第2話 目覚めと出会い その2
話をしながら、和憲は胸に残った血を指で拭った。赤黒くなった指先を眺め、実験着の比較的汚れていないところを探したものの、結局、どこも似たようなものだった。
その様子を、アリナはすぐ傍らで見守っていた。銃口は床へ向けていたが、武器をしまうところまでは踏み切れずにいる。男が肩を動かせば胸元に目をやり、呼吸が乱れていないと確かめてから、その顔へ視線を戻した。
傷は塞がった。それは確かだったが、自分が撃ったという事実まで消えたわけではない。まして、その傷がどうして消えたのか、撃たれた本人にも分かっていないのだ。
ところが和憲は、血を拭く場所を諦めたらしく、指先を擦り合わせている。こちらを責める気配もなければ、距離を取ろうとする様子もない。一度顔を上げたかと思えば、その視線はまた銃の外装へ移っていた。
「ねえ、おじさん。本当に、気にならないの?」
「へ? 何が?」
「わたしのこと! さっき撃っちゃった相手が、まだ銃を持って隣にいるんだよ?」
和憲は彼女の手元を見て、それから顔へ視線を戻した。
「でも、もう撃たないんだろ?」
「撃たないよ! 撃たないけど……そんなにあっさり信じちゃっていいの?」
「そりゃ、最初は構えるだろ。こんなのが出てきたら」
自分の胸元をつまんで見せる。古い血と新しい血が混じった実験着は、薄暗い廊下で見ると、着ている本人でさえあまり近寄りたくない有様だった。
「だって、こんな顔した血まみれのおっさんが、暗いところから急に飛んできたんだぞ。嫌だろ、普通に。そら銃も撃つわ」
「そこで自分の顔まで悪く言わなくてもいいんだよ!?」
思わず言い返したアリナをよそに、和憲は通ってきた暗がりを振り返った。倒れたストレッチャーの向こうで、赤い非常灯が明滅している。奥の扉はほとんど闇に溶け込み、そこから人が現れたところを想像すれば、彼女が驚いたのも納得できた。
「止まれって言われたのに、動いたしな。転びそうになっただけなんだけど。寝起きで身体が本調子じゃないのかも」
「転びかけて、あの速さで飛んでくるの!? おじさん、本調子だったらどうなっちゃうの?」
「転ばんのじゃないか?」
「そういうことを聞いてるんじゃないんだけどなあ!」
返ってきた顔があまりにも真面目で、アリナはその先を言い損ねた。
怒鳴られることも、怯えられることも覚悟していた。誤認した事情は説明するつもりだったが、それで許されるとは思っていなかった。なのに、撃たれた本人が、こちらの判断にも無理はなかったと話している。
しかも、気を遣っている様子さえない。少なくとも今の和憲にとっては、床の血で手を汚したことの方が気になるらしかった。
「……おじさんって、ちょっと変わってるね」
「まあ、傷も塞がったんだし、問題なしだ」
「うん、身体も不思議なんだけどね。今は、おじさんの考え方のお話をしてるんだよ?」
和憲は何となく頷いた。分かったのかどうか怪しい反応に、アリナは困ったように笑って息をついた。放っておくと、こちらまで大したことではなかった気になりそうで、それがまた落ち着かなかった。
和憲は胸元から手を離すと、廊下の奥へ目を向けた。
「それで……ここ、何があったんだ?」
アリナが答えるより先に、遠くで何かが倒れた。
金属が床を擦る音に続いて、壁を叩く鈍い響きが近づいてくる。その下に、濡れた喉を震わせるような声が混じっていた。アリナの笑みが消え、床へ向けていた銃口が持ち上がった。
「おじさん、立てる?」
「たぶん」
「じゃあ、ゆっくり立ってね。足元、さっきみたいに引っかけないでよ?」
言いながら、彼女は和憲と廊下の奥の間へ身体を移した。先ほどまで顔を覗き込んでいた青い瞳が、今は暗がりの一点に据えられている。
和憲は壁に手をつき、腰を上げた。眩暈もなく、脚にも力が入った。その傍らで、アリナの指が銃の側面に触れる。
