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第18話 広がる噂 その2

 最後のゾンビが地面へ崩れ落ちても、和憲はすぐには腕を戻さなかった。


 横転した車の向こうや、窓の抜けた建物の奥へ意識を向ける。隣では、アリナが銃を構えたまま、路地の入口へライトの光を走らせていた。

 日が落ちてから助けを呼ぶ声が聞こえ、休むつもりだった建物を出てきたのだった。


 低い唸り声が途絶えると、遠くで軋む看板の音まで耳に届いた。血の匂いを含んだ風が通りを抜け、足元の紙くずを死骸の間へ滑らせていく。


「……もう、大丈夫そう?」

「うん。近くにはいないな、気配も感じない」

「そっか。お疲れさま、恩人様」


 銃口が下がったのを見てから、和憲も左腕へ意識を戻した。

 硬質な刃の輪郭が崩れ、黒い組織が皮膚の下へ沈んでいく。赤い筋が残り火のように薄れ、毛の生えた太い腕が戻ると、彼は指を一度握り、開いた。


 アリナは、その手が動くところまで見届けた。

 指にも手首にも不自然な動きはない。本人も痛がってはいなかったので、そこでようやく視線を外した。


 少し離れた壁際には、助けられた生存者たちが身を寄せ合っていた。

 擦りむいた膝を押さえる者もいれば、曲がった鉄パイプを握ったまま立ち尽くす者もいる。アリナは銃を収め、そのうちの一人へ歩み寄った。


「立てる? 噛まれたりはしてない?」

「あ……はい。転んだだけで……」

「よかった。歩くときは、誰かに肩を貸してもらってね」


 負傷者の仲間が頷くのを見て、アリナは一歩下がった。

 彼らは近くの建物を寝床にしており、戻る場所も分かっていた。途中で群れに見つかり、あと少しのところで逃げ道を失ったのだという。


 話している間も、その視線は何度となく和憲へ向いた。

 つい先ほどまで刃だった腕は、もう普通の手にしか見えない。その手でパーカーの裾を引っ張っている男と、道路に折り重なった死者とを、どう結びつければいいのか分からないようだった。


