第14話 方向オンチと目的地 その1
着替えを済ませ率直な評価を聞いてから少し歩いた後、アリナが鞄から水の容器を取り出した。
蓋を緩め、ひと口だけ喉を潤してから、隣に立つ和憲へ差し出す。容器の中で揺れた水が窓明かりを拾い、彼女の指先へ淡い光を落とした。
「恩人様も少し飲む? 休んでたときも、いらないって言ってたけど」
「……いや」
和憲は差し出された容器を見たまま、自分の喉へ手を当てた。昨夜から何も飲んでいないはずなのに、欲しいと思わない。その不思議さを確かめていたのだが、アリナは彼の視線が飲み口のあたりで止まっているのを見て、楽しげに目を細めた。
「あれ? もしかして、間接キスになるの、気にしてる?」
和憲の指が喉元で止まった。
アリナの顔を見て、それから、たった今その唇が触れていた飲み口へ目を戻す。それまで意識にもなかったことを言われた途端、頬へじわりと熱が上った。
「……そ、そうじゃなくて」
「ふふっ。じゃあ、どうして赤くなっちゃったの?」
「か、間接キスとか、言われたからだよ……」
困ったように返すと、アリナは口元を緩めた。からかう前には普通にしていた男が、今は容器にも自分にも視線を落ち着けられずにいる。その正直な反応がおかしくて、笑いを堪えるように肩が小さく揺れた。
「そっか。わたしが言っちゃったからかあ〜」
「……うん」
「ごめんね。でも、わたしは恩人様だったらいいよ?」
和憲が顔を上げた。
アリナは差し出した容器を軽く持ち上げ、にこりと笑ってみせる。
「同じところから飲んでも、気にしないってこと。だから、遠慮しなくて大丈夫だよ」
「あ、ありがとう……」
礼を言う声が少し小さくなった。アリナはその様子を面白そうに眺めていたが、和憲がまだ受け取ろうとしないので、首を傾げる。肩に掛かっていた髪がさらりと滑り、ジャケットの胸元へ流れた。
「それとも、やっぱり気になっちゃう?」
「いや、だから、そうじゃなくて……喉が渇いてないんだよ」
ようやく言えたとばかりに息をつき、和憲はもう一度、自分の喉を撫でた。
口を閉じて唾を飲み込んでみても、乾いて貼りつくような感触はない。少し前まで頬へ上っていた熱が引くにつれ、そのことがますます奇妙に思えてきた。
「目が覚めてから、何も飲んでないのにな……」
「うん。だから、飲んだ方がいいかなって思ったんだけど……」
アリナの声から、からかう響きが少し薄れた。
和憲は今度は腹へ手を当てた。昨夜から何も口にしていない。あれほど身体を動かしたのだから、腹が減り、喉も渇くはずだった。休憩中は疲れの方が先に立っていたが、着替えて落ち着いた今も、そのどちらも感じない。
「……腹も減ってないんだよな」
「本当に? 無理して、わたしに残そうとしてない?」
「いや、そういうんじゃなくて。欲しくならないんだよ」
アリナは容器を差し出したまま、彼の顔を見た。
和憲も改めて確かめてみたが、腹の内側は静かなままだった。空腹や渇きを知らせる仕組みだけ、どこかで置き忘れてきたようだった。身体はここにあるのに、長年付き合ってきたはずの感覚が、ところどころ抜け落ちている。
「ホント、あそこで何をされてたんだか」
「身体のこと、まだ分からないもんね」
「こんな世界で、飲まず食わずでいいのは、便利でありがたいけどな」
しみじみとした言い方に、アリナは呆れたように眉を下げた。
「便利で済ませるの、恩人様らしいけど……何か変だったら、ちゃんと言ってね?」
少し前にも聞いた言葉だった。和憲は少しだけ背筋を伸ばして頷く。
「分かった」
「うん。それならよし!」
アリナはようやく容器を引き、残りを確かめるように一度傾けてから、蓋を締めた。その仕草が、和憲の目に留まった。
「水、あんまりないのか?」
「まだあるよ。ただ、次を見つけておけると安心かな」
「そうか」
和憲はその容器が鞄へ収まるのを見届けてから、入口へ向かった。
外の日差しは、先ほどより高い位置から廃墟を照らしていた。割れた窓の縁が白く光り、建物の陰との境目が舗装の上へくっきりと伸びている。
