第13話 着替えと素敵な贈り物 その5
服屋を出て崩れたコンビニの看板が見えてきた辺りで、和憲は足を止めた。
複数のゾンビの気配がある。
風に紛れて、金属のぶつかる音が聞こえた。硬いものを無理に叩きつけるような、間隔の不揃いな音。そのあとに、人の声が続く。
「来るな……来るなって……!」
アリナも足を止めた。先ほどまでの笑みが消え、手が腰の拳銃へ移る。
二人は道路へ崩れ出した瓦礫の陰へ身を寄せた。
欠けたコンクリートの向こうを覗くと、若い男が四体のゾンビに囲まれていた。手には折れ曲がった金属パイプを握り、片脚を引きずっている。額から流れた血が眉を濡らしていたが、拭う余裕もないらしかった。
男がパイプを振るった。
先頭の一体の肩へ当たり、鈍い音が響く。ゾンビの上体は横へ流れたが、足は止まらなかった。崩れた姿勢のまま腕を伸ばし、その脇から別の一体が迫る。
男は後退しようとして、足元の破片を踏んだ。
傷めた脚が支えきれず、身体が傾く。パイプを握ったまま尻餅をつき、慌てて後ろへ手をついたが、すぐ背後には倒れた棚があった。退く場所を失った男の顔が、恐怖に歪んだ。
和憲は息を吐いた。
「……面倒くさい。けど」
その呟きに、アリナは隣の横顔を見た。
深く被ったフードと黄色いレンズのせいで、表情は読み取りにくかった。それでも、口元には確かに億劫そうな気配がある。昨夜あれほど戦い、ようやく身体を休めたばかりなのだから、また厄介事へ関わりたくないと思っても不思議ではなかった。
アリナは銃へ手を添えたまま、倒れた男と和憲へ交互に視線を向けた。
和憲は座り込んだ男を見ていた。
助ければ名前を聞かれ、この腕について説明を求められるかもしれない。何と答えればいいのか考えるだけで気が重くなる。事情を話しても理解してもらえるか分からず、怖がられる可能性もあった。
けれど、ここで立ち去れば、今度はあの男の顔が頭に残るだろう。
助けられたのではないか。少し動けば済んだのではないか。
何もなかったように歩き続けたところで、夜になれば思い出す。静かな場所へ座れば、今聞こえた声が戻ってくる。そんなことを、あとになって何度も考える羽目になる。
「……そっちの方が面倒だな」
小さくぼやいて、和憲は物陰から半歩出た。
左手を握ったその動きを見て、アリナの肩から、わずかに力が抜けた。
やっぱり、助けるのだ。
口では面倒だと言いながら、逃げる道を探すことも、見捨てる事もしない。和憲が見ていたのは、倒れた男と、そこへ伸びていく死者の手だった。
研究施設で自分を庇ったときも、こんなふうだったのかもしれない。大げさな決意など口にせず、放っておいたら後味が悪いというだけで、身体を前へ出したのだろう。
自分だけに向けられた親切ではなかった。
そのことが、アリナにはむしろ嬉しかった。あのとき聞いた素っ気ない説明を、今、少しだけ信じられる気がした。
「……行くんだね、恩人様」
声に滲んだ安堵に、和憲は気づかなかったらしい。男を見たまま、短く頷いた。
「まあ、あれぐらいの数なら何とかなりそうだし」
アリナは頷き返し、通りの左右へ視線を走らせた。助けると決めたのなら、昨夜のような無茶をさせないためにも、自分が周囲を見ていなければならない。
「後ろは見てる。無理はしないでね」
「サンキュ。頼むよ」
和憲が物陰を出ると、左腕の輪郭が崩れ始めた。
指と掌が黒ずんだ組織へ呑まれ、腕の先へ硬い稜線が浮かび上がる。人の手だった形が失われ、薄緑色の半袖の下から、巨大な刃が伸びていった。
今度は、布の裂ける音がしなかった。
和憲は半袖の縁へ一瞬意識を向けたが、足を止めずに距離を詰めた。男へ噛みつこうとしていた一体の背後へ近づき、左腕を横へ振り抜く。
首を失った身体が、男の手前へ崩れ落ちた。
音に反応して振り返った二体目には、戻した刃を上から振り下ろす。斜めに受けた衝撃でゾンビの身体が沈み、和憲は一歩踏み込んで腕を引いた。その横から伸びてきた手を視界の端で捉え、身体を向け直しながら、三体目を腕ごと斬り伏せる。
動きはまだ大きかった。刃を振れば肩が流れ、足元へ重さが掛かる。それでも昨夜のように追い詰められてはいない。和憲は踏み直して身体を支え、残る一体との間合いを確かめた。
アリナは男へ近づける位置を取りながら、最後のゾンビと周囲の路地を見ていた。
和憲が四体目を倒し、左腕を下ろさずに辺りへ意識を向ける。
「……他には、いなさそうだな」
その言葉を聞いて、アリナは男のそばへ屈んだ。
「大丈夫? 噛まれてない?」
「あ……ああ。脚は、転んだときに……」
男はまだ目の前の出来事を理解できていないようだった。声が途切れ、視線がアリナから和憲の左腕へ動く。