「あ、あの――」


 一人がようやく声を出したとき、和憲は通りの先へ顔を向けた。

「アリナさん、こっちの道は大丈夫そうだ」

「うん!今行くね」


 和憲はそれで用が済んだように歩き始めた。

 アリナも生存者たちへ軽く手を振り、そのあとを追う。


「向こうの路地には入らない方がいいよ。来る途中、奥で何体か見かけたから」

「待ってください、まだ、お礼を――」


 呼び止める声に、和憲が振り返った。


「無事ならそれでいいよ。気をつけてな」


 それだけ告げて、再び前を向く。

 背丈は低く、体躯は横に厚い。それでも、名乗りもせず暗い道へ向かう後ろ姿には、気軽に追いすがれない雰囲気があった。

 隣の少女が慣れた様子で歩き出したことも、引き留める機会を失わせていた。

 少なくとも、最初の数歩まではそうだった。

 浮き上がった縁石へ、靴の爪先が引っかかった。

 和憲の上体が前へ傾き、踏み直した足まで小石に滑る。アリナが腕を伸ばすより先に、両手と膝が地面についた。


「うへっ……!?」

「恩人様!?」


 アリナは駆け寄り、その脇へしゃがんだ。


「大丈夫?どこ打ったの?」

「いてて、膝と手をやっちゃたな」

「両方ついたもんね……。ちょっと見せて?」


 和憲は掌を返した。

 砂はついていたが、目立つ傷はない。膝を曲げ伸ばししてから立ち上がると、アリナもつられて腰を上げた。

 生存者たちは、誰も動けずにいた。

 別のゾンビに襲われたのかと周囲を見回した者もいたが、通りを動いているのは風に押される紙くずくらいだった。


「……大丈夫、ですか?」


 恐る恐る尋ねられ、和憲はパンツの膝を叩いた。


「驚かせて悪かったな。足が上がってなかったみたいだ」

「疲れてるんじゃない? 少し休む?」

「ありがとう。でも、こいつに気づかなかっただけだと思う」


 自分を転ばせた縁石を見下ろし、わずかに眉を寄せる。


「……そんなとこにいたのか」

「ずっといたと思うよ、恩人様」


 アリナはライトを足元へ向け直した。

 ゾンビの位置は壁越しに分かるのに、目の前の石には躓く。その力を当てにしてはいけない場面を、彼女も少しずつ覚え始めていた。


「今度は、わたしが先に歩こうか?」

「大丈夫だよ。足元、よく見るようにするから」


 和憲はフードを被り直し、歩き出した。

 今度は注意深く下を見て、割れた舗装と散らばったガラスを避けながら、崩れた店舗の脇へ進んでいく。

 その頭上には、片方の支えが外れた金属製の看板が、斜めに垂れ下がっていた。


「恩人様、上――」


 アリナの声が終わるより先に、鈍い音が響いた。


「……ぃで!」


 和憲が頭へ手を当てる。

 看板は軋みながら揺れ、残った金具が壁を引っ掻いた。

 アリナは伸ばしかけた手を、そのまま自分の額へ持っていった。


「……次は、間に合うと思ったんだけど」

「下見て、上見て……忙しいな、歩くの」

「戦ってるとき以外も、もうちょっと周りを見てほしいなあ……」

「すまん。気をつけるよ」


 壁際で、誰かが小さく吹き出した。

 すぐに口を押さえたものの、隣の男まで肩を揺らしている。張り詰めていた恐怖に一か所穴が空き、そこから堪えていた息が笑いになって漏れ出したようだった。


「す、すみません。命を助けてもらったのに……」

「いや。オレも見てる方なら笑うと思う」


 和憲は気を悪くした様子もなく答えた。

 アリナもため息をついたが、彼が手を離した頭に血の滲んだ様子がないことを確かめると、口元をわずかに緩めた。


「恩人様、サングラスは?」

「大丈夫。壊れてないしちゃんとかかってる」

「ならよかった。顔までぶつけなくて」


 和憲は黄色い丸レンズの位置を確かめ、今度は看板へ手を添えた。

 十分に屈んで下を通り、向こう側から板を押さえる。


「アリナさんも、気をつけてな」

「うん!恩人様のおかげですっごく、よく分かったよ!」


 彼女が抜けるまで待ってから手を離し、和憲は生存者たちにも看板を指し示した。


「ここ、結構痛いぞ」

「……あんたも、気をつけて」

「……そうする」


 素直に頷いて歩き出すと、アリナが今度こそ半歩前へ出た。

 ライトを路面へ向けながら、ときおり彼の頭上にも光を走らせる。


「次の角は右だよ、恩人様」

「分かった」

「そっちは左」

「……こっちか。教えてくれてありがとう」

「上下の次は、左右の確認だね」

「この歳にもなって、覚えることが多いな」

「歩き方をおさらいするチャンスだよ、恩人様♪」


 二人のどこか呑気な声が遠ざかり、やがて建物の陰へ消えた。

 残された者たちは、しばらくその方向を見ていた。

 鉄パイプを握っていた男がようやく腕を下ろし、別の一人が負傷した仲間へ肩を貸す。


「……何だったんだ、あの人」

「さあ。でも、連れがいてよかったな」

「本当にな……」


 人間離れした強さを思い返せば、今も背筋には冷たいものが走る。それなのに、無事に歩いて帰れるだろうかと心配までさせられた。


 名前も素性も分からない。

 ただ、男が前へ出て、少女が周囲の安全を確かめてくれたおかげで、自分たちはまだ息をしている。仲間へ手を貸すことも、こうして少し笑うこともできた。

 通りに重なる死骸を前にしても、その事実だけは疑いようがなかった。

     

 人を助けるつもりで、毎日の行き先を決めていたわけではない。

 和憲がゾンビの気配を拾い、先の道を確かめようと近づいたところで、助けを求める声が聞こえることがあった。物資を探しに入った建物の奥で、逃げ場を失った人間を見つけることもあった。