黄色いレンズ越しに見る街は、輪郭こそぼやけたままだったが、無機質な壁の色が少し違って見えた。灰色ばかりだった景色へ、薄く蜂蜜を溶かしたような色が差していた。
和憲はフードの先を弄りながら、通りへ出たところで立ち止まった。
「……これから、どうするかね」
「恩人様、どこか行きたい場所はあるの?」
問われて、一人の女性の顔が浮かんだ。
無事でいてほしい。もう一度、あの声を聞きたい。その望みは消えなかったが、探すにしても手掛かりがない。どこで暮らしているのか、それ以前に、今もどこかで暮らしているのかさえ分からなかった。
会えたとして、自分は何を言うのだろう。
考えが同じところを回り始める前に、和憲は周囲の建物へ目を向けた。
「……大都会は、窮屈だな」
狭い通りには看板が重なり、ビルの隙間には非常階段が押し込まれていた。人が消えても、街には物がひしめき合っている。空を見上げるにも、まず建物の輪郭を避けなければならない。
実家の前には田畑があった。少し歩けば山が見え、夕方には車の音さえ途絶えて、季節の虫の声ばかりが響いた。あの家から連れていかれるまでは、和憲もそんな景色の中で暮らしていた。
自分の足で旅に出たわけではない。
帰る日の予定も、行き先を選ぶ余地もなく、住み慣れた場所から研究施設へ連行された。移動した道筋など分からず、施設の所在地を確かめる機会もなかった。実家の景色と、あの建物の中で過ごした日々の間には、自分では辿り直せない道のりが横たわっていた。
そこからようやく外へ出た今、思い出せる家の前の風景は、ひどく広々として感じられた。
「とりあえず、家に帰ってのんびり暮らすか」
「お家?」
「田舎にあるんだ、実家。久々に帰ってみようかね」
口にすると、少し気が楽になった。今すぐ答えの出ないことを抱えたままでも、帰りたい場所ならある。それだけで、立ち尽くしている理由が一つ減ったように思えた。
アリナは彼の横顔を見つめ、明るく頷いた。
「じゃあ、わたしも一緒に行く!」
和憲は顔を戻した。
「……実家に?」
「うん!恩人様の帰省にお供します!」
軽く敬礼のポーズを取りながらアリナが楽しげに告げると、和憲はわずかに眉を寄せた。嫌そうな顔ではなかったが、すぐに頷いてくれる様子でもない。
「いや。そこまで付き合わなくていいよ」
「ええっ、どうして?」
「アリナさんにも、自分の用事があるだろ。行きたいとことか、帰るとことか」
和憲は彼女の荷物へ一度目をやった。
「オレが勝手に帰るだけなのに、付き合わせるのは悪いよ。どのくらいかかるかも分からないし」
断られると思っていなかったアリナは、笑顔のまま一瞬言葉を止めた。
自分の用事なら、確かにある。
和憲を監視し、その行動を観察して報告すること。それが彼女に与えられた任務だった。付いていくのは用事を後回しにするためではなく、用事を果たすためなのだが、本人へそう説明するわけにはいかない。
こちらの都合を気遣ってくれている。その親切が今は困ると分かっていても、無下に押し返す気にはなれなかった。
「わたしの用事は、そんなに急がなくても大丈夫だよ。だから、しばらく一緒でも――」
「じゃあ、そっちに付き合おうか」
「……え?」
今度こそ、アリナは目を丸くした。
「行かなきゃならないとこがあるなら、先に寄ってもいいし。オレに手伝えることなら、手伝うよ」
「恩人様が、わたしの用事に?」
「うん。実家へ帰るのは、そのあとでも構わんから」
アリナは返事を探した。
監視する相手から、任務を手伝おうと申し出られてしまった。和憲は何も知らない。それでも、こちらがそばにいる理由を隠そうとしている相手に、何をすればいいかと尋ねられるのは、どうにも調子が狂う。
『あなたを見ているのが用事です』、と言えたら簡単なのに。
しかも、この男なら、そうか、と頷いて、そのまま隣を歩き始めてしまいそうな気さえした。
