第17話 広がる噂 その1
窓際の棚に残っていた飲料水は、二人で持ち運べるほどの量だった。
アリナが容器の蓋や中身を確かめ、和憲が床へ転がっていた分を拾い集める。奥の棚からは缶詰も幾つか見つかり、空いた鞄へ詰め終える頃には、窓から差し込む光が床の上を少し移動していた。光の中を漂う埃は、誰にも気づかれず降り続ける細かな雪のように、二人の手元へゆっくりと落ちていた。
店を出る前に、和憲は水の入った鞄へ手を伸ばした。
「重い方、こっちで持つよ」
「じゃあ、お願いするね。わたしは食べ物と、すぐ飲む分」
「よし、じゃあこれとこれはそっち、あれはこっちだな」
アリナが荷物を移す間、和憲は鞄の口を広げて待っていた。早くしてほしいという顔も、自分でやった方が楽だという顔もしない。彼女が最後の容器を収めると、中でぶつからないよう布を挟み、それから肩へ掛けた。
店先へ出たアリナは、通りの向こうにある案内板を見直した。
建物の名前と、かすれた周辺図。その下には街の名を記した文字も辛うじて残っている。泥を拭い、剥がれかけた紙の端を押さえると、ようやく現在地を確かめることができた。
地図そのものは、少し先の店で見つかった。
和憲に実家のある場所を教えてもらい、現在地と照らし合わせる。紙の上では指一本で辿れる距離も、実際には幾つもの街や川、そして山を越えなければならない。二人はしばらく肩を寄せ、細かな文字と線を覗き込んでいた。
「……むちゃくちゃ、離れてるな」
「うん。でも、これで帰る方角は分かったよ」
「助かる。オレ一人じゃ、反対に行ってたかもしれん」
「かもしれない、で済むといいけどね」
アリナが笑うと、和憲も口元をわずかに緩めた。
その日は遠くまで進まず、見通しの利く建物の上階で休むことにした。
出入口と部屋の奥を確かめ、足元の破片を脇へ寄せる。窓からは低い屋根の向こうに川面が見え、日差しを受けた水が、ほどけた銀糸のように細かく光っていた。川沿いの木々には葉が残り、風が吹くたび、その緑が灰色の街並みの手前で揺れた。
和憲が部屋の隅から椅子を二つ運んでくると、アリナは窓と彼とを見比べ、嬉しそうに笑った。
「景色がよくて、座れる場所。両方あったね」
「なかなかいいとこだな。川も見えるし」
窓から少し離れた壁際に腰を落ち着け、アリナは缶詰を開けた。
和憲は隣で水の容器を並べながら、川の向こうへぼんやりと目を向けている。食べ物を勧めても、やはり欲しくはないという。それでも彼女が食事を終えるまで立ち上がることはなく、ときおり風に揺れる木や、遠くに見える橋のことを口にした。
食事を終えたあと、アリナは鞄の奥へ指を差し入れた。
布越しに触れた無線機の硬さが、穏やかな休憩の時間に、まだ果たしていない役目を思い出させる。
「恩人様。わたし、奥の部屋を少し見てくるね。ここで待ってて」
「探し物ならオレも一緒に言った方が」
「‘’女の子の用事‘’もあるから♪」
身体を浮かしかけた和憲をアリナがイタズラっぽい笑みで制した。和憲はピタリと動きを止めて、いそいそと姿勢を元に戻した。
「……気をつけてな。オレはここにいるから」
「何か気になるものが見えても?」
「座って待ってます」
和憲の妙に丁寧な返しにアリナは思わず笑った。
「うん♪それなら安心!」
隣室へ入っても、入口越しに和憲の姿は見えていた。
アリナは戸口から少し離れ、無線機の音量を絞った。短く呼びかけると、しばらくして雑音の向こうから、聞き慣れた女性の声が返ってきた。
『聞こえるで。何か変わったん?』
「身体の方は、今のところ大きな変化はないよ。左腕も戻ったまま。本人は、痛いところもないって」
『ほかには?』
「お腹も減らないし、喉も渇かないみたい。わたしが見てる間は、何も食べてないし、飲んでもいないの」
『本人が欲しがらんだけか、ほんまに要らん身体なんかは、まだ分からんな』
「そこは、もう少し様子を見るね」
アリナは戸口の向こうを確かめた。
和憲は椅子の背へ身体を預け、窓の外を眺めている。こちらを気にして立ち上がる様子も、勝手にどこかへ向かう気配もなかった。
「それと、これからの行き先が決まったよ」
『どこや?』
「恩人様の実家に行くんだよ♪」
『……実家?』
「田舎に帰って、のんびり暮らしたいんだって」
無線の向こうが、わずかに静かになった。
『それが、本人の目的なんやな?』
「そうみたい。都会は窮屈だし、帰ってだらだらしたいって言ってたよ」
