第16話 方向オンチと目的地 その3
任務の途中で別行動を取ることはあり得る。物資を探すために違う店へ入ったり、何かの騒ぎで互いの姿を見失ったりするかもしれない。ほんの短い時間なら、あとから追いつけば済む。つい先ほどまでは、そう考えていた。
だが、この男は北も南も分からないと言った。
地図を見ても歩き出せば分からなくなり、迷っているのに、そのうち着くと考えている。知らない場所へ出れば観光していけばいいらしいし、実家へ帰るまで十年かかっても構わないという。
アリナは口元の笑みを残したまま、ゆっくりと和憲を見た。
本人は通りの向こうへ目を向け、風に揺れる看板を何となく眺めている。その横顔には、自分の行き先が他人にとってどれほど予測しづらいものなのか、考えたこともなさそうな気楽さがあった。
たとえば、次の角で落ち合うと約束したとする。
アリナがそこへ戻っても、和憲はいない。約束した角を取り違えたのか、少し先まで行ったのかと思って通りを探すが、姿は見つからない。実家のある方へ進んだはずだと追いかけようにも、当人がその方角を把握していないのだから、追跡の手掛かりにはならない。
その頃、和憲は別の通りへ出ているかもしれない。
見覚えのない建物を前にしても、慌てて引き返すとは限らない。道を確かめようとしてさらに曲がり、気づけば川沿いへ出て、せっかくだからと景色を眺めている可能性まである。
アリナが走り回っている間に、彼は川辺で休憩している。
川へ探しに行けば、今度は向こう岸に気になる建物を見つけて、橋を渡っている。
その橋から三本ほど道を曲がったところで、また、どっちだったかなと立ち止まる。そして、ひと休みしようと入った公園が、アリナのつい先ほど調べた場所だったりするのだ。
想像の中の和憲は、どこにいても同じ調子だった。探す側の苦労だけが、枝分かれする道に合わせて増えていく。
アリナは笑顔のまま、額へ手を当てた。
食料が必要になれば、いずれ店へ立ち寄る。疲れれば、休めそうな場所へ入る。普通なら行き先を絞る材料になるものも、飲まず食わずで動けるらしい和憲には、どこまで当てになるか分からない。
次の街にいるのか、その手前で昼寝でもしているのか、それともまるで違う方向へ歩いているのか。
実家の場所を正確に聞けたとしても、そこで待てばすぐに会えるわけではないのだ。
何しろ、十年かかってもいいらしい。
十年後にひょっこり現れて、結構遠かったな、とでも言われたら、いったいどこから話を始めればいいのだろう。
――これ、一度見失ったら、本当に見つからなくなるんじゃない?
頭の中で言葉にした途端、アリナは背筋を伸ばした。
監視対象を見失った理由を報告する自分の姿まで、余計にはっきり浮かんでしまった。
『実家へ向かったと思われます。ただし本人は方角が分からず、到着時期も未定です。途中で観光している可能性があります』
どう説明しても、こちらが真面目に任務をしていたのか疑われそうだった。しかも最後の一文だけ、妙に楽しそうなのが困る。
「……アリナさん?」
呼ばれて顔を上げると、和憲が不思議そうにこちらを見ていた。いつの間にか、ずいぶん真剣な顔で彼を見つめていたらしい。
アリナはぱっと笑みを戻し、人差し指を立てた。
「恩人様。わたし、すっごく大事なことに気づいちゃった!」
「大事なこと?」
「わたしたち、はぐれたら大変だね!」
「そりゃまあ、そうだな」
あっさり頷かれ、アリナは思わず笑った。こちらがようやく辿り着いた結論を、和憲は特に驚くこともなく受け入れている。
「だから、もし別々に動くときは、どこで待つかちゃんと決めようね。わたしが戻るまでは、そこで待ってて。何か気になるものが見えても、観光はあと!」
