第22話 腹の音 その2
木箱を壁際へ寄せ終えると、年かさの男は、その縁へ手をついたまま息を整えた。
隣では若い男が棚板を戻そうとしていた。片側を溝へ差し込むと反対側が外れ、薄い金属音が響く。和憲が端を支えて角度を変えると、今度はうまく収まった。
「悪い」
「これで落ちてこないか?」
「大丈夫だ」
和憲が手を離すと、アリナが布を差し出した。
「恩人様、これ使って。手、汚れちゃったね」
「うへ。結構ついたな」
「そのまま顔を触ったら、ほっぺたまで灰色になっちゃうよ」
「今より顔色が悪いと思われそうだ。助かるよ」
彼女は微笑み、和憲が手を拭き終えるのを待った。返された布の汚れた面を内側へ折り、鞄へしまう。
若い男はその手元を見て、ためらいがちに口を開いた。
「食い物、減らしちまったな」
「分けるって決めたのは、わたしだよ」
「でも、明日の分だったんだろ」
「だから、補充はしないとね。明日になったら、またお腹は空くもん」
困らないほど持っているわけではない。それでも分けてくれたのだと、鞄の口を閉じる彼女の手を見ながら思った。
若い男の視線が和憲へ移る。
「……あんたの身体、どうなってんだろうな」
「さあなあ。どっかに“あの場所”の人間でもいれば何かしら分かるんだろうけど……」
若い男は口をつぐんだ。“あの場所”とは何なのだろう。
何処かで誰かに、身体に何かをされたということなのだろうか。
尋ねかけたところで、アリナの笑みが薄れた。
「……恩人様」
和憲はその顔を見て、声を和らげた。
「アリナさん、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。オレ、そこまで自分の身体の事に興味ないし」
「でも……」
アリナは問いを重ねなかった。
鞄を肩へ掛けた彼に手を伸ばし、ねじれた紐を直す。
若い男も、それ以上は聞かなかった。
和憲は鞄を背負い直し、出口へ目を向けた。
「避難所へ行く道って、昼間の店を通るんじゃなかったか」
「交差点の手前なら、同じ道だと思う。表から入れなかったお店だよね」
「裏なら入れるかもって話してたところ」
「勝手口だけでも確かめてみようか」
「疲れてないか? 休むつもりだっただろ」
アリナは彼の顔を見上げた。
「ありがとう。でも、遠回りしなければ大丈夫。入れなかったら、今日はそこで終わりにしよう?」
「OK。眠くなったら教えてくれよな」
「恩人様もね。二人で寝ぼけてたら、帰り道が分からなくなっちゃう」
「オレは起きてても怪しいな」
「ふふ。それなら、まだ眠れないね」
和憲は笑い、男たちへ顔を向けた。
「一緒に、その店を見てみるか?こっちも補充したいし、何か見つかれば運ぶ手が欲しい」
「俺たちも、連れてくのか」
「助け合いは大事だからな」
年かさの男は、すぐには答えられなかった。
盗もうとした相手に、食料探しまで手伝ってもらう。どんな顔でついていけばいいのか分からなかった。
動かない男を見て、和憲が尋ねる。
「少し休んでからにするか?」
「……いや。行く」
膝を伸ばすとふらつき、若い男の手へ肘を預けた。身体が落ち着いてから、食料を詰めるつもりで持ってきた袋を拾う。
和憲はその足元にも、泣いた顔にも触れなかった。二人がシャッターを潜り終えるまで、外で待っていた。
冷えた風が建物の間を抜け、錆びた看板を震わせていた。
アリナと若い男の懐中電灯を頼りに、四人はガラス片や崩れたコンクリートを避けて進んだ。
分かれ道へ来ると、和憲が足を緩める。
「こっちだったか」
「もう一つ先だよ。ここ、似た道が多いもんね」
「助かる。オレ一人だったら、絶対今ので曲がってたよ。確実、絶対、百パーセント間違いなし」
「じゃあ、一緒に来てよかった。わたしと一緒なら正解率は跳ね上がりだよ!」
アリナは嬉しそうに彼を見上げ、段差へ光を落とした。
「ここ、気をつけてね」
「アリナさんも」
和憲は段差を越えてから振り返り、彼女が隣へ戻るのを待った。
年かさの男は、親しみ深いやり取りを絶やさない二人の後ろ姿を見ながら空の袋を握り直した。
