第10話 着替えと素敵な贈り物 その2
建物を出る頃には、日は高くなり始めていた。アリナの歩き方からも、昨夜ほどのぎこちなさは消えている。
「やっぱり、ちゃんと休むと違うね。恩人様、もう膝は笑ってない?」
「ん?まあ、今のところは大丈夫だよ」
「‘’今のところ‘’、じゃ困るんだけどなあ〜」
「アリナさんも足の具合はどうだ?」
「もうバッチリ!恩人様が塗ってくれたおかげだね♪」
笑って言いながらも、アリナは和憲が歩き出すところを確かめていた。
アリナの返事と足元を見比べた後、和憲は日差しの中で足を止め、自分の身体を見下ろした。
実験施設で着せられていた薄手の服は、もう衣服と呼ぶのもためらわれる有様だった。黒く乾いた血が胸から腹まで広がり、そこへ自分の血も混じって、元の色さえ分からない。片袖は半ば千切れ、裾には泥と腐肉がこびりついている。
「……今度こそ、着替えるか」
「賛成! その服、もう十分頑張ったと思うよ」
和憲は袖で頬を拭きかけた。
「あっ、それで拭かないで。余計に汚れちゃうから!」
アリナに止められ、腕を下ろす。差し出された布を受け取って顔を擦ると、彼女は満足そうに頷き、商店街の方へ顔を向けた。
「昨日、服が残ってそうなお店を見かけたんだ。そっちへ行ってみよう?」
「アリナさん、本当に色々よく見てるなあ。頼むよ」
和憲の感心した声にアリナが明るく笑った。
二人分の足音が、人気のない通りに響き始めた。
風に煽られた看板が軋み、どこかで金属片が落ちる。車の音も店先の音楽もない街で、アリナの声はよく通った。和憲は隣を歩く彼女の足に合わせながら、ふと思い出したことを尋ねた。
「そういえば、あの赤い目のヤツ。普通のゾンビとは違うんだよな」
「赤目のこと?」
「ああ。妙に速いし、力も強かったし」
アリナは道の先を確かめてから、和憲へ顔を向けた。
「わたしも、詳しく分かってるわけじゃないんだけどね。時々、ああいう変異体が出てくるの。目が赤いから、赤目って呼ばれてる」
「変異体……」
「うん。普通のゾンビより速かったり、力が強かったりするんだよ。何でそうなるのかまでは知らないし、全部同じ強さってわけでもないみたい。だから、見つけても、できれば相手にしたくないんだけど……」
昨夜の光景を思い出したのか、言葉の終わりに少しだけ眉が寄った。
和憲は自分の左手を眺めた。指を握り、開く。今は何の変哲もない、肉付きのいい手だった。
「オレも、似たようなもんかね」
何気なく言うと、アリナが足を止めた。
「ちょっと、こっち向いて」
「ん?」
言われるまま顔を向けたところへ、彼女が身を寄せてきた。亜麻色の髪が肩から滑り、青い瞳が間近でこちらを見つめる。
和憲は反射的に顎を引いた。
「……アリナさん?」
「動かないで。目、見せて」
視線を逸らす先が見つからなかった。近くで見る顔は、やはり綺麗だった。整った鼻筋も、わずかに開いた唇も、意識しないようにするほど目に入ってしまう。
アリナは左右の目を確かめ、にこりと笑った。
「うん。目は赤くないよ」
そこで離れるかと思ったのに、彼女はもう一呼吸、その距離に留まった。
「……でも、顔は赤くなってきたね?」
「そりゃ、こんな近かったらな」
和憲が困ったように答えると、アリナの口元にニンマリとした笑みが浮かんだ。
昨夜は何度、息が止まりそうになったことか。呼んでもすぐ返事が来なければ怖くなり、血を見るたび、もう駄目なのではないかと思わされた。それなのに、当の本人は傷が治れば大丈夫という顔をしている。
少しくらい、こちらが落ち着かなくさせたっていいはずだった。
「へえ。恩人様にも、ちゃんと苦手なものがあるんだ」
「苦手っていうか……」
「美人さんが近いと困っちゃう?」
「……分かってて聞いてるだろ」
ようやく顔を逸らした和憲を見て、アリナは楽しそうに笑い、身体を離した。
「ちょっとだけ、お返し。昨夜、いっぱい心配させられたからね」
「それを言われるとなあ……」
頬を掻く男へ、彼女は今度はからかう調子を和らげて言った。
「目が赤くないから全部大丈夫、とは言えないけど。少なくとも、恩人様はわたしと普通にお話できてるよ。赤目のことで分かることが増えたら、そのとき一緒に考えよう?」
「それもそうだな。あんまり悲観的になってもしょうがないよな」
「ただ、楽観的過ぎるのもどうかと思うよ!」
「でも、その時はアリナさんが一緒に考えてくれるんだろ?なら安心だ」
「……もう、恩人様ってば」
さらりとそんな事を話す和憲に、アリナが頬を赤くする。
何となく恥ずかしくなり、また和憲からの信頼を受ける後ろめたさを隠すようにして、アリナは前へ向き直り、元気に声を上げた。
「さあ、まずは着替え! そのままだと、また誰かに感染者と間違えられちゃうよ」
服屋は、商店街の中ほどにあった。
割れたショーウィンドウの奥にマネキンが倒れ、その向こうのラックには衣類が残っている。入口で和憲が気配を探り、アリナが奥へ光を向けてから、二人は店内へ入った。
埃と湿った布の匂いがした。棚の多くは空だったが、服を選ぶ余地がないわけではない。アリナが倒れた陳列台の向こうを調べる間に、和憲はまだ衣類の掛かっているラックへ近づいた。
「お」