「分かった。待ってるよ」
「絶対だよ? ちょっとそこまで、も駄目だからね?」
念を押す声に笑いが混じった。和憲は真面目に頷き、その様子を見て、アリナもようやく肩の力を抜いた。
少なくとも、約束を面倒がって破る人には見えない。むしろ座って待っていていいと分かれば、素直に休んでいそうだった。別行動を取るなら、待つ場所まで一緒に確かめておけばいい。
アリナは鞄の紐を肩へ掛け直し、和憲の隣へ一歩寄った。
彼を見失えば、任務を続けられなくなる。それは困る。けれど、どこか知らない街で一人、薄緑色のフードを探して歩く自分を想像したとき、胸に残った心細さは、叱責や失敗への不安だけではなかった。
服を見せたら、また同じように「似合ってる」と言うのだろう。景色のいい場所を見つけても、大げさに感動することなく、隣でぼんやり眺めているのだろう。
そしてこちらが何か話しかければ、少し間を置いて、いつもの調子で返事をする。
そんな声が隣から聞こえなくなると思うと、これから先の道が、急に広く、寂しいものに感じられた。
楽しさも二倍だと、彼は言ってくれた。
その言葉を思い出すと、これから見つける景色を、一人で眺めて終わりにしたくはなかった。
「じゃあ、しばらくはわたしの隣を歩いてね、恩人様」
「そのつもりだよ」
何でもない返事だったが、アリナにはそれで十分だった。
「よし、約束!」
明るく告げてから、彼女は通りへ顔を向けた。隣にいることを確かめるように視線を戻し、和憲が歩き出すのに合わせて、自分も一歩を踏み出した。
数歩も行かないうちに、和憲が歩調を緩めた。
「そうだ。その前に、水だな」
和憲の視線が、アリナの鞄へ向いていた。
「水?」
「さっき、次を見つけときたいって言ってただろ。食い物は、まだあるのか?」
「少しはね。でも、そっちも補充できたら嬉しいかな」
「じゃあ、水と食い物がありそうなとこを先に回ろう。アリナさんが気になる場所も、途中であったら言ってくれよ」
すんなりと話が決まり、アリナは一瞬、返事を忘れた。
和憲はすでに、店の並ぶ通りを見ていた。実家への道を考えていたときより、視線の動きに迷いがない。何を探すかが決まったせいか、残っている看板を順番に確かめている。
「……観光は?」
「あとでいいよ。水が少ないのに、あちこち歩いてもしょうがないし」
「わたしのご飯を探すために、遠回りしても?」
「飯は大事だしな」
「先に休める場所を探したいって言っても?」
「休むのだって大事だろ?なにかあった時用に、薬があるところも探して行こう」
アリナは小さく息を漏らした。呆れたときとは違う、笑いになる手前の柔らかな息だった。
現在地が分からなくても、とりあえず歩き出そうとする。帰宅まで十年かかっても構わない。そんなふうに自分のことは大抵、大雑把な一言で済ませてしまうのに、彼女の水が少ないことは覚えていた。
同行が決まった途端、今日どこを歩くかを、彼女の食事や用事に合わせて考えている。
のんびりしているけれど、お人好しなのだ。
アリナは和憲の横顔を眺め、そっと肩の力を抜いた。
「恩人様って、自分の帰り道より、わたしのご飯の方が大事そうだね」
「家に着くのが遅れても、全然困らんけど、水や飯がなくて、アリナさんが困るのはオレも困る」
「……そういうところだよ」
「え?」
「ううん。ありがと、ってこと!」
明るく答えると、和憲は少し不思議そうにしながらも頷いた。
彼自身は、水も食べ物も欲しくないと言っていた。その言葉どおりなら、自分の分を探す必要もなく、先へ進むことだってできるはずだった。それなのに、彼女のために食料を探し、水の残りを気に掛けている。