『こないな世界でだらだら、ねえ……』
呆れたようでもあり、少し拍子抜けしたようでもある声だった。
アリナは笑いかけ、慌てて声を抑えた。
「ただ、ちょっと問題があって……」
『何や』
「恩人様、すっっっごく方向音痴なの」
『……どのくらいや?』
「北も南も、西も東も分からないって。地図は、見てるときだけ分かった気になるけど、何回か曲がると分からなくなるみたい」
『ほな、一人やったら帰れへんやろ』
「本人は、歩いてればそのうち着くと思ってるよ」
『何でやねん』
返事があまりに早く、アリナは無線機を口元から少し離した。漏れそうになった笑いを息と一緒に逃がし、もう一度耳へ寄せる。
「知らない場所に出たら、観光していけばいいんだって」
『帰る気あるんか、その人』
「帰る気はあるみたい。ただ、急いではないだけで」
『限度があるやろ』
「十年かかってもいいって言ってた」
『……十年?』
今度の沈黙は長かった。
小さな雑音に混じって、向こうで深く息を吐く音がした。
『実家へ帰る話やんな?』
「うん」
『何かを探して世界中回るとかやなくて?』
「帰って、だらだらするだけ」
『だらだらすんのに十年て……』
アリナはとうとう、口元へ手を当てた。
つい先ほど自分も同じように言葉を失ったことを思い出すと、どうしても笑いを堪えきれなかった。
『あんた、笑うてる場合ちゃうで。一度見失ったら、次にどこへ出るか分からんやないか』
「それは、わたしも気づいたよ。だから、別々に動くときは、決めた場所で待っててもらうことにしたの」
『ちゃんと待てるんか?』
「約束したもん、大丈夫だよ。いまだって、ちゃんとわたしを待っててくれてるし、座れるところがあれば嬉しいんだって」
また、向こうで息を吐く音がした。
『……椅子で解決するんやったら、用意したり』
アリナは肩を揺らしながら頷いた。
戸口の向こうでは、その椅子に座った和憲が、窓枠へ止まった小さな鳥を眺めていた。動かずに見ているところを確かめると、妙に可笑しく、同時に少し安心した。
『それで、同行することは本人も納得しとるんやな?』
「わたしが一緒に行きたいって話したら、いいよって言ってくれたよ」
『警戒されてへんのか』
「わたしの事、信じてくれてるから。道を調べるって言ったら、助かるって」
そこで少し声が柔らかくなったことに、アリナ自身も気づいた。
無線機を持ち直し、次の言葉を続ける。
「今日も、水と食べ物を先に探してくれたの。自分はいらないのに、わたしの分がないと困るからって」
『……そうか』
女性は、それについてすぐには何も付け加えなかった。
『ほな、引き続き様子を見て。身体に変化があったら、その都度知らせてな。無理に能力を使わせる必要はない』
「了解だよ」
『あんた自身も、無理はせんこと。相手が平気やからいうて、同じようには動かれへんからな』
「うん。分かってる」
『頼むで。道案内に気ぃ取られて、本来の仕事まで忘れんようにな』
「忘れないよ。……道案内も、結構大事なお仕事になりそうだけど」
『ほんまにな』
最後の声には、諦めに似た笑いが混じっていた。
通信を終え、無線機を鞄へしまう。
アリナは一度だけ息を整えてから、元の部屋へ戻った。
和憲が顔を上げる。その傍らには、彼女が使っていた椅子がそのまま残されていた。
「何かあったか?」
「ううん。使えそうなものは、あんまりなかった」
「そうか。さっき、名前は分からんけど、綺麗な鳥が来てたぞ」
「えっ、どこ?」
「あそこら辺。もう飛んでっちゃったけど」
示された窓枠には、小さな羽毛が一つ引っかかっていた。
アリナは近づいてそれを眺め、少し残念そうに唇を尖らせる。
「ええ、残念。見たかった〜……」
「また見かけたらアリナさんに教えるよ」
「うん!今度は一緒に見れたらいいね♪」
和憲は穏やかに頷き、川の向こうへ目を戻した。
その隣へ腰を下ろすと、椅子の脚が小さく鳴った。
方向音痴も、帰宅の目的も、身体の様子も、伝えるべきことはひとまず報告した。それでも、鳥が来たと教えてくれる声や、彼女の椅子を隣へ残しておく仕草まで、無線の向こうへうまく伝えられた気はしなかった。
アリナは鞄から地図を取り出し、二人の間へ広げた。
「じゃあ、明日の道を見ておこう!十年かからないように」
「お願いします。オレもなんとか頑張って覚えるから」
「じゃあまずはここから♪アリナ先生が分かりやすく教えてあげる♡」
