第20話 広がる噂 その4
「おい! 東からも来るぞ!」
交易地点に響いた叫びに、人々が一斉に振り向いた。
西から近づいてくる群れを見つけ、荷をまとめ始めたところだった。
その反対側にも死者の姿が現れ、逃げる者と荷車を動かす者が通路でぶつかった。木箱が倒れ、荷を積んだ台車が横を向く。狭まった通路の奥では、負傷者を支える数人が取り残されていた。
それまで品物を見比べていた人々の顔から、血の気が引いていく。
倒れた箱から缶詰が転がり、誰かの靴へぶつかった。拾おうと屈む者の肩へ、逃げてきた別の人間が衝突する。焦りが次の焦りを呼び、通路にはほどけない結び目のような人だかりができかけていた。
「荷物は置いて! 人が通れるようにして!」
アリナは抱えていた荷を壁際へ下ろし、横倒しになった台車を指さした。
近くの男たちが動かす間に、和憲はすでに群れの側面へ向かっていた。
「恩人様、奥に三人いるよ!」
「見えた。アリナさん、そっちを頼む」
「分かった!」
左腕の輪郭が歪み、赤い筋の浮かぶ刃が伸びる。
最初の一体が倒れ、続く身体が横へ押し返された。黒い飛沫の向こうで、薄緑のフードが揺れた。
「……フードの男だ」
誰かが呟いたが、和憲は答えなかった。
刃を引き戻す間にも迫る手を右腕で払い、取り残された人々へ近づく死者を斬り伏せていく。
動きが美しいわけではない。
大きく振った刃に肩が引かれ、足元の箱を踏んで姿勢を崩しかける。それでも和憲は踏みとどまり、伸びてきた腕を押し返した。刃の届く場所へ死者を引きつけ、背後の人間へ手を伸ばさせないよう、何度も立つ位置を変えていた。
群れの注意が彼へ向いた隙に、アリナが木箱の角まで進んだ。
「こっち!立てる人は肩を貸して、今なら通れるよ!」
動ける者が負傷者を抱え直した。
その背後へ手を伸ばす一体を見つけると、アリナは銃を構え、射線から人が外れるのを待って一発だけ撃った。
銃声に怯えて足を止めかけた者へ、すぐに声をかける。
「大丈夫、進んで! そのまま真っ直ぐ!」
和憲が空けた道を、人々が抜けていく。
退避した者たちも体勢を立て直し、戦える者は鉄パイプや鉈を構えた。荷物を引きずっていた若者が手を離し、負傷者の腕を自分の肩へ回す。
最後の一人が通路を抜けたところで、アリナは振り返った。
「恩人様、全員出たよ!」
「分かった。アリナさんも、先に下がっててくれ」
和憲は足元へ伸びた腕を断ち、追いすがる数体を押し戻した。
逃げる人々との間へ立ったまま、少しずつ後退する。アリナも離れすぎない距離で下がり、曲がり角の先へ人が抜けたことを確かめた。
交易地点の脇には、隣接する倉庫の敷地へ抜ける門があった。
見張り役の男たちがその両側へ取りつき、最後に和憲が内側へ入ると、重い扉を引き寄せる。外側から死者の手が伸びたが、和憲がそれを払い、男たちが横木を掛けた。
何度も衝撃が響く。
その音を背に、人々は敷地の反対側にある出口へ向かって歩き始めた。
和憲とアリナも列の後ろにつき、追ってくる気配がないことを確かめながら距離を取った。
ようやく一息つける場所まで来たところで、和憲は刃を戻した。
「荷物、持ってきてるよ」
アリナが二つの鞄を示した。
逃げる直前、通路脇へ置いていたものを拾ってきたのだった。
「ありがとう。重かっただろ」
「少しね。じゃあ、これをお願い」
差し出された鞄を受け取ると、和憲は重さを確かめるように持ち直した。
「水は?」
「ちゃんと入ってる。食べ物も無事だよ」
「よかった。せっかく手に入ったんだしな」
