第12話 着替えと素敵な贈り物 その4
三着目は、先ほどまでとはがらりと趣を変えて選んだものだった。
白地に紺色の襟がついた半袖の体操着と、同じ紺色のブルマ。太ももまで届く白いソックスを左右とも整えてから、アリナは鏡の前で軽く肩を回した。
ブラウスやワンピースとは違い、飾り気のない装いだった。それでも、明るい白と落ち着いた紺色の組み合わせには、どこか懐かしい快活さがある。亜麻色の長い髪を背中へ払い、両腕を伸ばしてみると、生地は動きを妨げずについてきた。
「……うん。これは動きやすいね」
アリナは小さく笑い、カーテンへ手を掛けた。
「お待たせ! 最後は、ちょっと変わったのを見つけました!」
カーテンを開けると、和憲が顔を上げた。
そのまま、返事が止まった。
アリナは一歩出て、軽く両手を広げた。先ほどまでの柔らかなワンピース姿とは違い、今度は運動場へ駆け出していきそうな装いだった。本人もその違いを楽しんでいるらしく、鏡の前で横を向き、袖の引っかかりを確かめている。体操着の布は胸のあたりで大きさに沿う形で張り、ブルマの裾と白いソックスの間には、肉付きのよい太ももが覗いていた。
「どうかな? こんなのまで残ってたんだよ」
和憲は何か言いかけたが、すぐには声にならなかった。黄色いレンズの奥で視線が動き、それからアリナの顔へ戻ってくる。その頬が徐々に赤くなっているのを見て、アリナは首を傾げた。
「……恩人様?」
「いや、その……」
いつもなら、似合ってる、動きやすそうだ、と短い感想が返ってくる。ところが今は、その短い言葉さえ出てこないらしい。
アリナは彼の顔を見つめ、やがて何かに気づいたように口元を持ち上げた。
「……こういうの、好きなんだ?」
和憲の肩が、ほんの少し動いた。
アリナは笑いを含んだ目で、その返事を待つ。
「き、キライじゃないよ……」
「ふうん。嫌いじゃない、なんだ?」
わざと同じ言葉を繰り返すと、和憲は困ったように頬を掻いた。アリナは楽しそうに身体を少し傾け、続けて尋ねた。
「じゃあ、本音は?」
和憲は一度口を閉じた。
逃げ道を探すように棚へ目を向け、それから、まだ返事を待っているアリナを見る。とうとう観念したように肩を落とし、赤い顔のまま答えた。
「……めっっっちゃ、好きです」
一拍置いて、アリナが吹き出した。
「あははっ! 急に丁寧になっちゃった!」
「……聞いたの、アリナさんだろ」
「うん。聞いた! ちゃんと答えてくれてありがと!」
アリナは嬉しそうに頷き、体操着の裾を整えた。
服を変えるたびに、彼の反応も少しずつ変わる。その違いを見るのが面白かったし、何より、気に入ってくれたことが分かると、自分までその服を好きになってしまう。
「そっかあ。最後に着てみてよかったね、これ」
「……そうだな」
「恩人様の好み、ひとつ分かっちゃった♪」
和憲が返事に困るのを見て、アリナはまた笑った。
もう少しだけ、からかってみよう。
そんな気持ちで彼の前へ歩み寄り、顔を覗き込もうとしたときだった。靴先が、床に敷かれた古いマットのめくれた端へ引っかかった。
「あっ」
足が思うように前へ出なかった。
アリナは咄嗟に体勢を立て直そうとしたが、和憲の顔へ意識を向けていた分だけ反応が遅れた。踏みとどまろうと横へ出した足も滑り、身体が半回転する。
椅子の脚が床を擦った。
和憲は立ち上がりながら腕を伸ばし、背中から倒れかけたアリナを受け止めた。けれど、足を踏み替えるより先に彼女の重さがかかり、自分も後ろへよろめいてしまった。
ふくらはぎが椅子へ当たった。
押された椅子が斜めにずれ、和憲は座面を外して尻餅をついた。そのまま背中まで床へつき、支えていたアリナの身体も、彼の上へ崩れる。
アリナは咄嗟に膝を開き、和憲の身体の左右へ手をついた。
どしん、という音が、狭い店内に響いた。
動きが止まったとき、アリナは和憲の足元の方を向き、彼の肩口をまたぐ格好になっていた。両膝は肩の左右につき、腰を落としてしまった拍子に、ブルマに包まれたお尻が彼の顔へ重なっていた。
和憲の鼻先へ布地が押し当たる。
アリナは両手を床についたまま、自分がどんな体勢になっているのかを理解し、固まった。
身体を直接床へ打ちつけずに済んだのは、和憲が下敷きになったからだった。けれど、その顔の上にまで乗ってしまうとは思わなかった。