アリナは傷の位置を確かめ、男の腕を取った。
「ゆっくり立てる? こっち、つかまって」
男が頷き、無事な方の足へ体重を掛ける。アリナが身体を支えると、どうにか立ち上がることができた。痛みはあるようだったが、傍らの棚へ手をつけば姿勢は保てそうだった。
和憲は人のいない方へ刃を向け、付着した血を払った。硬い輪郭がほどけるように変わり、しばらくすると、そこにはまた肉付きのいい左手が戻っていた。
男は棚の残骸へ手をつき、呆然と彼を見た。
「あんた……一体、何なんだ……?」
男の質問に和憲は少し考えてから、正直な答えを返した。
「さあ。自分でもよく分からん」
それだけ答えると、アリナが男から手を離したのを確かめ、踵を返した。
「歩けるなら、気をつけてな」
「この辺、まだいるかもしれないから。物を探すなら周りも見てね!」
アリナも声を掛け、和憲を追った。
後ろから礼が聞こえた。
和憲は僅かに身体を向けて片手を軽く上げるだけにして、通りへ戻る。新しい服へ血が大きく飛んでいないことを確かめ、それからサングラスの縁へ指を添えた。ずれも傷もないと分かると、少しだけ息をついた。
困っていれば助け、用が済めば離れる。
その距離感は、思った以上に気楽だった。
以前は、言い方を間違えなかったか、相手を怒らせていないかと、会話の最中から考えていた。家へ帰っても一言を思い返し、送ったメッセージの返事が遅ければ、何か気に障ったのではないかと悩んだ。実際に何か言われたわけでもないのに、相手の沈黙へ勝手に理由をつけて、自分で疲れていた。
今は、少なくとも助けた相手の機嫌まで取り続ける必要はない。
礼を受け取るために立ち止まることも、自分をよく思ってもらうために説明を重ねることもせず、その場を離れてしまっていい。
隣のアリナは、彼が黙っていても勝手に気まずくなったりはしなかった。通りの先を見て、気になるものがあれば声を掛けてくる。昨夜は叱られたが、何を怒っているのかは、ちゃんと言葉にしてくれた。
さっきの試着室の前では、互いに顔を赤くして困ってしまったけれど、それで話せなくなったわけでもない。
そういう相手と歩くのは、今のところ、悪くなかった。
建物の陰へ入る手前で、和憲はふと足を止めた。
「どうしたの、恩人様?」
「いや、ちょっと……」
振り返り、和憲は今来た道を戻った。
アリナは一瞬首を傾げたが、すぐにその隣へ並んだ。何か見落としたのだろうか。まだゾンビがいたのかと周囲を確かめたものの、和憲の歩き方に切迫したところはない。
助けた男は、まだコンビニの前にいた。傷めた脚へ少しずつ体重を掛け、歩けるか確かめていたらしい。戻ってくる二人を見ると、顔に戸惑いが浮かんだ。
「すまん、少し聞きた事があって……」
「……なんだ?」
和憲はパーカーの裾を引き、似合っているかどうかは兎も角、自分が格好いいと思っているであろうポーズを取った。
「この服装、どう思う?」
男の表情が固まった。
アリナも一瞬だけ目を丸くし、それから、堪えきれずに小さく吹き出した。
「……ふふっ。恩人様、聞きたかったの、それ?」
「せっかく着替えたしな」
和憲は至って真面目だった。裾の皺を伸ばし、男に見えやすいようにして返事を待った。
その横顔を見ていると、アリナはますますおかしくなった。
彼が足を止め、助けた男のところへ戻ろうとしたとき、ほんのわずかだが考えてしまった。何か欲しいものがあるのだろうか。助けた代わりに、物資や情報を求めるつもりなのだろうか、と。
それ自体を悪いと思ったわけではない。何の見返りもなく人を助ける方が、今の世の中では珍しかった。けれど、さっき彼が男を助けると決めた姿に安心したばかりなのに、自分はまだ、立ち止まった理由をそんなふうに探していた。
その結果が、服装の感想だった。
素性を聞かれても曖昧に答え、礼さえろくに待たずに立ち去った男が、わざわざ戻って確かめたいのは、着替えた自分がカッコよく見えるかどうからしい。
少しでも何かを要求するのかと考えた自分が、馬鹿みたいだった。
アリナは口元へ指を添え、肩を小さく揺らした。疑い深さを恥じるよりも先に、胸の奥から力が抜けていく。和憲は彼女が笑う理由を分かっていないようで、少し首を傾げた。
「変なこと聞いたかな?」
「ううん。気になってたんだなあ〜って」
まだ笑みを残したまま答えると、和憲は納得したように男へ向き直った。
男の視線が、薄緑色の半袖パーカーから黒いノースリーブへ下り、丸い腹と白いラインの入ったジャージを辿っていく。最後に黄色い丸レンズの奥へ目を戻すと、和憲は期待を隠すでもなく返事を待っていた。
「で、この格好どう思う?」
「……助けてもらっておいて、本当に申し訳ないんだけど」
