第11話 着替えと素敵な贈り物 その3
鏡の中で、和憲がもう一度サングラスの位置を確かめた。
つるを持つ指には、壊れやすいものを扱うような慎重さがあった。鼻の上へ落ち着いたフレームを軽く押し上げ、それから薄緑色のフードを整える。少し顔を横へ向けてみて、また正面へ戻す。その仕草を眺めていると、アリナの頬には、いったん引きかけた熱がまた戻ってきた。
気に入ってくれた。
それだけなら、渡す前から期待していたことだった。けれど、自分の持ち物だったものが彼の顔へ収まり、大切そうに触れられているのを見ると、思っていた以上に嬉しかった。鞄に入れて持ち歩いていたときとは違う親しみが、細いフレームと丸いレンズに生まれている。
「……うん、やっぱり、それで完成だね!」
アリナは少し弾んだ声で言い、鞄の口を閉じた。
和憲も鏡を見たまま頷く。
「いいな、これ。落ち着くし」
何度確かめても、気に入ったという気持ちは変わらないらしい。指を離してからも少し眺め、満足そうに口元を緩める。その横顔につられて、アリナの口元も綻んだ。
もう少し眺めていたくなったが、いつまでも隣に立っていては、自分が照れていることまで気づかれそうだった。彼女は肩の紐を直し、近くの棚へ視線を移した。
棚の表側はほとんど空になっていたものの、下段の奥に、薄い袋の角が覗いていた。
「あれ。ここ、まだ何かあるよ?」
しゃがみ込み、倒れた仕切り板を持ち上げる。下から出てきたのは、袋に包まれた衣類だった。外側こそ埃で白く曇っていたが、口の閉じた包装の中には、目立った汚れも湿り気もなさそうだった。
アリナは一つずつ取り出し、窓明かりへかざした。
「着替え、まだ使えそう。こっちは……あ、下着もある!」
声に嬉しさが混じった。
食べ物や弾薬のように、見つからなければすぐ命に関わるものではない。それでも、汚れていないものへ替えられるだけで、肌にまとわりつく不快さはずいぶん違う。休んで身体を拭けた今だからこそ、身につけるものもきれいにしたかった。
「したっ……、そ、それは良かった、な?」
和憲は鏡からぎこちなく顔を戻した。アリナが袋の表示を確かめ、使えるものを選び分けているのを見て、近くの椅子へ目を向ける。
「じ、時間かかってもいいから、ちゃんと見てきなね?」
「うん、ありがと! 恩人様も座ってて。まだ歩き始めたばっかりなんだから」
「そ、そうさせてもらうよ」
和憲が座面の埃を払っている間に、アリナは棚の奥から別の袋を引き出した。
淡いピンク色と、澄んだ水色。同じような形のブラジャーとショーツが、それぞれ揃いで包まれていた。袋に付いた埃を払い、サイズを確かめる。どちらも使えそうだと分かると、アリナは二つを見比べた。
それから、椅子へ腰を下ろしかけている和憲を見る。
まだ新しいサングラスが嬉しいらしく、彼は座る前にもフレームへ一度触れていた。その無防備な横顔を見た途端、アリナの唇に、悪戯を思いついたような笑みが浮かんだ。
袋から取り出した二組を両手に分け、彼女は和憲の前へ歩み寄った。
「ねえ、恩人様」
「ん?」
「どっちの色が好き?」
右手にはピンク色。左手には水色。
揃いのブラジャーとショーツを、それぞれ見やすいように軽く持ち上げる。
和憲は最初、色を確かめるように右を見た。次に左へ目を移し、それが何なのかを理解したところで、動きを止めた。
腰は椅子へ下ろしかけたまま、片手も背もたれに置いたままだった。黄色いレンズでは隠しきれない赤みが、頬から耳へ、ゆっくりと広がっていく。
アリナは首を傾げた。
「恩人様?」
「……いや、その」
「うん。ピンクと水色。どっちがいいと思う?」
わざと丁寧に聞き直し、左右の手を少しだけ揺らす。
和憲の視線がつられて動き、すぐに逃げた。棚の方を見ようとしても、すぐ目の前にアリナがいる。その顔を見れば、こちらの反応を十分に楽しんでいる笑みと目が合った。
「……オ、オレに聞かれてもだな……」
「だって、せっかくだから感想を聞いてみたくて。恩人様は、どっちの色が好きなのかな〜?って」