 そのたびに、二人の予定には新しい寄り道が加わった。

 崩れかけた廃ビルでは、母子が群れに追い詰められていた。

 非常階段へ続く扉は歪んで開かず、母親は幼い娘を抱いて壁際へ身を縮めている。迫る死者から少しでも遠ざけようと子供の頭を胸へ押しつけていたが、その背中には、もう退く余地がなかった。

 和憲が群れの背後へ入ると、アリナは通路の端から声を飛ばした。


「もう少しだけ、そこにいて! 前には出てこないでね!」


 異形の刃が伸び、迫る腕を断つ。

 死者の身体が壁際から引き離された隙に、アリナは母子へ近づき、床の破片を避けながら通路の外へ導いた。

 戦いが終わっても、母親の膝は震えていた。

 娘も泣き疲れた顔をアリナの肩へ押しつけ、簡単には離れようとしない。帰る場所を尋ねると、母親は近くのコミュニティの名を、何度も息を継ぎながら答えた。


 和憲は二人が落ち着くまで待ち、教えられた道の先を確かめてから歩き出した。

 アリナは娘を抱き、何度も振り返る母親へ、もう追ってきていないと繰り返し伝える。子供の小さな手は彼女の服を掴んだままで、指を緩めればまた恐ろしい場所へ引き戻されるとでも思っているようだった。

 途中で足を止めるたび、少し先にいた和憲も振り返り、急かさず待った。

 門へ着くと、男の説明は短かった。


「この人たち、帰ってきたぞ」


 見張りが顔を確かめ、内側へ声をかける。

 足りない事情はアリナが補い、母子が迎え入れられるのを、二人は門の外で見届けた。


「本当に、何とお礼を言えば……」

「帰れてよかったな」


 和憲が軽く手を上げて背を向けると、アリナも娘へ小さく手を振った。


「怖い思いしたもんね。ゆっくり休んで、忘れちゃおうね」


 門から離れたところで、和憲が彼女の腕へ目をやった。


「疲れなかったか?」

「ちょっとだけ。恩人様も、抱っこしてみればよかったのに」

「オレの方へ渡そうとしたら、泣きそうになってたろ」

「お話すれば、大丈夫だったと思うけどな」

「それまで泣かすのも可哀想だしなあ」


 和憲は母子を送り届けられたことで、もう満足しているようだった。

 アリナは少し笑い、子供の温もりが残る腕を伸ばした。

 別の日には、物資を運ぶ若者たちが道路で襲われていた。


 荷車を捨てれば、逃げられたかもしれない。

 だが、積まれた食料と医薬品は、コミュニティで待つ人々のためのものだった。若者たちは鉄パイプや鉈を握り、荷車を囲んで抵抗していた。

 一人が腕を掴まれかけたところへ、和憲が割って入った。


 アリナは転んだ若者を起こし、荷車を移す方向を示す。数人がかりで車輪を瓦礫から抜き、和憲が開けた道へ押し出していく。

 最後の一体が倒れる頃には、積荷も負傷者も、安全な場所へ移すことができていた。

 礼の言葉が重なり始めると、和憲は少し照れたように頬を掻き、アリナへ目を向けた。


「……そろそろ行こうか」

「うん♪それじゃあ……皆さんも、気をつけてね!」


 引き留める声へ手を振りながら、彼女は丸い背中を追いかけた。

 またあるときには、廃屋の奥で、熱を出して動けなくなった男を見つけた。


 アリナは本人から話を聞き、確認できる範囲の傷を調べた。噛まれた痕跡は見つからなかったが、それだけで何の病気か分かるわけでもない。

 戻る先はあるというので、仲間の居場所を尋ね、途切れ途切れに返ってくる言葉を待った。


 地図を確かめる間、和憲は水と缶詰を寝床の脇へ置いた。どちらも、旅の途中で二人が見つけたものだった。


「アリナさん、これ、置いていっても大丈夫かな?」

「良いよ!わたし達の分は、別にあるからね」


 彼女の返事を聞いてから、和憲は缶詰を男の手の届くところへ寄せた。


「……なんで、そこまで」


 掠れた問いに、少し考える。


「要るんだろ」


 それだけ答えた男の横で、アリナが水の蓋を緩めた。


「飲めそう? 無理せず、少しずつね」

 

