第23話 腹の音 その3
和憲は赤目を見て、それから自分の腹へちらりと目を落とした。
「……オレにそっくりだな」
「似てない!」
アリナの反論は早かった。銃口を赤目へ向けたまま、眉を寄せる。
「恩人様はもっとカッコいいもん!」
「ごめん、腹の話だったんだ」
「お腹だって違うよ」
「ありがとう。アリナさんにそこまで庇ってもらえると、腹も喜ぶと思う」
「ふふ、恩人様にも喜んでほしいんだけどな〜?」
アリナの言葉に和憲の口元が少し緩んだ。
「勿論、喜んでるよ。アリナさんにカッコいいなんて言われて嬉しくない男なんていないだろ」
「あはっ♪わたし、恩人様はホントにカッコいいと思ってるし、丸いお腹だって可愛くて好きだよ」
「……それは、腹に代わって礼を言うべきか。“ありがとう”ってどんな腹の音、鳴らせばいいんだ?」
アリナが笑いかけたところで、赤目の歩みが速くなった。
腹の下で脚が大きく開き、足裏が舗装を踏む音が続く。鈍重に見えた巨体が、数歩のうちに勢いを増した。
「足を止めるね!」
銃声が建物の壁へ跳ね返った。
弾丸は赤目の胸へ命中した。皮膚が深くくぼみ、その周りの肉が波打つ。けれど、上体が揺れただけで、足は止まらなかった。
続く一発が肩の瘤を潰した。
濁った液が飛び、腕が外側へ流れる。それもすぐに戻った。厚い肉に阻まれ、銃弾が深くまで届いていない。
アリナは照準を上げた。
額を狙った弾丸が、眉の上の膨らみへ食い込む。頭は仰け反ったが、赤い目はこちらを捉えたままだった。
「頭も……?」
「うへ。ずいぶん厚着してるらしいな」
「困ったね。脱いでくれそうにないよ」
「頼んでる暇もなさそうだ」
和憲はトラックから赤目の注意を引き離すように、シャッター側へ寄った。
赤い目がそちらを追い、太い腕が伸びる。
まだ届かない距離に見えた。
次の瞬間、巨体が踏み込んだ。腹が大きく揺れ、腕が和憲の肩へ迫る。
和憲は身を引きながら左腕を振った。
刃が前腕へ入り、黒い血が飛ぶ。だが、一振りで断ち切るには至らなかった。厚い肉の奥へ沈んだ刃を、相手の腕の重さが押し下げる。
足を踏み直し、刃を引き抜いた。
その勢いで半身になり、腹へ切っ先を向ける。反対側の腕が回ってくるより先に、黒い刃を突き込んだ。
深く入った。
腹が押し潰されるようにへこみ、刃の根元近くまでを包み込む。硬いものを貫いた感触はなかった。粘りのある組織が、刃の両側へまとわりついていた。
和憲はすぐに引き戻そうとした。
抜けなかった。
肉が刃に沿って伸び、引くほどに絡みつく。深い泥へ腕を差し込んだような抵抗が肩まで伝わり、力を込めても、赤目の身体がこちらへ傾くだけだった。
「恩人様、離れて!」
アリナが横へ走った。
和憲と射線が重ならない位置から、赤目の顔へ続けて撃つ。弾丸が頬を裂き、膨れた眉の上へ食い込んだが、巨体は頭を振っただけで止まらなかった。
和憲がもう一度肩を引いた瞬間、太い指が右肩へ食い込んだ。
パーカーが軋み、上体が傾く。足を置き直す間もなく身体を振り回され、腹から刃が抜けたのと、両足が地面を離れたのは、ほとんど同時だった。
背中が壁へ叩きつけられた。
「ごはっ――」
和憲の口から血が噴き出した。
胸の内側まで押し潰されたようだった。吸おうとした息は喉で途切れ、生温かいものが唇を越えて顎へ流れる。壁の表面が砕け、フードへ白い粉が降りかかった。
「恩人様っ!」
アリナの叫びが響いた。
和憲は壁へ手をつこうとしたが、その前に肩をつかむ力が強まった。赤目が彼を引き戻し、膨れた腹へ押しつける。
もう片方の腕が背中へ回り込んできたときには、刃を振る隙間がなかった。
巨体の両腕が、和憲を抱え込んだ。
胸へ押し当てられた腹が、身体の形に沿って広がっていく。柔らかい肉に沈み込むほど、身動きが取れなくなった。背中へ回された腕が締まり、胸と腹がさらに強く圧迫される。