最初に手に取ったのは、黒いノースリーブのシャツだった。広げると腹周りにも余裕があり、生地には伸縮性がある。何より、袖がなかった。
「これなら、腕が変わっても破れにくいな」
「本当だ。肩のところもきつくなさそうだね」
アリナが隣から覗き込み、縫い目を確かめた。
次に選んだのは、両脇へ白い二本線の入った黒いジャージだった。腰回りが楽で、脚を広げても突っ張らない。棚の下からは足に合う黒い運動靴も見つかった。マジックテープ式なのが、和憲にはありがたかった。
「紐、結ばなくていいのか」
「恩人様、そこが決め手なんだ?」
「ほどけると面倒くさいしな」
「それで転んだら大変だもんね。うん、いいと思う!」
和憲は服を抱え、店の奥へ向かった。アリナは試着室のカーテンを確かめ、破れていない一室を示してから、入口を見ていると言って離れた。
実験着を脱ぐと、重たい布が床へ落ちた。
比較的綺麗な布で肌の汚れを拭い、選んだ服へ腕と脚を通す。血で張りつかない生地の感触だけで、ずいぶん身体が軽くなった気がした。
靴を履いて出てくると、アリナが振り返った。
「いいね!ちゃんと動けそう?」
「ああ。楽だな、これ」
「うんうん♪肩も窮屈じゃなさそうだし、恩人様に合ってるよ!」
和憲は裾を引き、少し満足そうに頷いた。
最後に目についたのは、別のラックに掛かった薄緑色の半袖パーカーだった。前開きで丈も悪くない。羽織ってみると、不思議としっくりきた。
「……これだな」
フードを深く被ると、額から目元へ影が落ちた。
昔から、自分の顔を人に見られるのが好きではなかった。実際には誰も気にしていなくても、笑われているのではないか、不快に思われているのではないかと考えてしまう。布一枚で何もかも隠せるわけではないが、顔の周りを覆われるだけで少し落ち着いた。
店の隅に、亀裂の走った姿見があった。
薄緑の半袖パーカーに、黒いノースリーブ。白いラインの入った黒いジャージと、黒い運動靴。フードの下には、見慣れた肉付きのいい顎が覗いている。
和憲はしばらく自分を眺めた。
「……カッコいいじゃん」
「うん、その色、いいね!」
すぐ後ろから返事があり、和憲は鏡越しにアリナを見た。
彼女は薄緑色の肩口から足元まで眺め、屈託なく頷いていた。
「黒だけより明るくなったし、半袖なのも腕の邪魔にならなくていいんじゃない? わたし、その感じ好きだよ」
「ありがとな。オレ好みの服が残っててよかった」
和憲が肩を回してみせると、アリナも満足そうに笑った。
特別に洗練された装いではなかった。鏡に映っているのは、休日に近所へ買い物に出る中年男性にも見える。けれど、二人とも、それを悪いとは思っていなかった。
そこでアリナが、何かを思いついたように鞄を開けた。
「ふふ♪良いこと思いついちゃった!恩人様〜、コレはどう?」
差し出されたのは、黄色いレンズの入った丸いサングラスだった。
細いフレームの向こうで、窓からの光が淡い飴色に透けている。和憲は手を伸ばしかけ、彼女の鞄から出てきたことに気づいて止めた。
「そのサングラス、アリナさんの?」
「うん。わたしのなんだけど、恩人様に似合うと思うんだ」
「おお……カッコいいな、それ」
和憲は顔を寄せ、丸いレンズとフレームの形を眺めた。変形する銃を見たときと同じ、素直に感心した声だった。
アリナの顎が、少し上がった。
「でしょ? この丸い形と黄色いレンズがいいんだよ。わたし、これ気に入ってるの」
「めっちゃ分かる。いいなあ……」
褒められて、アリナはますます得意げに笑った。
「じゃあ、決まり。恩人様にあげる!」
「いや、でも、大切なものだろうし。もらう訳には……」
「大切だから、恩人様にあげたいんだよ」
言ってから、アリナはサングラスのつるを開いた。
「ちょっと、じっとしてて」
「え、いや」
断る言葉がまとまる前に、アリナが正面へ回り込んだ。フードの縁を少し持ち上げ、和憲の鼻へそっとフレームを載せる。耳の上につるを通す指が近づき、和憲は動くに動けなくなった。
視界が薄く黄色を帯びた。
アリナは左右の傾きを直してから一歩下がり、満足そうに両手を合わせた。
「ほら! 思ったとおり。似合うよ、恩人様」
「そ、そうか?」
鏡へ向き直る。
丸いレンズ越しでも目は見えるが、直接顔を晒しているときより落ち着いた。鼻に触れるフレームを指で確かめると、アリナが隣に並んだ。
「度は入ってないから、遠くが見えるようになるわけじゃないけどね。眼鏡は、また別に探そうね」
「そこまで面倒かけて悪いな」
「そういうのは、見つけてからでいいよ♪」
彼女は鏡の中の和憲を見上げ、声を少し柔らかくした。
「大事にしてね」
和憲はサングラスから手を離し、彼女の方へ身体を向けた。
「約束する。……ありがとう、アリナさん」
今度は冗談も、照れ隠しもなかった。
まっすぐ礼を言われ、アリナの笑みがわずかに止まった。自分から渡したくせに、そんなふうに受け取られるとは思っていなかったらしい。頬へ赤みが差し、鞄の口を閉じる指が少し忙しくなった。
「う、うん。ちゃんと似合ってるから、使ってね」
「勿論、ずっとつけてるよ」
和憲がもう一度頷くと、彼女は鏡へ目を戻した。そこには、黄色い丸レンズをかけた男と、まだ少し照れた顔をした自分が並んでいた。