「恩人様の靴を直す道具もね」
「そっちも持ってきてくれたのか。助かるよ」
アリナは笑い、集団が進む道とは別の路地を示した。
この先は、それぞれの戻る場所へ向かうことになる。彼らの寝床は反対側だった。
「こっちは通れそう?」
「今のところ、近くにはいないと思う」
「じゃあ、こっちから戻ろう」
二人が歩き始めると、背後から声が上がった。
「待ってくれ! せめて名前を――!」
呼びかけた男は、足元で蹲った仲間に気づき、駆け寄ろうとした足を止めた。
その身体を支えてから顔を上げたときには、二人はもう路地へ入りかけていた。
和憲が一度振り返り、軽く手を上げる。
アリナも同じように手を振り、それから彼の袖へそっと触れた。
「恩人様、そっちじゃないよ。次の角」
「ありゃ、そうだったか。ありがとうな」
「えへへ♪どういたしまして!」
その声を最後に、二人の姿は建物の向こうへ消えた。
次の交易日には、当然、その話が広まっていた。
「また助けてくれたってな」
「ああ。男が群れを引きつけて、連れの子が逃げる方へ誘導してくれた」
「二人で、交易地点を守ったわけか」
「逃がしてくれたんだ。荷物は随分置いてきたけどな」
話していた男は、失った品を思い出して顔をしかめた。
それでも、すぐ隣にいる仲間へ目を向けると、声の調子が少し和らいだ。
「……人は、連れて帰れたよ」
聞いていた者の一人が地図を広げ、目撃場所を指で辿った。
街道沿いにも、交易地点の近くにも、二人が現れた話がある。物資を運ぶ者が襲われ、そこへフードの男が来たという話も、一度や二度ではなかった。
「もしかして、交易路を守って回ってるんじゃないのか?」
何人かが顔を上げた。
「だから、一か所に留まらないのか?」
「女の子が道を調べて、男が危ない場所へ行く……そういうことかもしれん」
「どこのコミュニティのためってわけでもないんだな」
誰も本人たちに確かめてはいなかった。
それでも、目撃された場所を繋ぐと、その解釈には筋が通っているように思えた。
フードの男は、少女と二人で交易路を守っている。
そうして、また一つ新しい噂が生まれた。
実際には、二人が交易地点へ向かうのは、食料や水を手に入れ、通れる道を教えてもらうためだった。
物資を運ぶ者と同じ道を使えば、危険に出くわす場所も重なる。人の行き来がある道を選び、途中で和憲がゾンビの気配を拾えば、その先に誰かがいることもあった。
「……向こう、少し気になるな」
ある日の道端でも、和憲はそう言って足を止めた。
アリナは地図を畳み、彼が見ている建物の間へ目を向ける。
「何かいる?」
「ん。ゾンビが少し集まってる。人が追われてるのかもしれん」
「見に行こうか」
「いいかな。誰もいなけりゃ、戻ればいいし」
「うん。わたしも気になるから」
和憲は頷き、持っていた鞄を安全に置けそうな場所を探した。
また予定が変わる。
それでもアリナは、地図をしまう手を止めなかった。何もなければ戻ってくればいい。誰かが助けを必要としているなら、この男はきっと前へ出る。
そのとき、自分にもできることがある。
退く道を確かめ、人を呼び、足を止めた者へ声をかける。和憲の隣を歩くうちに、それは命じられた監視とは別の、彼女自身が選ぶ役目になっていた。
助けられた人々は出来事を語り、交易地点へ向かう者が、その話を物資と一緒に運んだ。
コミュニティから探索者へ、探索者から別の交易地点へ。道端で交わされた短い言葉が、次の焚き火のそばでは少し長い話になり、さらに遠くの誰かへ渡されていく。