「……ありがと。でも、今すぐどこかへ行かなきゃいけないわけじゃないの。だから、行き先が決まったら相談してもいい?」
「勿論。それでいいよ」
「じゃあ、それまでは一緒に行こう。わたしも道を探したり、使えそうなものを見つけたりできるし!」
和憲は少し考えるように黙った。アリナはその横顔を窺いながら、話を先へ進めた。
「それで、お家はどっち?」
「……どっちだろうな」
独り言のように答え、和憲は交差点まで歩いた。右を見て、左を見て、最後に正面へ視線を戻す。どの道にも見覚えはなく、並んだビルの向こうに何があるのかも分からなかった。
「そもそも、ここが何処なんだ?」
アリナは隣へ追いつきかけた足を止めた。
和憲は変わらない調子で続けた。
「……そこから?」
「皆目見当もつかないって、ヤツだな」
「今、すごく自然に出発しようとしてなかった!?」
和憲の顔を覗き込み、アリナは通りと彼とを交互に見た。
「帰る方向が分かって歩いてるんだと思ったよ!」
「いや、家からあの施設へ連れてこられたから。自分で来たわけじゃないし、運ばれた時は目隠しされてたし、どこにあるのかも知らなかったんだよ」
その言葉に、アリナの表情が少しだけ静まった。
和憲にとって、この街は自分で選んで訪れた場所ではない。目を覚ました施設から逃れ、ようやく立った外の世界だった。周囲の地理を知らないのも、実家への道が分からないのも、考えてみれば当然だった。
「……そっか。じゃあ、まず今いる場所を確かめないとね」
「それと、オレ、方向音痴なんだ」
「それと?」
「恥ずかしい話だけど……北も南も、西も東も分からん」
気遣いを含んでいたアリナの顔が、そこで再び止まった。
和憲は言い忘れていたことを思い出したような調子だった。アリナはその言葉を一つずつ確かめるように瞬きをし、やがて片手を持ち上げた。
「待って、恩人様。それ、全部だよ。方角、ひとつも残ってないよ!」
「そうなんだよな」
「そうなんだよな、じゃなくて!」
思わず声が弾んだ。現在地が分からないのは事情がある。しかし、居場所さえ分かれば解決する話でもないらしかった。
「じゃあ、地図を見つけたら読める?」
「見てるときは、何とな〜く分かった気になるんだけどな。少し歩くと分からなくなる」
「地図から目を離した途端に?」
「何回か曲がるとな」
「……ちなみに、さっきまでいた服屋さんは?」
アリナが尋ねると、和憲は背後へ顔を向けた。
店はまだ十分に見える距離にあった。入口の形も、窓の貼り紙も、ここから確かめられる。和憲が店を指さすと、アリナはひとまず安心したように頷いた。
「よかった。そこは大丈夫なんだね」
「まだ見えてるからな」
「見えなくなったら?」
「お手上げだな」
「もう、帰り道の難しさを少しずつ追加しないで!」
アリナは額へ手を当てた。
研究施設の場所を知らないこととは別に、和憲はもともと、かなりの方向音痴らしい。今の話では、地図で道順を確かめたところで、何度か曲がるうちに自分がどちらを向いているか分からなくなるのだろう。
そんな男が、現在地すら知らない街から実家へ帰ろうとしている。
目的地だけは決まった。しかし、出発点も道順も分からず、肝心の本人は、その状態で歩き出すことにほとんどためらいがない。
和憲は通りの右手へ目を向けた。看板の落ちた店舗の先で、道が緩く曲がっている。足先までそちらへ向きかけたのを見て、アリナは少し身を寄せた。
「ねえ、恩人様。そんな歩き方してたら、迷子になっちゃうよ?」
「迷ってても歩いてりゃ、そのうち着くだろ」
返事は、間を置かずに返ってきた。
アリナは目を丸くした。少し考えて出した結論ですらないらしい。和憲は道を見失うことも含めて、初めからそんなつもりで歩こうとしていたようだった。
「……迷ってるのに?」
「ああ」
「おうちと反対の方へ行ってても?」
「どっかで気づいたら、戻ればいいしな」
「気づかなかったら?」
和憲はわずかに首を傾け、通りの先を見た。
「……そのうち、見覚えのあるもんでも出てくるんじゃないか」




