第21話 腹の音 その1
薄暗い避難所の片隅で、灯油ランプの炎が揺れていた。
煤のこびりついたガラスを通した橙色の光が、男たちの痩せた頬や、落ち窪んだ目元へ影を落としている。少し離れた場所では、毛布に包まった誰かが乾いた咳をしていた。壁際に並べられたペットボトルはほとんどが空で、水の残ったものも、持ち上げれば底が透けて見えるほどだった。
今夜の食事は、一人につきクラッカーが二枚と、缶詰の汁を薄めたスープが少し。
食べ終えても、腹の中が温まった気がするだけだった。男たちは容器の底に残る欠片まで掬い、何もなくなったあとも、しばらくそれを手放さずにいた。
「……おかしいだろ。普通に考えて」
向かい合って座る二人のうち、先に口を開いたのは年かさの男だった。五十に届くかどうかという年齢だったが、削げた頬と伸び放題の無精髭のせいで、実際よりも老けて見えた。
若い男が容器から顔を上げた。
「何がだ?」
「フードの男だよ」
その呼び名には、聞き覚えがあった。
薄緑色のフードを深く被り、襲われている人間の前に現れては、左腕を巨大な刃へ変えてゾンビを斬り伏せる。噛まれても死なず、傷は勝手に塞がり、助けた相手が礼に食べ物を差し出しても受け取らないという。
傍らには、長い髪の女がいる。
女の方は銃を持ち、逃げ遅れた者へ声をかけ、怪我人を支えることもあるらしかった。男を「恩人様」と呼ぶという話まで、ここには届いていた。
「何がおかしいんだ。腕のことか?」
「体型だよ」
年かさの男は、自分の腹へ目を落とした。
ベルトには新しい穴が二つ増えていたが、それでも緩い。以前は肉が邪魔で窮屈だったズボンが、今では腰骨に引っかかっているだけだった。
「見た奴がみんな言ってる。腹が出てて、腕にも肉があるってな。俺たちは毎日食い物を探して、それでも痩せてくのに、あいつは、その身体で歩き回ってる」
男はランプ越しに相手を見た。
「あいつだけ、なんで太ったままなんだ?」
若い男はすぐには答えなかった。
怪物じみた左腕や、死なないという噂にばかり気を取られていた。けれど、言われてみれば、どの目撃談でも男は丸々とした身体をしている。
自分の手首には、皮膚の下に骨の形が浮いていた。見ているうちに腹の奥が鳴り、若い男は苦々しく息を吐いた。
「傷が治るような身体なんだろ。それも同じようなもんじゃないのか」
「もっと簡単な話かもしれねえぞ」
「何が言いたい?」
「持ってるんじゃねえか?……食料を」
若い男の視線が上がった。
「……溜め込んでるってことか?」
「あの腕がありゃ、俺たちの入れねえ場所にも入れる。どこかに倉庫でも見つけて、そこへ戻って食ってるのかもしれねえ」
年かさの男は身を乗り出した。
「連れの女も、飢えてるようには見えなかったって話だ。男の方が荷物を持って、二人で店を回ってたらしい」
「でも、その女が交易で食い物を買ってたって聞いたぞ」
「足りねえものだけ買ってるんだろ。食料があるって、わざわざ言い触らす奴がいるかよ」
礼を断るのは十分に持っているから。買い足すのは、蓄えにないものを補うため。
どちらの話も、男の中では同じ結論へつながっていた。
若い男も、そこを問い直さなかった。頭にはすでに、箱に詰められた缶詰や、積み重ねられた米袋が浮かんでいる。
「……どれくらいあると思う?」
「分からん」
「もしかしたら、米とかも……」
「ああ、あるかもしれねえな」
白い米を茶碗によそったところまで想像して、若い男は唾を飲み込んだ。
「少しくらい、貰ってもいいよな」
年かさの男は返事をしなかった。
「人から貰わなくていいくらい持ってるなら、俺たちが少し持っていったって……」
「まだ、あると決まったわけじゃねえ」
そう窘めながらも、その目には同じ期待があった。
持ち主へ頼むより先に、どうすれば中を確かめられるか考えていることを、互いに口にはしなかった。
避難所の全員に食わせようという話ではない。
ただ、自分たちが食べたかった。
残りを数えずに口へ運び、まだ腹が減っているうちに食事を終えずに済む夜が、一度でいいから欲しかった。
数日後、二人は夜の廃市街を歩いていた。
月は厚い雲に覆われ、放置車両の列が道の先で黒い塊になっている。草が風に擦れるたび足を緩め、物陰を窺った。空腹のまま歩き続けた脚は重く、身を屈めるだけでも力が要った。
「本当に、あそこなのか?」
「確証はねえ。ただ、あの倉庫へ二人が出入りしてるのを見たって奴がいる」
「信用できるのかよ」
「だから、確証はねえって言ってるだろ」
若い男は口を閉じた。
その情報と引き換えに、年かさの男が残していた食料を一つ渡したことを知っていた。あれを食べていれば、と考えかけて打ち消す。