和憲は何か答えようと口を開いたが、言葉がまとまらないらしかった。
ぴたりと止まった身体と、ますます赤くなる顔。その取り合わせに、アリナはとうとう堪えきれなくなった。
「……ふふっ、あはは! 恩人様、固まっちゃった!」
衣類を胸元へ引き寄せ、笑いながら一歩下がる。和憲はそこでようやく腰を下ろし、息をついた。
「急に、そういうの見せられると……その……」
「ごめん、ごめん。色を聞いただけなんだけどなあ〜」
「……アリナさん、分かっててやってるだろ」
「ちょっとだけ?」
悪びれずに答えると、和憲は困ったように眉を寄せた。その顔さえおかしくて、アリナはもう一度笑い、今度こそ下着を袋へ戻した。
「じゃあ、これは自分で選びます。安心して、恩人様」
「……そうしてくれると助かる」
「でも、服は見てくれるよね?」
和憲が、まだ赤みの残る顔を上げた。
「服?」
「うん。着られそうなの、ほかにも見つけたんだ。せっかくだし、ちょっと合わせてみたいなって」
アリナは棚へ戻り、先ほど見つけた袋を幾つか抱えた。白いブラウスや、薄手の羽織りもの、その下に畳まれたスカート。外側の埃を落とせば、中の生地にはまだ新しい服らしい折り目が残っている。
「見るだけでいいから。ね?」
「それなら、まあ……」
「やった! じゃあ、待っててね」
アリナは嬉しそうに笑い、試着室へ向かった。
カーテンが閉まると、和憲は背もたれへ身体を預け、ゆっくりと息を吐いた。サングラスを掛けていれば少しくらい表情を隠せるかと思ったが、どうやら、その期待はあまり当てにならないらしかった。
それでも、外そうとは思わなかった。
鼻に触れるフレームを指先で軽く確かめ、手を膝へ戻す。黄色く透けた視界にも、少しずつ慣れてきていた。
奥から衣擦れの音がする。
和憲はそちらを見続けるのも落ち着かず、入口へ顔を向けた。割れた窓の向こうに、風で揺れる貼り紙が見える。周囲へ意識を向けても、近づいてくるゾンビの気配はなかった。
店内にあるのは、乾いた埃の匂いと、カーテンの向こうで時折立つ小さな物音だけだった。
「恩人様、準備できたよ!」
声を掛けられ、顔を戻す。
カーテンが開くと、白いブラウスに紺色のプリーツスカートを合わせたアリナが立っていた。襟元には細いリボンが結ばれ、長い髪は片側の肩へ流してある。服の白さが、埃っぽい店内でひときわ明るかった。
「まずは一着目。どうかな?」
アリナはスカートの脇を指先で軽くつまみ、片足を少し引いた。鏡で確かめたときには悪くないと思ったが、人に見せるとなると、やはり反応が気になる。
和憲は全体を眺め、頷いた。
「うん。似合ってるよ」
「ほんと? どんな感じ?」
「……ちゃんとしてるな」
「ちゃんとしてる?」
「何と言うか……受付とかに座ってても、違和感なさそうだ」
アリナは一瞬、自分の襟元へ視線を落とした。それから背筋を伸ばし、両手を腹の前へ揃える。
「いらっしゃいませ、恩人様。本日はどのようなご用件でしょうか?」
「はい、実は腹のきつくないズボンを探してまして」
「そちらは、もうお召しになっております!」
和憲が自分の腰元を見下ろしたので、アリナは吹き出した。
「もう、恩人様、ちゃんとお客様になってる!」
「聞かれたからな」
真面目な返事に、また笑いが零れた。
アリナは鏡へ向き直り、スカートの裾を揺らした。形はきれいだったが、脚を大きく動かすには少し気を遣いそうだった。試しに歩幅を広げてみてから、指先で皺を直す。
「これ、座ってるときはよさそうだけど、走るとちょっと気になるかな」
「動きやすい方がいいだろうな」
「うん。じゃあ、次も見ててね!」
カーテンが閉まり、また小さな衣擦れの音が続いた。
和憲は待っている間に、自分のパーカーの袖口を確かめた。半袖なら、腕が変わっても布を巻き込まずに済みそうだった。肩を動かしても窮屈さはない。気に入ったものが見つかってよかったと、もう一度思った。
二度目にカーテンが開いたとき、アリナは淡い黄色のワンピースを着ていた。
