第19話 広がる噂 その3
和憲自身が噂を耳にする機会は少なかったが、アリナは、人々の反応が変わり始めたことに気づいていた。
通りの向こうで話していた生存者が、こちらを見た途端に言葉を切る。仲間の袖を引き、薄緑色のフードから左腕へ視線を移したあと、顔を見合わせる。身を強張らせる者もいれば、ようやく息をつけたような顔をする者もいた。
その日も、道の反対側にいた数人が、二人の姿を見て囁き合っていた。
瓦礫を避けながら歩いていたアリナは、彼らの視線を辿り、隣の男へ顔を向けた。
「恩人様、知ってる人?」
「いや。見覚えないな」
「向こうは、知ってるみたいな顔してるけど」
「オレ、どっかで会ったかな……?昔から人の顔、覚えるの苦手なんだよな」
和憲は黄色いレンズ越しに彼らを見た。
目が合った生存者たちが慌てて会釈すると、彼も軽く頭を下げる。
それ以上確かめるつもりはないらしく、肩の鞄を持ち直した。
「ま、そもそもオレ、友達いないしな」
自嘲する笑いもなく、淡々とした声だった。
アリナは一瞬、彼の横顔を見つめた。それから半歩寄り、空いていた距離を詰める。
「わたしがいるよ! 恩人様!」
触れ合った腕に、和憲の歩調がわずかに乱れた。
アリナは彼の右腕へ両手を添え、肩を寄せたままフードの下を覗き込む。亜麻色の髪が袖に触れ、青い瞳が楽しげに細まった。
「こんなに近くにいるのに、見落としちゃ駄目でしょ?」
和憲は、思っていたより近くにある笑顔に瞬きをした。視線が彼女の目元と、自分の腕へ添えられた手の間を往復する。
「……アリナさん」
「はい!恩人様のお友達のアリナちゃんです♪」
言ってからアリナは首を傾げた。
「今、友達がいないって聞こえたんだけどなあ〜。悲しいなあ〜?」
「いや。そういうつもりじゃ……」
「じゃあ、ちゃんと数えてね。一人、ここにいます!」
和憲の口がわずかに開いた。
冗談めいた言い方だったが、彼女の眼差しに試すようなところはない。ただ、忘れていることを教えているだけだった。
「……そっか」
短く漏らしたあと、和憲は黙った。
一緒に道を選び、休む場所を探し、とりとめのない話をしながら歩いている。何か見つければ彼女へ声をかけ、休むときは二人分の場所を探す。水や食べ物を気にすることも、自分には必要のないはずのものを持ち運ぶことも、いつの間にか旅の一部になっていた。
隣にアリナがいることには慣れていた。
それでも、自分に友達がいるという考えだけは、今まで浮かばなかった。
ずっと空席だと思っていた場所に、彼女は当然のように座っていた。和憲は腕へ添えられた手を見て、それからアリナへ目を戻した。
「そうだな。アリナさんが、いてくれるんだよな」
普段よりわずかに柔らかい声だった。
アリナは笑みを深め、彼の腕を軽く抱き寄せる。
「そうだよ。数から外そうとしても、もう遅いんだから!」
「ごめんごめん。外さないよ」
「ほんとに?」
「外そうにも、こう捕まえられてちゃな」
困ったように笑いながら和憲が腕へ目を落とすと、アリナも自分の手を見た。それから悪びれずに笑い、指の力を緩める。
「じゃあ……覚えてもらえたところで、解放してあげる♪」
「ありがとう。……両方の意味で」
和憲は少し照れたように口元を緩めた。
アリナは手を離したものの、離れる前より近い位置に並んだ。
「だから、友達いないなんて、もう言わせないからね。わたしのこと、忘れちゃ駄目だよ?」
「忘れんよ。こんなに世話になってるんだから。いつもありがとな、アリナさん」
今度は彼女の顔を見て、素直に礼を言った。
アリナは一瞬言葉を失い、それから嬉しそうに笑う。
「どういたしまして!これからも、ちゃんと隣にいるからね♡」
並んで歩き始めると、触れ合っていた腕は離れた。それでも、そこにあった温かさは残っていた。和憲は緩んだ口元を、サングラスを直す手で何気なく隠した。
その日の休憩場所は、通りから少し奥へ入った建物の一室だった。
入口近くの窓は割れていたが、奥まで風は吹き込まず、床にも雨の跡は少ない。和憲が周囲を確かめ、アリナが出入口と隣室を調べたあと、二人は荷物を下ろした。