倉庫に何かあれば、取り戻せるはずだった。
やがて、古い物流倉庫が見えてきた。
壁の塗装は剥げ、会社名の看板は半分が地面へ落ちている。搬入口のシャッターは途中で歪み、人が屈めば潜れる程度の隙間が開いていた。
耳を澄ませても、聞こえるのは風だけだった。
年かさの男が先に潜り、若い男も続いた。
中には湿った埃と古い油の匂いが染みついていた。錆びた棚が幾列にも並び、足元には潰れた段ボールや破れた梱包材が散らばっている。
「探すぞ」
初めのうち、二人は音を立てないように動いた。
食品会社の名前が印刷された箱を見つけ、若い男は息を止めた。だが、中身は丸めた紙屑だけだった。隣の箱も空で、棚の下にあった缶は、蓋が半分ついたまま錆びていた。
奥の事務室には、人が使ったらしい跡があった。
長椅子の上だけ埃が払われ、机の端には畳んだ布が置かれている。床には新しい靴跡もあった。確かに、誰かが休んだ場所だった。
けれど、引き出しにも戸棚にも、食べ物はなかった。
「そっちはどうだ?」
「ダメだ。なんもねえ」
「奥の部屋は?」
「人がいた跡だけだ。荷物も見当たらない」
時間が経つにつれ、慎重さが失われていった。
邪魔な段ボールを放り、木箱をひっくり返し、棚板まで外した。年かさの男は壁際の荷物を退かし、その向こうに扉がないか探し始めた。
水の備蓄も、米袋も見つからなかった。
若い男は、とうとう床へ腰を落とした。手にしていた空き缶を置くと、薄い金属音が広い倉庫へ響く。
「……何もねえじゃねえか」
年かさの男は答えず、壁を叩いていた。
「おい、もういいだろ。全部見た」
「まだだ」
「……っても、あと、一体どこを探すんだ?」
「まだ見てねえところがある」
「だから、それがどこかを聞いてんだよ!」
拳が止まった。
どこなのか、本人にも分からなかった。それでも、ここでやめれば、食料を手放し、夜道を歩き、残っていた力まで使った結果が、空箱だけになってしまう。
「あるはずなんだよ……」
男は壁を見たまま呟いた。
「じゃなきゃ、おかしいだろ。あんな身体で、連れまでいて……何か、あるはずなんだ」
再び拳が壁へ当たった。
その音が奥へ響いたあと、搬入口で金属が軋んだ。
二人は同時に動きを止めた。
「……誰かいるね」
女の声だった。
若い男は反射的に懐中電灯を消した。年かさの男も光を床へ伏せたが、もう遅かった。別の明かりが棚を横切り、投げ出された木箱を照らしている。
「そこにいる人、動かないでね?ゆっくりでいいから手を見せて」
怒鳴ってはいなかった。けれど、聞き流せる響きでもなかった。
若い男が恐る恐る光を戻すと、薄緑色のフードが見えた。
背は高くない。肩にも腕にも厚みがあり、パーカーの前は腹の膨らみに押し出されている。フードの陰には黄色い丸レンズのサングラスがあり、その下から肉付きのいい頬が覗いていた。
噂のとおりの男だった。
少し後ろには、亜麻色の長い髪をした女がいた。片目を覆う前髪の脇で、青い瞳が二人を見ている。手には大ぶりの銃があった。
「武器は、その腰のものだけ?」
尋ねられた年かさの男は頷き、工具へ触れないよう両手を身体から離した。
和憲は二人を見てから、散らばった木箱や棚板へ目を移した。壁際の男の赤くなった拳にも、一瞬視線を留める。
「食い物を探してるのか」
返事はなかった。
若い男の視線が、和憲の肩にある鞄へ吸い寄せられた。アリナはその動きを見逃さなかったが、すぐに何かを言うことはしなかった。
ここは、数日前に見つけた仮の寝場所だった。
周辺の店を調べるために戻ってきてはいるものの、倉庫そのものは最初に隅々まで確かめている。今夜も食料と水を探して歩き、持ち帰れたのは乾電池と使えそうな布だけだった。
「ここにはないぞ。オレたちも探したけど、空だった」
「本当に?」
「残ってたら、こんな時間まで探し歩いてない」
「……あんたらの分は」
アリナが答えた。
「少しは持ってる。でも、鞄に入れて歩けるだけ。ここに蓄えてるものはないの」
「別の場所に隠してるんじゃないのか」
「隠してない。困った事に水も見つからなくてな。明日は別の通りへ行くつもりだった」
和憲が鞄を掛け直した。
年かさの男の視線が、肩から腕、腹へ落ちた。
確かに肉がついている。自分たちが日に日に失っているものが、この男には残っていた。
だから、あると思った。
「……嘘だろ」
壁に触れていた背中が、ずるずると沈んだ。若い男が声をかけても返事はなく、顔を覆った指の間から、詰まった息が漏れた。
「本当に、何もねえのかよ……」
肩が小刻みに動き始めた。
そのとき、若い男の腹が鳴った。
