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第15話 方向オンチと目的地 その2

 アリナは口元へ手を当てた。堪えようとした笑いが指の隙間から漏れ、やがて肩まで小さく揺れ始める。


「あははっ……もう、恩人様ってば!」


 和憲が不思議そうにこちらを向いたので、アリナは笑いを収めようと一度唇を結んだ。けれど、黄色いレンズの向こうに覗く、いたって真面目な目を見ると、また頬が緩んでしまう。


「わたしも結構、何とかなるって思う方だけど……恩人様は、わたし以上の楽天家だね!」

「そうか?」

「そうだよ! 迷子になるかもって聞いたら、迷子になっても大丈夫って返ってくるんだもん。そこまで考えてるとは思わなかった!」

「まあ、急ぐわけでもないしな」


 変わらない調子で言ってから、和憲はまた通りへ目を向けた。


「知らないところに出たら、ついでに観光でもしていきゃいいさ」

「……観光?」

「見たことないもんがあれば、見ていけばいいよ。せっかく外に出たんだしな」


 アリナは笑いの残った顔で彼を見て、それから改めて周囲へ目を向けた。


 割れた窓が並ぶ建物。歩道へ乗り上げたままの車。風が吹くたびに、どこかで外れかけた金具が軋んでいる。今、この通りに動く影は見えない。けれど、角を一つ曲がった先まで同じ静けさが続いているとは限らなかった。


 昨夜も、ゾンビたちは襲ってきた。生きた人間を見つければ群がり、手を伸ばし、噛みつこうとする。店へ入るにも、身体を休める場所を決めるにも、まず安全を確かめなければならない世界なのだ。

 その真ん中で、和憲は帰省と観光の話をしていた。


「……ねえ、恩人様」

「ん?」

「ゾンビ、いるんだよ?」

「いるな」

「いるな、じゃなくて。世界中、溢れかえってるんだよ? お散歩してたら、こんにちは、って出てくるかもしれないんだよ?」

「確かに、挨拶はしてくれんだろうけど……」

「そこを気にしてるんじゃないの!」


 思わず突っ込んでから、アリナは額へ手を当てた。和憲はふざけている様子もなく、何を聞かれたのか考えるようにこちらを見ている。


「そんな世界で、のんびり実家に帰って、途中で観光もしようって……本気で言ってるんだよね?」

「急いで歩いても、ゾンビはいなくならないしな」

「それは、そうだけど……」

「近くにいるなら気配を確かめて、通れそうな方へ行くさ。危なそうなとこへ、わざわざ入るつもりもないし」


 和憲は建物の間へ一度目を向けた。その短い沈黙の間にも、周囲の気配を確かめているらしかった。

 アリナがその横顔を眺めていると、彼は軽く肩をすくめ、何でもないことのように付け加えた。


「こんな世界なんだから、少しでも楽しいことは多い方がいいだろ?」


 アリナは目を瞬いた。

 気の利いた言葉を選んだ様子はなかった。励まそうとしてこちらを見たわけでもない。道端で小さな花を見つけたら眺める、景色のいいところへ出たら休む。それくらいの気軽さで、和憲は口にしていた。


「景色がよかったとか、変なもんがあったとか。何かを見てちょっとでも面白けりゃ、それでいい」


 アリナは窓の割れた建物から、その向こうの空へ目を移した。

 雲が、屋根の切れ目をゆっくりと流れていた。建物の足元では、舗装の裂け目から伸びた草が風に揺れている。目を凝らせば、危険を見つけるためだけではない眺め方も、この街には残っているのだろう。


 何より、つい先ほど、自分は埃っぽい服屋で着替えを楽しんでいた。鏡の前で裾を揺らし、和憲の感想を待っていたあの時間まで、世界がこんな有様だからと遠慮する必要はなかったはずだ。