細かな花柄が散った裾は膝の下まで届き、その上へ薄手の白いカーディガンを羽織っている。先ほどとは違って、全体に柔らかな印象があり、一歩進むと生地が少し遅れて揺れた。
「これは、どう?」
アリナは窓から差す光の手前で立ち止まった。
和憲はすぐには答えなかった。
壊れた店の中にいることを、ほんの一瞬忘れた。休日の街で、これからどこへ行こうかと話している。そんな場面の方が、目の前の彼女には自然に似合いそうだった。
「……いいな」
やがて、和憲は言った。
「よく似合ってる。きれいだと思う」
アリナの口元がぱっと緩んだ。
「ふふっ、やった!」
嬉しそうに鏡へ向き直り、ゆっくりと身体を回す。裾がふわりと広がり、また脚の周りへ落ち着いた。肩越しに後ろ姿を確かめてから、彼女は和憲へ顔を戻した。
「さっきのと、どっちが好き?」
和憲は少し考え込んだ。
白いブラウスも似合っていたし、今のワンピースも似合っている。それぞれ違うよさがあるようには思うのだが、いざ言葉にしようとすると、どれも同じ感想になってしまう。
「こっちもいいけど、さっきのもよかったな」
「どっちも?」
「うん。……単純な感想でごめんな」
頬を掻き、和憲は少し視線を下げた。
「こうやって着替えを見せてもらって、褒めるのとか、慣れてないんだよ。しかもこんな美人さんを褒めたことがないから、勘弁してくれ」
アリナは瞬きをしてから、ゆっくりと口元を持ち上げた。
「恩人様。わたしのこと、美人って言うのは初めてじゃないよ?」
「それは、そうだけど。服がどうとか、どこが似合ってるとか、そういうのがな」
「そっかあ。うまく説明できないけど、美人だなあとは思ってくれてるんだ?」
「……まあ」
短く肯定され、アリナの顎が少し上がった。
彼女はカーディガンの前を整え、先ほどよりも胸を張って立つ。鏡の中の自分を一度確かめ、それから得意そうに笑った。
「それなら仕方ないね。何を着ても似合っちゃったら、選ぶのも難しいもんね!」
「実際、どっちも似合ってるからな」
「そこ、そんなに素直に返されると、わたしが照れるんだけど!」
自分から得意になっておきながら、アリナは笑って頬へ手を当てた。和憲はまた、何をどう答えればいいのか分からない顔をしている。
その様子を見て、彼女は声を少し柔らかくした。
「でも、謝らなくていいよ。似合ってるって言ってもらえるだけで、ちゃんと嬉しいから」
「それならよかった」
「うん。美人のおまけまでついてるしね!」
アリナは楽しげに言い、もう一度鏡へ向き直った。
裾をつまみ、ほんの少し持ち上げて、足元の形を確かめる。髪を肩へ流し直し、今度はカーディガンの袖を整える。鏡の中で少しずつ変わる自分を眺めるたび、その口元には笑みが浮かんだ。
和憲は背もたれから身体を起こし、そんな彼女を眺めた。
「……楽しそうだな」
「うん!こういうの、久しぶりだもん♪」
答えてから、アリナはふと振り返った。
「あ、でも、待ちくたびれちゃった?もう一着あるんだけど……」
「いや。アリナさんが楽しそうにしてるから、オレも嬉しいよ」
飾り気のない声だった。
アリナは鏡へ向き直りかけた姿勢のまま、動きを止めた。服を褒められることは期待していた。少しくらいからかえば、照れた反応が返ってくることも、もう分かっていた。
けれど、自分が楽しんでいることを、そのまま喜ばれるとは思っていなかった。
頬に添えかけた指が、行き場をなくして髪へ触れる。アリナは耳の横の髪をそっと整え、和憲を見た。
「……そっか」
小さく答えてから、口元に浮かんだ笑みを、今度は隠さず広げた。
「じゃあ、最後も張り切っちゃおうかな!」
「どんなのだろうな?楽しみにしてるよ」
「うん♪ちゃんと見ててね、恩人様!」
試着室へ戻る足取りが、さっきより少し軽くなった。
カーテンを閉じてからも、アリナの口元はなかなか元へ戻らなかった。
彼を観察するのは、自分の任務だった。それなのに今は、彼が自分のことを見てくれていたのが嬉しい。その小さな食い違いを、どう受け止めればいいのか、まだよく分からなかった。
アリナはワンピースの裾を揃えて畳み、次に用意していた服へ手を伸ばした。