和憲が地図を広げ始めるのを見届け、アリナは鞄の奥の無線機を手に取った。 隣室へ移り、音量を絞る。短い呼びかけのあと、雑音に混じって女性の声が返ってきた。
『目立ってきたんやな』
人々の反応を伝えると、相手は少し間を置いて言った。
「うん。本人は、あんまり分かってないみたいだけどね」 『助けた相手ばっかりでもないんやろ?』
「そうだと思う。初めて会ったはずなのに、腕を見たり、フードを見たりする人がいるから」
『話が先に行っとるんやな』
「恩人様は、どこかで会ったかな、って考えてたよ」 『本人より噂の方が、道に迷わず進んどるわけや』
アリナは小さく笑った。 ただ、女性の声はすぐに調子を戻した。
『身体の方は?』
「左腕は、その都度ちゃんと戻ってる。今のところ、ほかの場所に変化はないよ」
『戻ったあと、動かしにくそうにしてたりは?』
「それもないみたい。指も普通に動くし、痛いとも言ってない」
『分かった。引き続き頼むで』
「うん。何かあったら、知らせるね」
通信を終えると、隣の部屋で地図を広げ直す音が聞こえた。
友達だと言ったことは、話さなかった。
あのやり取りを、身体の変化や人々の反応と同じように報告する気にはなれなかった。和憲が驚き、それから笑った顔は、まだ胸に温かく残っている。説明した途端、その温かさまで任務の成果として数えられてしまいそうだった。
自分を友達だと言ったのは、彼の警戒を解くためではない。 こちらを数に入れず、当然のように一人だと話す彼へ、ここにいると伝えたかった。ただ、それだけだった。
けれど、その気持ちが本物でも、隠していることは消えない。
アリナは無線機を見下ろした。
さっきまで和憲の腕へ添えていた手で、自分は彼の知らない相手へ、彼のことを伝えていた。
もし、任務のことを知られたら。
先ほどの笑顔を思い出すことさえ、怖くなった。
一緒に行きたいと言ったことも、友達だと名乗ったことも、そばで笑ったことも、すべて監視のためだったと思われるかもしれない。最初に理由を隠したのは自分だ。後から何を付け加えても、信じる義務を彼に負わせることはできない。
和憲が怒鳴る姿は想像できなかった。
責めるより先に黙り、いつもの声で「そうだったのか」と言いそうだった。
それから、‘’もう一緒に来なくていい‘’と告げられたら。
その場面だけは、妙にはっきり浮かんだ。
薄緑色のフードが道の先へ遠ざかっていく。声をかければ振り返ってくれるのに、隣へ戻る場所はもう空けてくれない。
嫌だ。
任務を続けられなくなるからでも、
報告に困るからでもない。
朝、目を覚ましたときに彼がいないことも、何かを見つけて振り返った先に、あの穏やかな顔がないことも、考えたくなかった。
さっき、友達がいると気づいたように笑ってくれたあの顔を、自分の嘘で曇らせたくなかった。
それなのに、何も言えない。
彼を大切に思うほど、隠していることが痛んだ。痛むほど、知られたあとに失うものがはっきりしていく。
アリナは息を吐き、無線機を鞄へ戻した。
布をかぶせ、留め具を閉じても、胸の内まで片づくわけではない。
それでも、友達だと口にした気持ちは、任務のための嘘にしたくなかった。
彼の腕だけでなく、痛がっていないか、疲れていないかを見ていたい。何かを頼まれれば応えたいし、彼が笑ったときには隣で一緒に笑っていたかった。
答えはすぐには出ない。
アリナは表情を整え、元の部屋へ戻った。
和憲は入口近くで地図を広げていた。
脇には水の容器が置かれており、彼女に気づくと、少しこちらへ寄せた。
「おかえり。水、ここにあるぞ」
「……うん。ただいま、恩人様。水、ありがとう」
何気ない言葉だった。
それでも、戻ってきていい場所がここにあると確かめられたようで、アリナはひと呼吸ぶんだけ目を伏せた。
和憲は地図の一点を指さした。
「アリナさん、これ、さっきの橋じゃないか」
「それは、もう一つ上流の橋だね。あと、地図の向きも反対だよ」
「わお、マジか」
笑いながら、アリナは紙の向きを直した。
和憲も口元を緩め、彼女が隣へ座れるように身をずらす。
空けられた場所へ腰を下ろすと、地図の端が膝元で鳴った。 アリナは現在地を示しながら、紙を押さえる彼の左手にも目をやった。