 アリナの口元が、自然に緩んだ。


「……うん。それ、いいね!」


 顔を戻したときには、声にも明るさが戻っていた。


「わたし、賛成! 怖いことばっかり数えて歩くより、楽しかったことも増やしていきたいもんね」

「だろ?」

「じゃあ、景色のいい場所を見つけたら、ちゃんと休憩しよう。わたしが気になるところも、寄っていい?」

「いいよ。アリナさんの寄りたい場所も回って行こう。なんかワクワクしてきたな」


 和憲の言葉に、アリナは嬉しそうに頷き、少しだけ身を乗り出した。


「あと、楽しそうなものを見つけたら、わたしにも教えてね。恩人様だけ楽しんで、黙って通り過ぎちゃ駄目だよ?」

「勿論だよ」


 和憲はすぐに頷いた。


「アリナさんと一緒なら楽しさも二倍だし、そんな勿体ない事はしないって」


 その言葉が、あまりにも何気なく続いたので、アリナは用意していた返事を出し損ねた。

 少し開いた唇が、そのまま止まる。冗談で言ったのかと和憲の顔を確かめたが、彼はもう通りの先へ目を向けていた。こちらをからかって反応を待つ様子も、照れた言葉を取り繕う気配もない。


 一緒に見れば、二人で楽しめる。


 和憲にとっては、そのくらい当たり前の話だったのかもしれない。それでも、アリナには、自分が隣にいることを楽しみにしてくれた言葉として届いた。

 頬の内側が、じわりと温かくなる。


「……二倍、なんだ」

「一人で見て終わるより、話す相手がいた方が楽しいだろうしな」

「そ、そうだね。……うん」


 頷いてから、アリナは目を伏せた。笑えばいい。

『そうだよ、わたしと一緒なら退屈しないからね♪』、といつもの調子で返せばいいのに、今はその言葉を出す前に、口元が勝手に緩んでしまう。


 つい先ほどは、間接キスの一言で赤くなった和憲を面白がっていた。それなのに今は、自分の方が頬の熱を隠すため、意味もなくジャケットの袖口を整えていた。


「……アリナさん?」


 返事が途切れたのを気にしたのか、和憲がこちらを向いた。

 アリナは顔を上げ、少しだけ勢いよく笑った。


「な、なんでもない!……そうだよね。二人で見つけた方が、絶対楽しいもん!」


 声が弾みすぎた気がして、彼女は小さく息を整えた。それから、今度はちゃんと和憲の顔を見て続ける。


「じゃあ、わたしもいっぱい見つけるね。恩人様が見落としたものはわたしが教えるから、恩人様も、ちゃんとわたしに教えてね?二倍って言ったんだから、独り占めはなしだからね!」

「しないよ。速攻でアリナさんにも教えるさ」


 穏やかな返事に、アリナはようやく肩の力を抜いた。

 頬にはまだ熱が残っていたが、隠すために顔を背けるのも惜しかった。和憲の隣にいるこれからの自分を思い浮かべると、同じ景色を見て、言葉を交わす小さな場面が幾つも浮かんできた。