ほんの一瞬前まで笑っていたのに、今は自分の呼吸の音ばかりが、妙にはっきり聞こえた。
和憲の吐息が、布越しにかかった。
「あっ♡」
アリナの喉から、小さな声が漏れた。
慌てて腰を浮かせようとしたが、片方の靴先が和憲の腕に引っかかっていた。彼を蹴らないよう足を抜こうとしている間に、和憲が口を動かした。
大丈夫か、と尋ねたつもりだった。
けれど、唇が布地に触れ、声はもごもごとくぐもるばかりだった。その動きが伝わり、アリナは思わず声を上げた。
「ん……っ♡恩人様、ダメっ……♡」
何を言おうとしたのかまでは聞き取れなかった。アリナは床についた両手と膝へ体重を移し、引っかかっていた足を抜くと、今度こそ腰を浮かせた。
そのまま膝を片方ずつずらして和憲の身体をまたぎ越し、傍らへ座り込む。振り返ると、彼も肘をついて上体を起こそうとしていた。
黄色いレンズが、少し傾いている。
その奥の目と視線が合った途端、二人とも顔を赤くして目を逸らした。
「あ、あの……」
「……う、うん」
言葉が重なり、どちらもその先を失った。
アリナが片膝を立てて立ち上がると、和憲も床へ手をつき、身体を起こした。互いにぶつからないよう少し離れたところで、彼は両手を途中まで上げたまま、何とも言えない顔をした。
「ご、ごめん。その、咄嗟に……」
「こ、こっちこそ!わたしが、足元見てなかったから……」
アリナは首を振った。
いつものように笑って済ませようとしたが、声が思ったほど弾まない。彼の目を見ようとするたび、今しがたの体勢が思い出され、視線が少し外れてしまった。
それでも、伝えることはあった。
アリナは体操着の裾を指先で整え、ほんの少し顔を上げた。
「……ありがとう」
小さな声だった。
和憲は一度瞬き、それから、まだ赤い顔のまま頷いた。
「怪我してなければ、いいんだけど」
「うん。平気だよ。恩人様が、ちゃんと受け止めてくれたから」
口にすると、倒れかけたときに背中を支えた腕を思い出した。同時に、彼は自分を受け止めたまま床へ倒れたのだと、改めて気になった。
アリナが様子を確かめる間に、和憲は肩を動かし、服についた埃を払った。痛がる様子はなかったが、彼女は立ち姿と足元をもう一度見てから、ようやく息をついた。
和憲はずれた椅子を直し、つまずく原因になったマットへ目を落とした。端を押さえるだけではまためくれそうだったので、屈んで畳み、二人が通らない棚の脇へ寄せた。
アリナはその様子を見ていた。
さっきまで照れて目も合わせられなかったのに、彼はもう一度転ばないようにしてくれている。その気遣いが嬉しくて、ようやく口元に小さな笑みが戻った。
「……動きやすい服を選んだのに、転んじゃった」
「床が悪かったんだよ」
「でも、恩人様の顔ばっかり見てたのは、わたしだから」
言ってから、アリナはしまったと思った。
和憲が顔を上げる。二人の視線が合い、また、どちらともなく外れた。
アリナは頬の熱をごまかすように笑った。
「と、とにかく! 外を歩くときは、いつもの格好に戻すね」
「だな。その方がいい」
「……着てみたのは、悪くなかった?」
尋ねる声には、先ほどほどのからかいはなかった。
和憲は顔を上げ、今度はきちんと彼女を見た。
「全然、悪くなんてないよ。似合ってた」
アリナは嬉しそうに笑った。
「そっか♪じゃあ、最後も成功ってことにしよう!」
そう言って試着室へ戻ったが、カーテンを閉める手つきは、さっきより少し慎重だった。
布の向こうへ姿が消えてから、和憲は椅子へ腰を下ろした。鼻の上でずれていたサングラスを直し、長く息を吐く。
アリナも試着室の中で、自分の頬へ手を当てていた。
冷ましたいのに、思い出してしまう。椅子が鳴った音も、二人で倒れたときの体勢も、身体を離してから目が合った瞬間も。そして、思わず漏らしてしまった自分の声も。
もう少しからかってやろうと思ったのは自分なのに。
アリナは声に出さずに笑い、着替えを手に取った。
やがてカーテンを開けたとき、彼女は白いタンクトップに水色の短いスカート、黒いスパッツという慣れた組み合わせへ戻っていた。動きやすいジャケットを羽織り、靴もきちんと履き直している。
和憲が顔を上げる。
アリナは一瞬だけ彼と目を合わせ、照れを残したまま笑った。
「お待たせ! 今度はちゃんと歩けるよ」
「なら安心だな」