分けてもらった物で、腹の痛みはいくらか治まっていた。けれど、明日の食料はない。持ち帰れるものも、何一つ手に入っていなかった。
あの体つきなら、蓄えがあるはずだった。
自分たちが飢えている間も、どこかで腹を満たしているに違いない。そう思ったから倉庫を漁った。食料を見つければ、独り占めしていたことを責め、分けろと迫れると思っていた。
ところが、隠された食料などなかった。
自分で散らかした物を片づけ、疑った相手から食べ物を恵んでもらっただけだった。
助かったとは思う。
だが、腹を空かせて倉庫へ向かったときの期待は、一食では埋まらなかった。空の袋を見るたびに悔しさが戻り、泣いて頭を下げた自分まで思い出した。
男の目が、和憲の左腕へ落ちた。
半袖から覗く太い腕の先で、ごく普通の五本の指が揺れている。
あれが、ゾンビを切り倒す刃になるのだという。
食料がないなら、せめてそれくらいは見たかった。
何も得られないまま、惨めな思いだけ持ち帰りたくなかった。
「……なあ」
和憲が肩越しに振り返った。
「どうした?」
「噂になってる左腕の刃とやらを見せてくれないか?」
若い男が眉を寄せる。
「お前、まだそんなこと考えてたのか」
「少し見るだけだろ」
「食い物探しに付き合ってもらって、そのうえ見世物まで頼むのかよ」
年かさの男は唇を曲げた。
言われなくても、分かっていた。分かっているからこそ、責められると腹が立った。
「……悪かったよ」
謝っても、目は腕から離れなかった。
「そう言われても、見せびらかす為に出すもんでもなくてな」
和憲が答えた。
「腕の話は、本当なんだろ?腕全体が刃になるっていう……」
「まあ、そっちは本当だな」
「だったら、一度くらい。何か切れって言ってるわけじゃねえんだ」
「出すだけでも場所を取る。暗いところで、誰かに当てたら大変だろ」
「俺たちが離れりゃ済むだろ」
若い男が男の袖を引いた。
男はその手を外し、和憲を見た。
「……見たら気が済むんだよ。それだけでいいから」
和憲は左手を握り、開いた。
男は息を詰めた。指が変わるのかと思ったが、その手は何も起こさず下ろされた。
「必要がないなら、使わずに済ませたいんだよ」
「必要って、何があればいいんだ」
「ゾンビに襲われるとかだな。そんなことには、ならない方がいいだろ」
男は返事をしなかった。
噂で刃を見た者たちは、その前に襲われていた。分かってはいたが、今は出せるものを出してもらえない不満の方が強かった。
アリナが和憲の左肘へ、そっと触れた。
「恩人様、今夜はこの手のままで帰れたらいいね」
「荷物を持つくらいで済めば、ありがたいな」
「持ちきれないくらい見つかったら、わたしも手伝うよ」
「そのときは頼む。欲張って転んだら格好がつかんからな」
アリナが微笑む。
男は、その手が和憲の腕から離れるまで見ていた。自分が見たがっているものを、彼女は出さずにいてほしいと言う。それに和憲が頷くのも、面白くなかった。
「なら、ゾンビが出たときは見せてくれるんだな」
若い男が顔を向けた。
「おい。何の話を聞いてたんだ」
「そのときなら使うんだろ。だったら、見ててもいいじゃねえか」
「俺たちも襲われるかもしれねえんだぞ」
「この人が片づけるんだろ。噂じゃ、何匹もまとめて斬ったっていうじゃねえか」
男の声に熱がこもった。
和憲の顔ではなく、左手へ向かって話していた。
「こっちは離れてる。邪魔もしねえ。だから、そのときまで隠れろなんて言わないでくれよ。一度でいいんだ。俺にもちゃんと見せてくれ」
若い男が言葉を失った。
年かさの男も、自分が興奮した状態になっていることは自覚していた。それでも、ここで引けば何もかも諦めさせられるようで、口を閉じられなかった。
「食い物もなかったんだ。せめて――」
そこまで言って、ようやく止まった。
和憲からもらった食べ物は、まだ腹の中にある。
男は袋の口を握り潰した。
アリナが足を止め、振り返った。
「食料が見つからなかったことと、恩人様の腕は関係ないよ」
静かな声だった。