アリナはそれを嬉しく思った。同時に、同行を求めた理由のすべてを話していないことが、胸の奥へ小さく引っかかった。
自分がそばにいる理由を、彼は疑っていないように見える。親切にされれば礼を言い、道を調べると言えば頼りにして、こちらの生活に必要なものまで気に掛けてくれる。
それなのに、自分はその信頼に関わることを隠している。笑みが薄れかけた口元で、アリナは一度だけ唇を軽く噛んだ。
和憲はそれに気づいた様子もなく、続けた。
「水は重いし、見つかったらオレが持つよ。歩いてて腹減ったり、喉渇いたりしたら言ってくれ。オレに合わせなくていいから」
「わたし、そんなにか弱くないよ?」
「そうだろうけど、一緒に歩くんだから、無理されてもな。しんどいなら、言ってくれた方がいい」
アリナはすぐには返事をしなかった。
口元から笑みが消え、目をすっと細める。店の看板へ目を向けていた和憲が、その視線に気づいて顔を戻した。
アリナは目を細めたまま、じっと彼を見上げた。和憲は戸惑ったように瞬きをし、遠慮がちに口を開いた。
「……ど、どうした?」
「恩人様には言われたくありません!」
アリナはつんと顎を上げた。けれど、少し尖った唇と、わずかに膨らんだ頬のせいで、澄ました態度にはなりきれていない。
和憲は困惑したまま彼女を見た。
「……オレ?」
「そう、恩人様。自分の身体のことはどうなっても、大丈夫、便利になった、で済ませちゃうくせに!」
「いや、でも、実際に――」
「便利かどうかの話じゃありません!」
ぴしりと言い切り、アリナは人差し指を立てた。
「わたしが無理しない代わりに、恩人様も無理しないこと。何か変だと思ったら、まあいいか、で終わらせないこと。さっき約束したばっかりだからね?」
和憲は口を閉じ、少し考えてから頷いた。
「……分かった」
「それならよし♪」
アリナの目元がようやく和らいだ。さっきまでのジト目が嘘のように笑みへ変わり、彼女は和憲の腕を軽くつついた。
「恩人様がわたしを心配してくれるなら、わたしも恩人様を心配するんだから。お互いさまにしようね」
「ああ」
「荷物も全部持とうとしないこと。わたしだって、ちゃんと持てるんだから」
「そこは、分ければいいか」
「そうそう。二人いるんだから!」
言いながら、アリナは鞄の紐を肩へ収め直した。
してもらうばかりにならず、自分にもできることを探せばいい。水を分けて持ち、食べられるものを確かめ、彼が見失ってしまう方角を調べる。任務を隠している後ろめたさが消えるわけではなかったが、今ここで向けられた親切には、自分の意志で応えたかった。
通りの先を見渡すと、少し広い道へ続く角に案内板らしいものが見えた。その手前には、食料品を扱っていたと思われる店の看板も残っている。
「ひとまず、こっちに行こう。街の名前が分かるものを探して、それから地図。あのお店も見てみたいな」
「よしきた」
和憲は迷いなく、彼女の示した方へ身体を向けた。
「助かる。アリナさんがいてくれてよかった」
あっさり言われて、アリナは指さしたまま一瞬動きを止めた。
また、この人は。
先ほどの言葉を思い出して頬が緩みそうになり、彼女は一度唇を結んだ。それから、少し得意げに顎を上げる。
「そうだよ。感謝してね、恩人様。十年迷子になる前に、ちゃんと道を見つけてあげるから」
「それはありがたい」
アリナは笑顔で頷き、歩き出した。
ところが数歩進んだところで、和憲が横道へ顔を向け、そのまま足先までそちらへ向きかけた。アリナはすかさず、パーカーの裾を軽くつまむ。
「恩人様?」
和憲が振り向いた。
アリナは笑顔のまま、空いている手で、先ほど示した大通りの方をもう一度指さした。