黒い組織も赤い筋も現れていない。その指が動き、風に持ち上がりかけた地図を押さえ直す。
人々が振り返るときに見ているものと、自分の隣にいる男の間には、隔たりがあるのかもしれない。
噂の中では、死者の群れを斬り伏せる得体の知れない存在だ。 けれど、ここにいるのは、川の向きに首を傾げ、彼女のために水を置き、座る場所を空けてくれる人だった。
「明日は、この道を通ってみようよ。途中にお店もあるみたい!」
「分かった。明日もよろしく頼むよ」
「任せて!大切な友達の帰り道だもん、ちゃんと案内してあげる♪」
和憲は素直に頷いた。
「それは心強いな」
その声を聞きながら、アリナは次の曲がり角へ指を進めた。 明日も隣にいるつもりで話せることが嬉しかった。その小さな痛みを抱えたまま、彼女は地図の上の道を一つずつ確かめていった。
「あの人たちが来てくれなかったら、この子は死んでた」
あるコミュニティでは、母親が眠る娘の髪を撫でながら話していた。
薄い毛布の下で、小さな胸が規則正しく上下している。 母親は何度もそこへ目を落とし、寝息を確かめた。
「男の人が前に出て、女の子がずっと声をかけてくれたの。門まで送ってくれて、それで、すぐ帰っちゃった」 「何も受け取らなかったのか」
「ええ。こちらがお礼を用意する間もなくて」
隣で聞いていた男性が、膝へ置いた手を重ねた。
「神様みたいなもんかね」
「神様……」
母親は少し考え、小さく笑った。
「それにしては帰る道を間違えて、女の子に呼び止められてたけど」
「それなら、案内役がいてくれてよかったな」
「……わたしもそう思うわ」
眠る娘の手が母親の指へ触れた。
握り返すと、小さな指が絡んでくる。その温かさを確かめ、母親は息を吐いた。
二人が何者であろうと、この手をもう一度握れたことは変わらなかった。
一方で、違う受け止め方をする者もいた。
「俺は信用しねえ」
別のコミュニティの見張り台では、鉈を手入れする男が低く言った。
「人を助けてるんだろ?」
「名前も素性も分からん。傷が塞がるって話だけで、安心できるか?」
「連れの女の子とは、普通に話してたっていうぞ」
「喋れるから大丈夫なら、略奪者の見張りなんか要らねえよ」
鉈を拭いていた手が止まり、二人の視線が柵の外の道で重なった。
「ゾンビを何十体も斬れる奴が、人間を襲い始めたらどうする。隣を歩いてる子だって、止められるとは限らねえだろ」
返事はなかった。
感謝と恐怖は、同じ目撃談から生まれた。
助けられた者には救いだった力も、顔を知らない者には脅威になる。誰かを守った刃が、こちらへ向かない保証までは、噂は運んでこなかった。
それでも、救いを求める声は増えていった。
フードの男に会えれば助かる。
やがて、それは幸運の話になり、願いが叶うらしいとまで言う者が現れた。
何を願い、どう叶ったのかと確かめても、返ってくるのは曖昧な又聞きばかりだった。けれど、明日の食事も眠る場所も約束されない人々には、正確さだけでは埋まらない隙間があった。
夜の暗さが変わらなくても、遠くに明かりがあると聞けば、そちらへ顔を向けられる。
姿を見たことのない男の話が、眠れない夜をやり過ごす小さな灯りになることもあった。
そうした話が遠くまで運ばれたのは、物資を求めて人々が行き来していたからでもあった。
生存者たちのコミュニティは、数人の集まりから百人を超えるものまで様々だった。
廃校や工場、住宅街の一角に人が集まり、使えるものを持ち寄って暮らしている。外から来た者を受け入れない場所も多かったが、門を閉ざしたまま、内側だけですべてを揃えるのは難しかった。
食料が残っていても薬がなく、工具があっても燃料が尽きる。不足を埋めるための物々交換は、やがて複数のコミュニティが日と場所を決めて集まる形へ変わっていった。
高速道路のサービスエリアや、大型商業施設の駐車場、物流センターの荷捌き場。
見通しが利き、危険が迫れば逃げられる場所が、交易地点として使われるようになった。
以前の賑わいが戻ったわけではない。
それでも、布の上へ品物が並び、数を確かめる声が交わされる間だけは、使われなくなった場所に人の営みが戻った。