静かな倉庫では、誰にでも聞こえる音だった。腹へ手を当てたが、もう誤魔化す気にもなれなかった。
アリナは銃口を床へ下げた。二人の手元が見える位置は変えず、その顔を見つめる。
「……何日も、まともに食ってねえんだ」
年かさの男は、顔を覆ったまま続けた。
「腹が減って眠れねえし、寝たって食い物の夢ばっかり見る。夢の中じゃ、まだ店が開いてるんだよ。飯を頼んで、待ってる。やっと来たと思ったら目が覚めて……また、腹が減ってる」
和憲は何も言わなかった。
「少しくらい持っていっても困らねえほど、あると思ったんだ。……本当は、少しじゃねえ。腹いっぱい食えるくらい欲しかった」
「俺もだ」
若い男が乾いた唇を噛んだ。
「俺たちが必死に探してるのに、あんただけ太ったままで、食い物まで断ってるって聞いたら……持ってると思うだろ」
責めるような言い方だったが、怒りを押し出す力さえなかった。
和憲は自分の腹を見下ろした。
何も食べていないのに減らず、水を飲まなくても渇きを覚えない。自分では考えなくなっていた異常を、二人は食料の存在と結びつけていたらしかった。
「……そういうことか」
「じゃあ、何なんだよ。なんで、あんたは太ったままなんだ」
「減らないんだ。食わなくても」
「は?」
「腹も減らんし、喉も渇かん。何も口にしなくても、身体が変わらない」
二人の目が彼へ据えられた。
「何日くらい食ってないんだよ」
「さあ?少なくとも起きてからは何も食ってない」
アリナは静かに頷いた。
「何度か勧めたけど、本当に欲しくならないんだって。食べ物や水は、わたしのために探してくれてるの」
若い男は、鞄をもう一度見た。
自分には必要のない荷物を、この男が持っていた。
「いつから、そんな……」
「長いこと、寝ててな。目を覚まして気づいたときには、こうなってた」
年かさの男は、顔を上げたままでいた。
腕が刃になり、傷が勝手に塞がる男について、そこだけ普通の人間として考えていたのかもしれなかった。
疑いが薄れるにつれ、最後の期待まで失われていった。
床には、自分たちがひっくり返した空箱が散らばっている。どれだけ探し直しても、中身が現れることはない。
「なんだよ、それ……」
男は再び顔を覆った。
若い男は傍らへしゃがんだが、背中へ手を置くことしかできなかった。自分も同じものを期待してここまで来た。慰めに使える言葉などなかった。
和憲は鞄へ右手を添えた。
中に残っているのは、アリナがその日を凌ぐ為に取っておいた食料と、水だった。
自分が食べないからといって、余っているわけではない。
手を離しかけたところで、隣から声がした。
「恩人様、鞄を下ろしてもらっていい?」
和憲が顔を向けると、アリナは小さく頷いた。
「アリナさんの分だぞ」
「うん。分かってる」
銃を収め、彼女は鞄から包みを出した。
全部は出さず、クラッカーを二枚だけ布へ載せる。
「これ、二人で分けて。水も、少しならあるから」
若い男はすぐには手を伸ばさなかった。
「……いいのか」
「お腹いっぱいには、ならないけどね」
アリナは笑おうとしたが、うまくいかなかった。
何をしに来た二人なのかは分かっている。それでも、食事が運ばれてくる直前に目を覚ますという話が、耳から離れなかった。
年かさの男が手を下ろした。
布の上には、たった二枚しかない。箱に詰まった缶詰でも、湯気の立つ米でもなかった。
それでも、ひび割れた指が一枚へ伸びた。
「……荒らして、悪かったよ」
「いいさ。ただ、あとで通れるくらいには戻してくれると助かる」
和憲が横倒しの木箱を見た。
「暗いと引っかかるからな。よくコケるんだ、オレ」
和憲の隣でアリナが両腕を組みながら訳知り顔で、うんうんと何度も顔を上下させた。
年かさの男は頷いた。
若い男がクラッカーを口へ運ぶと、乾いた音がした。急いで飲み込みそうになりながら、少しでも長く味を残そうと顎を動かしている。
アリナは水を渡し、和憲の隣へ戻った。
「明日、もう一回探そうね」
「そうしよう。今日と違う方を見てみようか」
「うん、恩人様の意見に賛成です!」
返事をしながら、和憲は入口の向こうへ目を向けた。
少ししてから、男たちへ尋ねる。
「帰るところは遠いのか?」
若い男は口の中のものを飲み込み、避難所の方角を示した。途中で避けた道や、目印になる交差点の話を、途切れながら続けた。
和憲がアリナを見ると、彼女も何か思い当たったらしく顔を上げていた。
その前で、年かさの男が最後の欠片を口へ入れた。指についた粉を舐め、壁へ手をついて立ち上がる。
倒した木箱を起こそうとすると、和憲が反対側を持ち上げた。
アリナが床を照らす。
広い倉庫に、木箱を引きずる音と、誰かの腹が鳴る音が響いた。