「こっちだよ?」
「え、あっ……ごめん。向こうも行けるのかと思って」
「行けるかもしれないけど、今はこっち。道を確かめてからね」
裾を離し、彼の正面へ半歩回り込む。アリナは少しだけ顎を上げて人差し指を立てた。
「恩人様。勝手に角を曲がろうとしないこと!」
「気をつけます」
返事は驚くほど素直だった。
言い訳も、面倒くさそうな顔もない。和憲は向きかけていた足を戻し、大通りの方へきちんと身体を向け直した。
その従順さに、アリナはかえって笑いを堪えきれなくなった。
「ふふっ。よろしい! 気になるものがあったら、先にわたしへ言ってね。一緒に見に行けばいいんだから」
「面目ない。今後からはそうするよ」
「さっきの約束、もう忘れちゃったのかと思ったよ」
「いや、別行動するつもりはなかったんだけどな」
「恩人様のあとを追いかけてたら、二人揃って迷子になっちゃうかもしれないでしょ?」
「……それは、そうだな」
和憲は納得したように頷き、今度はアリナが歩き出すのを待った。
彼女はその様子を確かめてから隣へ並んだ。返事が素直な分、頼めば聞いてくれるのだろう。ただし、本人が無意識に曲がる分まで約束で防げるかは、まだ分からない。
次の角へ近づいたところで、アリナがちらりと顔を向けると、和憲もこちらを見た。
「……ここは、まっすぐでいいのか?」
「うん! その調子、恩人様!」
アリナは嬉しそうに頷き、二人で角を通り過ぎた。
足元のガラス片を避けるたびに歩幅が少しずれ、それでも数歩進むうちに、また二人の足音が揃う。店先に垂れた古い布が風に揺れ、埃の匂いに混じって、どこかの湿った土の匂いが流れてきた。
しばらく進むと、和憲がまた横を向いた。
アリナもすぐにその顔を見たが、今度は足の向きが変わることはなかった。
「アリナさん。あそこの看板、飲み物の絵じゃないか?」
指さされた方を見る。剥がれかけた看板の端に、確かに瓶を描いた絵が残っていた。
アリナは瞬きをしてから、笑みを広げた。
「あ、本当だ。じゃあ、先にそっちを見よう!」
「ああ」
和憲の返事は相変わらずのんびりしていた。
どこへ行くか分からないから目を離せない。そう思っていたばかりなのに、彼が目を向けた先には、ちゃんと自分のための用事があった。
店の前へ着くと、和憲が足を止め、周囲へ静かに目を向けた。気配を確かめている彼の隣で、アリナも入口と窓を見渡し、鞄を背中側へ回した。
割れたガラスの向こうには棚が並び、その奥は外の日差しが届かず、まだ暗かった。
「どう?」
「近くには、いなさそうだな」
「じゃあ、入口から順番に見ていこう。恩人様、足元気をつけてね」
「アリナさんもな」
和憲が扉の前の破片を靴先で静かに脇へ寄せた。その隣で、アリナは中へ差し込む細い光を頼りに、棚の下や物陰を確かめる。
店内へ一歩入り、窓際の棚へ向かおうとしたところで、ふと足を止めた。
「ねえ、恩人様」
「ん?」
「水とご飯が見つかったら、休憩する場所は、ちょっと景色のいいところにしようね」
「賛成。座れるとこもあるといいな」
「オシャレな椅子とかあったら嬉しいよね!」
アリナは笑って答えた。
まだ、ここがどこなのかも確かめていない。帰る家までの道のりも、これから出会うものも分からない。それでも、物資を探したあとの予定には、安全に身体を休めることのほかに、小さな楽しみが一つ加わっていた。
棚へ向かいながら、アリナはもう一度だけ入口を振り返った。
薄緑色のフードがこちらを向く。何かあったのかと尋ねるようなその視線に、彼女は小さく笑って首を振った。
楽しそうなものを見つけたら、また呼べばいい。
そう思いながら、アリナは明るい窓辺へ足を進めた。