短い金属音が重なり、上部に畳まれていた部品が解放された。銃身に沿うように収納されていた延長部が前方へ展開し、接続部が噛み合う。後方から肩当てが引き出され、上面の照準器が起き上がると、大型の拳銃だった武器は、長い銃身を持つ狙撃銃へ姿を変えていた。
「おお」
思わず漏れた声に、アリナが眉を動かした。
「どうしたの、おじさん?」
「それ、変形するんだな」
「するよ! ……って、今、気になったのそこ?」
「カッコいいな」
あまりに素直な感想だった。
部品が次々に収まるべき場所へ動き、一つの武器が別の形を作る。その仕掛けを、できればもう少し近くで見たかった。特撮ヒーローの武器やロボットの装備が変形するたび、理屈より先に胸が躍った子供の頃から、このあたりの好みは変わっていない。
アリナは廊下へ狙いをつけたまま、わずかに口元を緩めかけたが、すぐに思い直したように眉を寄せた。
「でしょ、って言いたいところだけど! おじさん、さっきこの銃で撃たれたんだよ? 褒めちゃっていいの?」
「いや、仕掛けがカッコいいから。撃たれたのとは別じゃないか?」
「そこ、分けて考えられるんだ……」
納得しきれない声を漏らしながらも、銃身はぶれなかった。彼女は肩当てを据え直し、照準器へ目を寄せた。
「詳しいお話は、あとでね。今はわたしの後ろにいて。できるだけ、壁に寄っててほしいな」
その声が終わる頃、廊下の奥に人影が現れた。
白衣らしい布は半分以上が黒く変色し、破れた肩口から腐った肉が覗いていた。傾いた首の下で顎が動き、唇の端から粘ついた液体が垂れる。
和憲は銃から視線を移した。ニュース映像で見たものが、画面の向こうではなく、同じ廊下に立っていた。
「ゾンビ……」
「うん。会いたくなかったんだけどね」
明るさを残した返事とは裏腹に、アリナは少しずつ後退していた。和憲も倣おうとしたが、その前に、背筋を奇妙な感触が這い上がった。
目の前の一体だけではなかった。壁の向こうにも、廊下のさらに奥にも、何かがいる。姿も音も確かめられないのに、蠢くものの存在だけが、妙にはっきりと分かった。
なかでも一つ、ほかとは違うものがあった。
胸を内側から押されるような圧迫感が、通路の奥から近づいてくる。そちらへ顔を向けた直後、白衣のゾンビが横へ弾き飛ばされた。背後から現れた別の個体が、邪魔なものを払いのけるように、その身体を壁へ叩きつけたのだった。
背丈は人間とさほど変わらない。だが、肩から首にかけて筋肉が異様に膨れ、破れた衣服の下で太い筋が浮いていた。垂れた頭が持ち上がり、眼窩の奥の赤い目が二人を捉えた。
「うわあ……赤目までいるの? そこまで張り切ってお出迎えしてくれなくてもいいんだけどな!」
アリナは言い終える前に足を開き、引き金を引いた。
強烈な銃声が廊下を満たすと同時に、赤目の姿が横へぶれた。肩口から黒い飛沫が散ったが、倒れない。壁へ身を寄せたかと思うと、四肢を使って低く飛び出してきた。
「おじさん、こっち!」
腕を引かれ、和憲は横の連絡通路へよろめき込んだ。直後、背後で何かが壁に衝突し、砕けた破片が首筋に当たった。
アリナは彼を先へ行かせ、後ろを確かめながら肩当てを畳んだ。長い銃身が戻り、部品が固定される硬い音とともに、武器は再び大型の拳銃へ収まる。今度ばかりは、和憲にも仕掛けを眺める余裕はなかった。
「突き当たりの扉、お願い! 開けられる?」
言われるまま向かった先では、倒れた金属棚が扉に引っかかっていた。取っ手へ手を伸ばそうにも、斜めに渡った枠が邪魔をしている。
「これ、塞がってるぞ」
「棚、動きそう? 無理なら言ってね、別の道を――」
「やってみるけど……」
両手をかけた途端、金属の枠が床を離れた。
予想していた重さがなく、持ち上げた本人の方が驚いた。慌てて棚を脇へ寄せる背後で、銃声が続いた。振り向くと、通路の入口で二体のゾンビが倒れるところだった。アリナはさらに奥へ銃口を向けながら、こちらへ戻ろうとしていた。