「もう、そんなに心配そうに見なくても大丈夫だって!」
少し弾んだ声が戻り、店の中に残っていたぎこちなさも、ようやく薄れていった。
アリナは姿見の前へ立ち、襟を整えた。和憲も椅子から立つと、その隣へ近づく。
鏡に、薄緑色と水色が並んだ。
「あ、やっぱり、並ぶといい感じだね」
アリナが楽しげに言った。
「恩人様が緑で、わたしが水色。サングラスの黄色もあるし!」
言われて、和憲はフレームへ触れた。
鏡の中の自分は、血に汚れた実験着を着ていたときより、ずいぶんましに見えた。身体の形が変わったわけでも、顔が整ったわけでもない。ただ、好きな服を着て、貰ったサングラスを掛けている。それだけで、鏡を見る気分まで違っていた。
「ホント、いいもん、もらったな」
何気なく呟くと、隣のアリナがこちらを見た。
「ふふっ。そんなに気に入ってくれた?」
「気に入りまくりだよ。すごくいい」
和憲は鏡へ顔を向けたまま答えた。
アリナは彼の手元を見た。フレームへ触れている指は、やはり慎重だった。異形の刃にもなる手が、今は細いつるへ余計な力を掛けないように動いている。
先ほど、自分を受け止めてくれた手でもあった。
そのことを思い出して、アリナは少しだけ目を伏せた。けれど、今度は頬の熱から逃げずに、小さく笑った。
「……あげてよかった」
和憲がこちらを向く。
「ありがとうな。ちゃんと、大事にするよ」
「うん。いっぱい使ってね。鞄にしまったままより、その方がわたしも嬉しいから」
アリナはそう答え、持っていく着替えをまとめに戻った。
黄色のワンピースは皺になりにくいよう畳み直し、替えの下着と一緒に袋へ収める。体操着も着替えとして役立ちそうだったので、付着した埃を払い、ソックスとともにまとめて鞄へ加えた。
和憲は入口へ目を向け、周囲の気配を探った。すぐ近くにゾンビの気配はない。
「準備、できたよ」
「じゃあ、行こうか」
アリナが肩の紐を直すのを待ってから、二人は店を出た。
新しい靴底が、乾いた舗装を踏んだ。
服が肌へ貼りつかないだけで、歩くときの気分まで違っていた。和憲は肩を一度回し、腕の動きを確かめる。薄緑色の半袖は風を通し、フードの縁が頬の近くで小さく揺れた。
アリナは隣を歩きながら、彼がまたサングラスへ触れるのを見た。掛け心地を確かめているのか、そこにあることを確かめているのか。その仕草を見るたび、贈ったときの喜びが小さく胸へ戻ってきた。
ふと、先ほどまでいた店を振り返る。
「ねえ、恩人様」
「ん?」
「わたし、こんな世界でファッションショーを楽しめるなんて思わなかった」
和憲が足を緩め、彼女を見る。
「ファッションショー?」
「うん。服を選んで、着替えて、見てもらって。こんなにちゃんと楽しめるなんて、思ってなかったよ」
アリナは自分の服の裾をつまみ、軽く整えた。
「世界中がこんなことになっても、きれいな服を着ると嬉しいし、恩人様が似合ってるって言ってくれると、もっと嬉しい。だから、今日はすごく楽しかった!」
「オレも、いろんな服装のアリナさんを見られて楽しかったよ」
「えへへ♪そっか!」
アリナは笑い、彼の隣へ並び直した。
「また服が見つかったら、次のショーもやろうね!」
「それ、いいな。楽しそうだ」
「でしょ? 恩人様に、もっといろんなわたしを見せちゃうんだから!」
言ってから、アリナは何かを思いついたように顔を上げた。
「そうだ! 次は恩人様の服も選ぼうよ」
「オ、オレも……?」
「大丈夫! わたしがしっかりコーディネートしてあげるから!」
和憲は自分のパーカーを見下ろした。今の服も気に入っている。だが、隣で楽しそうにしているアリナを見ると、ほかの服を試してみるのも悪くないように思えた。
「まあ、アリナさんのセンスなら間違いないだろうし……せっかくだもんな。次のときはお願いするよ」
「うん! 恩人様を、もっとカッコよくしてあげる!」
アリナは嬉しそうに胸を張った。
どんな色が似合うだろう。動きやすさは外せないし、きっと腹のきつくないものがいい。そう口にしながら考え始める彼女を見て、和憲も小さな笑みを浮かべた。
アリナは今度こそ足元を確かめてから、次の一歩を踏み出した。それから、隣を歩く和憲の耳元へ、そっと顔を寄せる。
「……その時はまた、‘’あの服‘’、着てあげるね♡」
和憲の耳にだけ届く小さな声で、彼女はそう囁いた。




