞きたいことは増えるばかりだが、立ち話を続けていられる状況ではなかった。
「おじさん、出口をお願い! ここで挟まれたら大変だよ!」
「それは嫌だな」
和憲は扉へ向き直り、右手で取っ手を掴んだ。押しても動かない。施錠されているのか、枠が歪んでいるのか、確かめようとする背後で足音が近づいた。
「……開かないな」
「もうちょっと強く押せる?」
言われた通りに力を込めると、手の中で金属が折れた。
外れた取っ手と、扉に残る付け根を見比べる。あっけなく取れたので、初めはそういう仕掛けかと思った。
「……やべ」
背後で銃声が鳴った。
「おじさーん? 今、聞きたくない言葉が聞こえたんだけど!」
「すまん、取っ手が取れた」
「取れちゃった!? 開いたんじゃなくて!?」
「どうしような、これ」
「わたしも聞きたいよ、それ!」
声を張りながら、アリナは角から現れた一体へ狙いを移していた。和憲が振り向きかけると、こちらを見ずに扉の方へ手を振る。
「後ろは任せて! 扉そのもの、押してみてくれる?」
和憲は取っ手を床の端へ置き、扉に肩を当てた。刃を壁にぶつけないよう身体を捻り、脚へ力を入れると、金属が軋んで縁に隙間が生まれた。
もう少しだと思って体重をかけた途端、枠の一部が外れ、扉が向こう側へ跳ねた。
「うへっ」
抵抗がなくなり、和憲は外へ飛び出した。二歩ほどたたらを踏んで振り返ると、蝶番にぶら下がった扉が斜めに揺れている。
「開いたみたいだ」
「ありがとう! ……開け方、すっごく豪快だね!?」
続いて出てきたアリナは、千切れた留め金へ目をやった。当の本人は肩の埃を払っていて、戸棚を強く閉めすぎた程度の顔だった。
冷たい風が、血に濡れた胸元を撫でた。
建物の裏手には、雑草の伸びた搬入口があった。ひび割れた舗装に錆びた台車や破れた袋が散らばり、敷地を囲むフェンスは一角が外側へ倒れていた。
その向こうでも、人影が揺れている。
物音に引かれたのか、車の陰から灰色の顔がこちらを向いた。フェンスの切れ目からも、足を引きずるものが近づいていた。
「外にもいるな……」
「いるねえ……。おじさん、そこで止まらないで! 扉の前、空けて!」
アリナが脇を抜け、搬入口の柱を背にする位置へ移った。片足を少し庇っていたが、銃を構える動きに迷いはなかった。
和憲が続こうとしたとき、背中へ別の気配が迫った。
振り返ると、扉から白衣のゾンビが手を伸ばしていた。腐った指が実験着を掴み、濁った口が顔へ近づく。
「いや、近い近い……!」
身を引きながら左腕を振ると、刃が白衣ごと胴を斜めに通り抜けた。肩を掴んだ手が緩み、その身体が扉の前へ崩れる。
和憲は思わず腕を止めた。
振った手応えはあるのに、身体を切った抵抗はほとんどなかった。その軽さと、足元へ落ちたものの重さが、どうにも釣り合っていない。黒い液体が刃を伝って滴り、裸足に近い履物の先を汚した。
しかし、考える間もなく、次の一体が奥から踏み出してきた。
そこから先は、迫るものを遠ざけるだけで精一杯だった。腕を振り、掴まれそうになれば退き、間に合わなければ押し返す。段差に躓きかけ、振り回した刃を扉の枠へぶつけるたび、金属が削れる音に肩をすくめた。
「おじさん、もう一歩こっち! そこ、後ろに段差があるよ!」
アリナは外から来るゾンビを撃ちながら、短く声を飛ばしていた。和憲の腕が届く範囲には入らず、こちらが下がれる場所を空けている。明るい声のおかげで指示を聞き取りやすく、和憲は足元を見てどうにか位置を変えた。
肩を掴んできた一体を右手で押すと、その身体が扉の奥まで飛び、後ろの一体を巻き込んで倒れた。
「ずいぶん飛ぶなあ」
「うん、びっくりするくらい飛んだね! でも見送らなくていいから、前、前!」
言われて慌てて顔を戻す。
身体の力が増したことには、驚くより先に、こうも変わるものかという感心があった。散々いじられた身体なのだから、何が起きてもおかしくないという諦めも、どこかにあるのかもしれなかった。
ただ、迫る歯や爪には、やはり身が竦んだ。腕が変わったことと、腐った顔に噛みつかれそうになることは別の問題で、後者にはできれば近寄ってほしくなかった。
「おじさん、左! 車の陰から来てる!」
アリナの声に顔を上げた。
確かに気配はあった。それでも、目の前へ気を取られ、近づくものに対応できていなかった。振り向いたときには手が伸びており、刃を戻すより早く銃声が鳴った。相手の頭が横へ跳ね、車体にぶつかって沈む。
「一か所ばっかり見てちゃだめだよ! 周りも見てね!」
「すまん、実は目が悪くて! 眼鏡がないと……!」
「ええっ、このタイミングでそれ言う!? 冗談じゃなくて!?」
「大真面目に言ってる!」
「だよね! おじさん、そういうところで嘘つかなそうだもんね!」
アリナは車の向こうへ銃口を移しながら、半ば笑いそうになった息を吐いた。傷は治るし、鉄は曲げるし、腕は刃になる。それなのに、眼鏡がなければ見えづらく、段差には躓く。強いのか危なっかしいのか、判断する間にも心配事が増えていく。
出会ってから、まだ僅かな時間しか経っていなかった。
それでも、この男の「大丈夫」は、そのまま受け取らない方がよさそうだと、アリナは早くも学び始めていた。