 監視のために同行を申し出たはずなのに、今は、その時間が少し待ち遠しかった。


「……楽しみにしてるね、恩人様」


 アリナがそう言うと、和憲は短く頷いた。


「うん。オレも」


 また何でもない調子で返されて、アリナはもう一度、袖口へ目を落とすことになった。

 想像する旅の中へ、見張りや物資探しとは別の予定が加わっていく。そんなふうに先のことを考えていると、目の前に伸びる道も、ほんの少し明るく見えた。


 ただし、その道が実家へ続いているかは、依然として分からない。

 頬の熱が落ち着くのを待ってから、アリナは通りの奥へ顔を向けた。


「でも、観光しながら帰るにしても、どのくらいかかるかなあ」

「時間もあるし、やることもないしな。十年かかってもいいくらいだよ」

 アリナは、頷きかけていた顎を止めた。

 風に押された紙片が二人の間を滑っていった。和憲はそれを目で追っていたが、アリナは彼の横顔を見つめたまま、しばらく動かなかった。


「……十年?」

「十年」

「恩人様、おうちに帰るんだよね? 十年かけて何かを成し遂げる旅じゃなくて?」

「帰って、だらだらしたいだけだな」

「だらだらするための道のりが長すぎない!?」


 思わず声が大きくなり、アリナは周囲を確かめてから、少し音量を落とした。和憲はその間も、特に気負うことなく立っている。


「十年かけたいわけじゃないぞ。かかっても構わんってだけで」

「うん、その違いは分かるよ。でも、普通はそこで十年って出てこないんだよ!」

「家に着くまでに、何かしなきゃならんわけでもないしな。途中でものんびりして行くつもりだし」

「……そっかあ。お家に帰るまでが、全部のんびりする時間なんだ」

「まあ、そんな感じだな。腹も減らないし、食い物が尽きる心配もなさそうだし」

「そこで安心しないで、道を調べようよ! 迷って十年と、寄り道して十年は全然違うからね?」

「それもそうか」


 和憲は素直に頷いた。


 アリナは腰へ手を当て、黄色いレンズの奥を覗いた。自分の賛成の仕方が少し早かったかもしれない。楽しいことを増やすのはいい。しかし、十年という時間まで気軽に受け入れるには、さすがに心の準備が足りなかった。

 つい先ほどまで頬にあった熱も、今はすっかり驚きに追いやられている。

 和憲はそんな彼女へ、気遣うように言った。


「さっきも言ったけど、ホントに無理してアリナさんが付き合うことないんだよ。オレは勝手にぶらぶら行くけど、自分の用事もあるだろうし」


 話が元へ戻り、アリナはすぐに顔を上げた。


「そこは大丈夫! わたしが一緒に行きたいの、恩人様」


 明るい声のまま、今度は一つずつ確かめるように続ける。


「最初から実家まで全部付き合うって決めなくてもいいじゃない。わたしに別の用事ができたら、そのときはちゃんと言う。それまでは一緒に行く。ね、これならどう?」


 和憲は少し考えていた。


 アリナは急かさず、その返事を待った。監視任務を明かすことはできない。しかし、一緒に歩くのが嫌なわけでも、彼を心配しているふりをしているわけでもなかった。


 帰りたいと思った場所へ、ちゃんと帰れるようにしてあげたい。


 あまりにも気楽な本人を見ていると、そんな気持ちまで自然に湧いてきた。少なくとも、見知らぬ道へ向かう丸い背中を見送って、それきりにしてしまう気にはなれなかった。


「道はわたしも調べるよ。まず今いる場所を確かめて、恩人様の実家がどこなのかも教えてもらって。観光するにしても、帰る方角くらいは分かってた方がいいでしょ?」

「そりゃ、めちゃくちゃ助かるけど……」

「でしょ? わたしは一緒に行きたい。恩人様は道を探す人が増える。ほら、ちょうどいい!」


 アリナが楽しげに言い切ると、和憲は頬を掻いた。しばらくして、ようやく小さく頷く。


「……アリナさんが、それでいいなら」

「うん。それがいい!」


 返事が出た途端、アリナの表情がぱっと明るくなった。


「じゃあ、しばらく頼むよ。アリナさんの用事ができたら、そっちを先にしよう」

「本当にいいの? 実家から遠ざかっちゃうかもよ?」

「構わんよ。オレの方は急いでないしな」

「ふふっ、それはもう、よーく分かりました」


 アリナは笑って頷いた。

 ひとまず同行は認めてもらえた。これで監視を続けられる。胸の内で安堵の息をつきながらも、彼女の口元には、任務の見通しが立ったことだけでは説明しきれない笑みが残っていた。

 そんな彼女へ、和憲は付け加えた。


「途中でアリナさんの行かなきゃならない場所とかあったら、遠慮なく言ってくれよ」

「うん!そのときは、ちゃんと相談するね」


 明るく返したところで、アリナの脳裏にふと、ある可能性が頭をよぎった。

万が一、この人と離れることになったら、どうなるのだろう、と。

 

 

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