そうして噂は、二人の歩く速さを追い越した。
まだ訪れたことのない土地でも、薄緑のフードを捜す者が現れた。
危険な道へ出る前に、長い髪の少女と歩く男を見なかったかと尋ねる者もいた。
会える保証はなく、探しに出れば自分が危険に晒される。
それでも、逃げ道を失ったときに、誰かが来てくれることもあると思える。そのわずかな可能性に、支えられる夜はあった。
当の本人は、そうした期待の大きさを知らないまま、今日も実家を目指していた。
「恩人様、そこ、段差あるよ!」
「大丈夫。見えてる」
「じゃあ、その先の看板もね」
「……それは見えなかった」
アリナは呆れた顔で笑い、和憲が屈んで通り抜けるのを待った。
頭を上げた拍子にずれたサングラスを彼が直し、肩に掛けた鞄を持ち直す。中では、彼女のために運んでいる水が小さく揺れた。
「日が暮れる前に、休むところを探そうか」
「うん。今日は、もう十分歩いたもんね」
「だな。健康的なのも程々にしないとな。足は大丈夫か?」
「平気だよ。恩人様は?」
「オレも大丈夫」
互いの顔を見てから、二人は道の先へ目を向けた。
西日が建物の壁を照らしていた。
割れた窓の縁が橙色に光り、道を横切る電線の影が、舗装の継ぎ目へ細く重なる。昼間は冷たく見えたコンクリートまで、今は薄い火を内側に宿したような色をしていた。
遠くで何かの金具が風に鳴ったが、近くを動くものはない。
アリナは鞄の紐を持ち直し、隣へ顔を向けた。
「今日は、見つけてくれた缶詰を開けようかな。食べるの楽しみにしてたんだ♪」
「アリナさん、あれ、好きだって言ってたもんな」
「覚えててくれたの?」
「まあな」
穏やかな返事に、アリナは頬を緩めた。
「じゃあ、食べたら感想を教えてあげるね」
「楽しみにしてる」
和憲は少しだけ笑い、今夜を過ごせそうな建物を探し始めた。
アリナもその隣で窓や出入口を見渡し、ときおり地図へ目を落とす。道の先に何があるかは、まだ分からない。それでも今日の荷物には水と食べ物があり、休む場所が見つかれば、二人で腰を下ろせる。
彼らが立ち去った場所には、生き残った人々がいた。
子供を抱き、寝息を確かめてからようやく目を閉じる母親がいた。
持ち帰れた食料を並べ、待っていた仲間へ一つずつ配る若者たちがいた。
熱の引いた身体を起こし、寝床の脇に残された水の容器を眺める男がいた。
夜の見張りの最中、命を救った男の転び方を思い出して、声を殺して笑う者もいた。その笑いを不思議がった仲間へ、また一つ、出来事が語られていく。
左腕が刃になったこと。
何も求めず去っていったこと。
少女に道を教えられながら、素直に頷いて歩いていたこと。
そうして語られるたび、『フードの男』の姿は、本人の知らないところで少しずつ大きくなっていった。
夕日を背にした影が、歩いている本人より遠くへ伸びていくように、その名も姿も、まだ彼の知らない街へ届き始めていた。
消えても誰も困らないとされた男を、今は、見知らぬ誰かが道の向こうに捜している。
その隣では、アリナが歩調を合わせていた。
休めそうな建物を見つけ、窓から見える奥の様子を確かめてから、彼女は和憲を振り返る。
「恩人様、こっちだよ」
「いま、行くよ」
和憲は顔を向け、いつもの穏やかな調子で答えた。
肩の鞄を持ち直し、彼女の待つ方へ歩いていく。
アリナはその姿を見届けてから入口を指さし、 足元に落ちた破片を教えた。和憲が慎重に跨ぐと、今度は頭上を確かめ、二人で小さく笑った。
長く伸びた二つの影が、同じ入口へ重なっていった。