その足元で、床が抜けた。
通路を横切る排水溝の蓋だった。錆びた格子が体重を支えきれずに傾き、片脚が膝の下まで落ち込んだ。身体が横へ崩れ、肩が壁にぶつかる。
「わっ……! もう、今度は足元!?」
声を上げながらも、アリナはすぐに肘をついて身体を支えた。脚を引こうとしたが、傾いた格子が靴と脛の間に噛み込み、抜けなかった。
通路の角で、赤い目が光った。
和憲には、姿が現れるより早く分かっていた。ほかよりも濃い、肌の裏側を撫でるような気配が、一気にこちらへ迫ってくる。
「うわ、来てるみたいだぞ」
「うん、分かってる! おじさんは扉を開けて!」
アリナは脚を引くのをやめ、床へ半身を倒したまま銃を向けた。赤目は倒れたゾンビを踏み台にして身を沈め、壁際を掠めるように跳んできた。
放たれた弾が脇腹を抉り、黒い血が壁へ散った。それでも、伸ばされた腕は下がらなかった。
和憲は扉の前から駆け出していた。
考えをまとめる暇などなかった。動けないアリナと、そこへ迫る腕が見えた。このままでは間に合わないと思ったときには、身体が前へ出ていた。
「おじさん!? 待って、危な――」
二人の間へ滑り込み、左腕を持ち上げたところで、迫る顔をまともに見てしまった。剥き出しの歯と、赤く濁った目がすぐ目の前にあった。
「うへっ……!」
情けない声が漏れたが、今さら引っ込む場所はなかった。
背後でアリナが息を呑んだ。視界を遮った実験着の背中には、銃弾が抜けた穴があった。その周囲の血は、まだ乾いてもいない。
自分が撃った男だった。
誤射を責めることもなく、治ったからいいと話していた。その言葉に甘えて済ませるつもりはなかったのに、今度は、動けなくなった自分の前に立っている。
助けを求めたわけではない。扉を開けてと頼んだだけだった。銃も持たず、血塗れの実験着一枚の男が、わざわざこちらへ戻ってきたのだ。
「おじさん、だめだよ――!」
声に重なって、赤目の腕が和憲の左腕へ叩きつけられた。
重い衝撃が肩まで突き抜け、足裏が床を擦った。膝が沈んでも、骨の折れる音はしなかった。その代わり、受け止めた腕の内側で、何かが膨れ上がった。
皮膚の下を太いものが這い、前腕の輪郭を押し広げていく。痛みとは違う、身体の構造そのものが組み替わる感触に、和憲は息を詰めた。五本の指が黒ずんだ組織に覆われ、手首との境目を失っていく。
実験着の袖が内側から裂けた。
せり出したものは、肉とも骨とも金属ともつかなかった。幾重にも絡み合う組織に赤い筋が浮かび、それが脈打つたび、肘から先がさらに大きく形を変えていった。
アリナは銃を握ったまま、言葉を失っていた。
照準の先を塞いだ腕が、目の前で人間のものではなくなっていく。胸の傷が消えたときとは違った。元へ戻っているのではない。彼の身体が、見たこともない何かを作り出していた。
「おじさん……それ、腕……」
ようやく出た声にも、和憲は答えられなかった。本人こそ、自分の身体を信じられない顔で見つめていた。
それでも、背後へ退こうとはしなかった。踏み込んだ足を支えにして、目の前の爪を押し返す。その動きに応えるように黒い組織が伸び、幅を増しながら、一枚の巨大な刃へと収束していった。
アリナを背に庇った和憲の左腕は、赤い光を脈打たせる、異形の刃へと変わっていた。
和憲はその輪郭を目で追い、刃越しに唸る赤目へ視線を戻した。傷が治ったことも、棚が軽かったことも、まだろくに考えられていない。そのうえ、今度は腕までこの有様だった。
「寝起きのおっさんの頭で整理をするには……ちょっとばかし情報量が多すぎるよなあ……」
困ったような独り言に、背後のアリナがようやく声を取り戻した。
「寝起きじゃなくても多いよ、おじさん……!」