「……」
「ダサい」
アリナの笑みが、その形のまま止まった。
風に押されて、壊れた看板の端がかすかに鳴った。
和憲は黙ってパーカーを見下ろし、裾を摘まんでいた指を離した。
「……そっか」
先ほどまで少し張っていた胸が、元へ戻った。その分かりやすさに、アリナは今度こそ笑いを飲み込んだ。本人が本当に気に入っていることも、少し残念がっていることも分かったからだった。
「あ、いや、でも、動きやすそうでは――」
「いや、いい」
和憲は小さく頷いた。
「正直でいいな」
「……え?」
「じゃあな」
それ以上、何かを求めることもなく、和憲は背を向けた。
アリナは男へ軽く会釈し、薄緑色の背中を追った。追いつきながら、緩んでしまう口元を一度引き締める。まだ少しおかしかったが、伝えたいことは笑わずに言いたかった。
「恩人様。わたしは、いいと思ってるよ」
「ありがとな」
「慰めで言ってるんじゃないからね?」
和憲が顔を向けると、アリナは薄緑色の袖を指先で軽く摘まんだ。
「この色、わたしは好きだし。動きやすいし、恩人様も気に入ってる。だったら、いいじゃない」
「それはそうだな」
和憲は自分の服を見下ろした。
腹は楽だった。肩も窮屈ではない。さっき腕を刃へ変えたときにも、布は破れなかった。何より、この色も形も、自分は気に入っている。
男の感想を聞いて少し残念にはなったが、それで別の服へ着替えたいとは思わなかった。
アリナは彼が袖へ目をやるのを見てから、指先を離した。
「きっと、ほかにも良さが分かる人はいるよ。わたし一人ってことはないでしょ?」
そう言って笑い、黄色いレンズへ目を向けた。
「サングラスだって、ちゃんと似合ってるんだから」
「これは、オレもそう思う」
今度の返事には、ほとんど間がなかった。
アリナは一瞬目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。
「でしょ!」
得意げな声につられ、和憲の口元も少し緩んだ。フレームへ触れる指は、店で掛けてもらったときと同じように慎重だった。
服装をまとめてダサいと言われても、このサングラスを気に入った気持ちまでは揺らいでいない。そのことがアリナには嬉しかった。
彼の顔に収まっている黄色いレンズを見ていると、贈ったときの喜びが、何度でも小さく胸へ戻ってくる。
「アリナさんにそう言ってもらえると、自信つくな」
何気なく零れた言葉に、アリナは顔を上げた。
和憲はパーカーの裾を軽く引き、改めて自分の服装を見下ろしていた。先ほど「ダサい」と言われたときよりも、その顔はずっと晴れやかだった。気を遣って言っているのではなく、彼女に褒められたことが、本当に嬉しいらしかった。
アリナの口元が、ゆっくりと緩んだ。
「そっかあ。わたしに言われると、自信がつくんだ?」
「うん。アリナさん、いろんな服が似合ってたし。そういう人にいいって言ってもらえると、嬉しいもんだな」
アリナは背筋を伸ばした。
一瞬、黒いブラウスを着ていたときのことが頭をよぎったが、今はからかわずにおこうと思った。自分の方まで、思い出して赤くなりそうだったからでもある。
「ふふっ。じゃあ、もっと自信持っていいよ! わたしが似合うって言ってるんだから」
「そうするか」
「うん、その調子!」
胸を張って答えながら、彼女は和憲の顔をもう一度覗いた。黄色いレンズの奥に残る穏やかな表情を見ると、自分まで嬉しくなった。
自分の言葉が、この男の気持ちを少し明るくできた。そのことが、褒め返された以上に誇らしかった。
世界は壊れ、自分の身体も人間ではなくなりつつあるのかもしれない。それでも、気に入った服をダサいと言われれば少しへこみ、隣から褒められれば、また胸を張って歩ける。
和憲はフードを被り直した。
新しい布が頬の脇へ触れ、鼻の上にはアリナからもらったサングラスの重みがある。どちらも、今はしっくりと馴染んでいた。
通りの先で、アリナが瓦礫の少ない方を指さした。
「こっちの方が歩きやすそうだよ、恩人様」
「そうだな。足元、気をつけて」
何気ない言葉に、アリナは一瞬だけ和憲を見た。
試着室の前で抱き留められたことが、また二人の間へ戻ってきた気がした。和憲もそれに気づいたのか、わずかに視線を外す。
アリナは頬の熱をごまかすように笑った。
「……うん。今度は、ちゃんと見て歩く!」
「オレもよくコケる方だからさ、お互い気をつけような」
「もう恩人様ったら!わたしはそんなに頻繁に転んだりしませんよーだ!」
妙に実感の籠もった和憲の発言に、アリナは明るく答え、それから歩幅を緩めて彼を待った。
和憲が隣へ並ぶ。二人は足元を確かめながら、同じ方へ歩き出した。