「自分の悔しさを紛らわせる為に、恩人様の腕を見たいからって、危ないことを待つような言い方はしないで」
「待ってるわけじゃねえよ。ただ、出てきたらって……」
「そのときは、逃げてって言ったら逃げて。隠れてって言ったら隠れてね。見ていていい場所を用意できるわけじゃないから」
年かさの男は目を伏せた。
和憲も口を開いた。
「オレも、必ず守りきれるとは言えんしな。頼むから、そこは聞いてくれ」
今度は年かさの男も言い返さなかった。
歩き始めると、アリナは和憲の隣へ戻った。
「恩人様も、危ないときはわたしを呼んでね。一人で頑張りすぎないで」
「ありがとう。アリナさんがいてくれると心強いよ」
和憲は彼女へ顔を向けた。
「でも、アリナさんも無理はしないでくれ」
「それじゃ、お互いにね」
「約束だな」
アリナの口元が、少しだけ和らいだ。
通りの片側に、小型トラックが放置されていた。
破れた幌が風に揺れ、周囲には瓶の欠片や金属片が散らばっている。若い男は道の中央寄りへ光を向けた。
年かさの男も、その後に続く。
もう腕のことは口にしなかった。それでも、和憲の左手が視界から外れると、無意識に目で追ってしまった。
普通の手のまま揺れているのを確かめるたび、握った袋が小さく鳴った。
靴先に弾かれた空き缶が、舗装の上を跳ねた。
トラックの下へ入り込むまで、乾いた音が夜の通りに響く。
若い男が振り返った。
「おい、気をつけろよ」
「見えなかったんだよ。お前がちゃんと照らさねえからだろ!」
「……照らしてただろ。アンタがずっと腕ばっか見てるからだ!」
「見てねえっての!」
「二人とも」
アリナが唇の前へ人差し指を立てた。
「声を落として。ここでは遠くまで聞こえるよ」
若い男が口を閉じた。
年かさの男は車体の下へ目をやった。足元を見ていなかったのは事実だったが、認める言葉は出てこなかった。
前方で、和憲が立ち止まっていた。
「恩人様?」
呼びかけに、彼は通りの先を見たまま鞄を肩から外した。
「アリナさん、これを頼めるか」
「任せて。……来るの?」
「向こうにいたのが、こっちへ動き出した」
男たちの顔が強張った。
放置車両の陰で、何かが擦れた。
続いて、低く湿った音が聞こえてくる。
「ぐぅ……ごろ、るる……」
年かさの男は、思わず腹へ手を当てた。
空腹を訴える腹の音に似ていた。だが、その響きは途切れず、奥で液体がかき回されるような音を伴っていた。
若い男が懐中電灯を持ち上げる。
車の陰から、巨大な腹がせり出した。
裂けた衣服の裾から灰色の肉が垂れ、腰を覆い隠している。一歩進むたびに遅れて揺れ、下腹が太腿へ擦れた。
胸や肩、太い腕には大小の瘤が密集していた。肉に埋もれた首の上に、不釣り合いに小さく見える頭が載っている。
頬に押し上げられた口が開いた。
「ぐ、ぅう……ごろろ……」
あの音が、喉から漏れた。
唾液が唇から糸を引いて落ちる。腹を揺らして近づく姿は、飢えたものがようやく食べ物を見つけたように見えた。
光が顔へ届いた。
落ち窪んだ眼窩の奥で、二つの赤い目がこちらを向く。
「……赤目」
年かさの男の声が、喉で潰れた。
アリナが二人の腕を押した。
「トラックの向こうへ。車体から顔を出さないで」
今度は、誰も言い返さなかった。
若い男に続き、年かさの男も荷台の陰へ入る。アリナは鞄を預けると、すぐに銃を抜いた。
和憲の左腕には、すでに変化が始まっていた。
掌を包むように黒い組織がせり上がり、指の形が失われていく。赤い筋が走り、肘から先の輪郭が巨大な刃へと伸びた。
あれほど見たかったものだった。
断られても食い下がり、危険になっても見せろと迫ったものが、今は目の前にあった。
けれど、男は途中で目を逸らした。
重い足音が近づき、車体の向こうに灰色の腹の端が見えた。
『この人がいるだろ』
自分で言った言葉を繰り返そうとして、別の考えが割り込んだ。
あの刃でも、止められなかったら。
男は預かった鞄を抱え込み、荷台の陰へ深く身を縮めた。
空の袋が足元へ落ちた。
拾うために手を伸ばすことも、もうできなかった。