 容器を受け取る手は震えていた。

 アリナが底へ手を添えると、男はようやくひと口だけ飲み、長く息を吐いた。


 しばらくして、外から男の名を呼ぶ声が聞こえた。

 仲間たちが彼を捜して、通りの建物を一軒ずつ確かめていたのだった。アリナが入口へ出て呼び返すと、足音が駆け寄ってきた。


 見慣れた顔が戸口に現れた途端、男の眉間に寄っていた皺が緩んだ。張り続けていた糸がようやくほどけたように、壁へ預けていた肩が落ちる。


 仲間が彼を支えて起こし、別の一人が水と缶詰を荷物へ収めた。

 何度も礼を言われたが、和憲は無理に歩かせないようにと短く返し、アリナも分かる範囲の状態を伝えた。


 支えられて進む男の背が小さくなり、角の向こうへ消えるまで見届けると、二人は再び道へ戻った。

 深く事情を聞き出すことも、名乗って恩を覚えさせることもしなかった。


 和憲は、通りかかったからだと話した。アリナも、そのたびに特別な決意を聞かされたわけではない。

 けれど、助けられた者には、それだけで済ませられなかった。


 水一本、缶詰一つにも価値がある。


 分け与えれば自分の取り分は減り、群れへ飛び込めば命を失うかもしれない。負傷者を送り届ければ、安全な場所へ戻る時間も遅れる。


 それを引き受けた二人は、報酬の話もしないまま去っていった。

 理由が分からないからこそ、人々はその出来事を誰かに話した。


 助かった安堵を分けるために。自分が見たものを、もう一度確かめるために。そして、次に同じ姿を見た者が、むやみに怯えたり、武器を向けたりしないように。


「腕が刃になる男がいる。ナイフを持ってるんじゃない。腕そのものが変わるんだ」


「噛まれても、その場で傷が塞がったってよ」


「薄緑のフードに、黄色い丸眼鏡の男だろ?」


「女の子と一緒に歩いてる。やけに明るくて、男のことを恩人様って呼ぶんだ」


 話は混ざり、誇張され、ときには別の出来事まで二人の仕業になった。

 それでも、繰り返し現れる特徴は残っていった。

 小柄で太った男。左腕の巨大な刃。傷が治る身体。

 そして、その傍らで周囲へ声をかける、長い髪の少女。

 中でも人々の関心を集めたのは、男の異様な強さだった。


 名前を知らない者同士が話を重ねるうち、二人の話はやがて、『フードの男』の噂として語られるようになった。

 ただし、目撃者が増えるにつれ、恐ろしい力とはあまり関係のない情報も付け加えられた。


 無精髭があり、口元の右上にホクロがある。

 腕は毛深く、歩いている途中によく躓く。

 連れの少女が道を教えており、左右を間違えても、本人は素直に礼を言う。

 話がそこまで進むと、聞いている者の顔には、大抵、別の種類の戸惑いが浮かんだ。


「ちょっと待った。さっきまで、ゾンビの群れを一人で斬った話だったよな?」

「そうだよ。他に何の話だって言うんだ」

「そいつが、帰り際に転んだのか?」

「そのあと、看板にも頭をぶつけた」

「……同じ人間の話をしてるんだよな?」


 語る側も、困ったように頷くしかなかった。  強さだけを話せば何かが足りず、見たとおりをすべて話せば、途端に信じてもらえなくなる。


 それでも、服装に関してだけは、目撃者たちの意見が妙によく揃った。


 刃の長さも、倒したゾンビの数も、聞く相手によって違っていたが、その感想だけは、どこへ運ばれてもほとんど形を変えなかった。

 噂の最後には、決まって、念を押すように一言が添えられた。


 『服装が致命的にダサい』、と。

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