彼女が現在地を指さすと、和憲は身を寄せ、真面目な顔で紙を覗き込んだ。
窓から入り込んだ風が地図の端を持ち上げ、二人はほとんど同時に手を伸ばした。
実家へ帰ろうと決めてから、二人の旅には少しずつ決まった手順ができていった。
朝は地図を広げ、その日に進めそうな道を確かめる。和憲が周囲の気配を探り、アリナが通りの様子や建物の出入口を見る。どちらかが危ういと感じた場所は避け、暗くなる前には雨風を凌げる場所を探した。
和憲自身は相変わらず、空腹も渇きも訴えなかった。
だからといって、昼も夜も構わず歩き続けることはない。アリナが食事をするときには一緒に腰を下ろし、水を飲むために足を止めれば、何も言わずに隣で待った。
彼女の傷めた足に痛みが戻る日は、予定より早く休むこともあった。
歩幅が小さくなっているのに気づくと、和憲は急かさず、近くの建物へ目を向けた。
「あそこ、座れそうだな」
「……まだ歩けるよ?」
「オレも少し座りたいし。……どうかな?」
そう言われれば、アリナも頷きやすかった。
腰を下ろして靴を緩める間、和憲は外を見ていた。痛むのかと何度も尋ねることはなかったが、再び立ち上がるときには必ずこちらを待ってくれる。
その気遣いは、強く手を引くのではなく、足元へそっと踏み台を置いてくれるようだった。頼るかどうかを急かされないからこそ、アリナも少しずつ、無理を隠さずに話せるようになっていった。
物資を探す時間も、毎日の道順へ自然に組み込まれた。
食料品店の看板が残っていれば、まず中の様子を確かめる。地図に大きな店の印があれば、そこまでの距離と、手持ちの食料や水を照らし合わせてから向かった。
看板があるからといって、欲しいものが残っているとは限らない。棚の隅まで持ち去られた店もあれば、湿気と腐敗臭が籠もり、入口で足を止めざるを得ない場所もあった。
「……ここは難しそうだね」
「そうだな。次、探そうか」
危険を押してまで居残ることはなかった。
ただ、使えそうなものがあるなら、和憲は少し手間のかかる場所にも目を向けた。
ある小さな店では、横倒しになった陳列棚の下から缶詰が見つかった。
和憲が棚の端を持ち上げ、アリナが隙間へ手を伸ばす。錆びた金属が軋むたびに彼女が顔を上げたが、和憲は落ち着いた声で応じた。
「大丈夫。ゆっくり取ってくれ」
「ありがと。……これと、奥にもう一つ」
引き出した缶を窓明かりにかざし、膨らみや傷みを確かめる。一つは使えなかったが、残りは持っていけそうだった。
「もう大丈夫だよ。手は抜いたから」
「じゃあ、下ろすよ」
棚を下ろすと、床に積もっていた埃がふわりと舞った。
二人とも顔を背け、ほとんど同時に咳をする。アリナは目元を拭いながら笑い、拾い出した缶を見せた。
「助かったよ、恩人様。わたしだけじゃ、ここまで動かせなかった」
「残っててよかったな」
和憲はラベルの絵柄を覗き込み、それが魚だと分かると彼女へ目を戻した。
「それ、嫌いじゃないか?」
「これ?大丈夫!好きだよ、美味しいもん♪」
「ならよかった」
数が揃えばいいというだけではないらしい。
アリナは缶を鞄へ入れながら、その短い返事を思い返していた。食べられるものを見つけるだけでも大変なのに、彼は、口にする自分がそれを好きかどうかまで気にしていた。
水がまとまって見つかったときには、和憲が多めに持った。
最初に決めたように、アリナはすぐ飲む分と、そのほかの荷物を受け持つ。彼女が重さを心配すると、和憲は鞄を軽く持ち上げてみせた。
「まだまだ元気だよ、あと数倍はいけそうだ」
「もう。恩人様ったら、またそんなコト言って。疲れたらちゃんと言ってね?」
「大丈夫、ちゃんと言うよ」
約束を確かめてから、二人はまた歩き出す。
道そのものも、地図のとおりとは限らなかった。
落ちた橋や塞がった幹線道路を避け、ときには群れを迂回するため、来た方角へ戻る。ようやく抜けた先が、少し前に通った交差点だったこともある。
紙の上では整然と繋がっていた道が、実際にはところどころで千切れている。その切れ端を一つずつ拾い、繋ぎ直していくような旅だった。
「……ここ、さっき来たよね」
「あの車、見覚えあるな。戻ってきたみたいだ」
「次は、一本手前で曲がってみようかな?今度こそ向こうへ抜けられると思う。そろそろ、この交差点からは卒業したいね!」
和憲は小さく笑い、広げられた地図へ顔を寄せた。
そんな道の途中で、二人はときおり、生きた人間に出会った。