和憲とアリナが初めてそうした場所を訪れたのは、とある場所で探索をしていた者に水を補充できる場所を尋ねたことがきっかけだった。
交換に使えるものがあれば取引に応じてもらえると聞き、アリナが地図へ印をつけた。
それからは、二人の探索にも、食べ物以外の品を確かめる時間が加わった。
「これ、水か何かと換えられそうかな?」
「うん。欲しい人はいると思うよ」
和憲が持ち上げていたのは、まだ使えそうな工具だった。アリナは握る部分と先端を確かめ、汚れを拭ってから頷いた。
「良かった、壊れてない。ちゃんと動くし、持っていこっか」
「食えないものも、飯の種になるんだな」
「そのまま齧っちゃ駄目だよ?」
「うーむ、さすがに歯が負けると思う」
「恩人様だと、ちょっとだけ心配になるから言ったの!」
アリナの冗談に和憲は笑い、工具を布で包んで鞄へ収めた。
以前なら通り過ぎていた工具や生活用品にも、立ち止まる理由ができた。
交換すればアリナの食べるものが手に入る。和憲には、それで十分だった。交易の場では、アリナが品物を並べ、和憲は少し後ろで荷物を持っていた。
使い道の分からない品が取引に加わると、彼は横から尋ねた。
「アリナさん、それは何に使うんだ?」
「靴の補修用だよ。恩人様の靴も、底が剥がれたら困るでしょ?」
「なるほど。そこまで考えてなかったな……」
「恩人様の傷は治っても、靴までは治らないからね」 「そっちも治ってくれれば便利なんだけどな」
「まずは、いま履いてるのを大事に使いましょう!」
「賛成。この靴、結構気に入ってるしな」
素直に頷いた和憲を、向かいの男が不思議そうに眺めていた。左腕とフードを見比べたあと、補修用品へ目を戻す。その顔には、尋ねたいことを飲み込んだ戸惑いが残っていた。
噂の男も買い物をする。
靴底が剥がれれば困り、連れに指摘されれば礼を言う。
当たり前のことなのに、本人を前にすると、それだけで話の種になるらしかった。
物資とともに、道の情報も持ち寄られた。
『北の国道には、百体近い群れがいる』
『東の川沿いの井戸は、まだ使えるぞ』
『旧病院はゾンビどもの巣窟になってる。絶対に近づくな』
アリナは話を聞くたび、地図へ印を加えた。
通れる橋、避けるべき道、水を得られる場所。話した者に、いつ見たのか、どちらから通ったのかを確かめ、余白へ書き込んでいく。
その印には、危険を見て戻ってきた誰かの時間が含まれていた。
人々の足取りを重ねて初めて、紙の上の道は、今の世界で通れる道になる。
そうしたやり取りの中に、いつしか二人自身の話も混ざり始めた。
「フードの男、西の住宅地で見たってよ」
「連れの子も一緒か?」
「ああ。地図を見ながら道を聞いてたらしい」
「行き先は?」
「男の方は、家に帰る途中だって言ってたそうだが……」
「家に?」
「そうだ。案外、素性は俺たちと大して変わらんのかもな」
その言葉だけを聞けば、ごく普通の旅人だった。
二人は一つのコミュニティに留まらず、同じ交易地点へ必ず戻るわけでもなかった。
それでも、物資や道の情報を介して、人々との接点は増えていった。自分たちの仲間を助けたらしいと聞き、向こうから声をかけてくる者もいた。
和憲は大抵、少し考えてから「ああ、あのときの」と頷いた。
思い出せないときにはアリナへ目を向け、彼女が場所や人数、何を運んでいたかを補う。
「ほら、荷車の車輪が挟まってた人たちだよ」
「……ああ。あの人たちか」
「顔より荷車の方が覚えやすい?」
「車輪を持ち上げたら、荷物がこっちへ転がってきたからな」
「あはっ♪恩人様ったら、そういうところは、よく覚えてるんだね」
アリナが笑うと、話しかけた男も肩の力を抜いた。
「おかげで、薬を持って帰れました。待ってた連中も助かりましたよ」
「そうか。それならよかった」
和憲は助けた相手が無事だと分かれば、穏やかに目元を緩めた。
その隣でアリナも笑い、受け取った物資を鞄へ収める。
旅の道筋は、相変わらず真っ直ぐではなかった。
それでも、歩いた先で交わす言葉は増え、二人を見送る人々の顔にも、恐れだけではない表情が残るようになっていた。