和憲は右手を相手の胸へ突き、左肩を動かそうとした。
刃の先は赤目の脇腹の外へ出ている。けれど、上腕を押さえ込まれ、肘の位置を変えられない。切っ先を動かしても、側面を浅く削るだけだった。
胸郭が軋んだ。
吐いた息の分だけ、次に吸える空気が減っていく。右腕へ力を込めても、掌が厚い肉へ沈むばかりだった。
「……悪いけど」
和憲は顔を横へ向けた。
「ゾンビに抱きしめられて……喜ぶ趣味は、ないんだ……よ」
言い終える前に腕がさらに締まり、声の末尾が苦しげな息へ変わった。
アリナは駆け寄りかけて、足を止めた。
腕を引いたところで、あの怪力をほどけるはずがない。腹へ撃っても止められず、今の位置から顔を狙えば、和憲の頭が近すぎる。
銃を握る手に力が入った。
焦って撃てば、彼を傷つける。
アリナは一度だけ息を吐き、モードを切り替えた。
金属の噛み合う音とともに銃身が伸び、各部が精密射撃に適した形へ組み替わる。狙撃に特化した状態へと移行した銃を構え、道路を斜めに移動した。
通常の射撃では、厚い組織を抜けなかった。
ならば、威力を上げて一点を貫くしかない。
和憲の右側へ回り込み、二人の頭が射線上で重ならない角度を探す。足元の破片を避けて膝をつくと、照準の中に、彼の顔から離れた赤目の額を捉えられた。
和憲の唇から、短い息が漏れた。
アリナは奥歯を噛み締め、銃口を保った。
「恩人様、そのまま顔を横へ向けてて!すぐに助けるからね!」
和憲の目が、わずかにこちらへ動いた。
聞こえている。
彼女は息を細く吐き、引き金を引いた。
鋭い銃声が、夜の通りを貫いた。
弾丸は額の厚い組織を破り、その奥へ抜けた。赤目の顔が後方へ跳ね、両腕の力が一瞬だけ緩む。
和憲は赤目の胸を右手で押し、上体を横へねじった。
圧迫から外れた左肩を引き抜き、身体を腕の輪の下へ滑らせる。靴底が地面を捉えたとき、膝が折れかけた。
それでも背中は向けず、刃を間へ差し入れながら後退した。
二歩目で咳き込み、口元へ上がってきた血を吐き出す。その右肘へ、アリナの手が伸びた。
「恩人様!」
和憲はようやく大きく息を吸った。
空気が入るだけで胸の奥が痛む。それでも呼吸ができることを確かめながら、袖で唇を拭った。
「ありがとう、ゴホッ。た……助かったよ。なんだか知らんが、あいつ抱擁が熱烈でさ」
「もう……そんなこと言って。息は?ちゃんと吸える?」
声は少し震えていたが、肘を支える手はしっかりしていた。
「吸えるよ。さっきより、ずっと」
「……よかった。ゆっくり、でいいからね」
アリナは彼の顔を見上げ、呼吸が落ち着くのを確かめた。
赤目は倒れていなかった。
壁へ肩をぶつけた姿勢のまま、撃ち抜かれた頭を傾けている。両腕はだらりと下がり、指先だけが時折、引きつるように動いた。
和憲はその姿を見て、まだ痛む胸を右手で押さえた。
「……いってて、どうせ抱きしめられるなら、美女がいいよな」
ほとんど独り言だった。
腐った肉へ顔を押しつけられていた不快感と、ようやく息を取り戻せた安堵が、そのまま口からこぼれたような言い方だった。
隣でアリナの動きが止まった。
彼の顔を見上げ、ほんの少し唇を尖らせる。
「……ふーん。綺麗な人ならいいんだ」
拗ねた響きに、和憲が隣を窺った。
アリナは赤目へ素早く視線を走らせた。壁にもたれた巨体は、まだこちらへ向かってくる様子がない。
銃を吊り紐に預けると、和憲の右側へ身を寄せた。
そのまま両腕を回し、ぎゅっと抱きつく。
傷めた背中を強く押さないよう、手は脇腹へ添えていた。それでも、ぴたりと寄り添う温もりと、肩口へ頬を寄せられた感触に、和憲の身体がこわばった。
「……アリナさん?」
裏返りかけた声で呼ぶ。
頬がみるみる赤くなるのを見て、アリナは顔を上げた。青い瞳を和らげ、いたずらっぽく笑う。
「美人さんならいいんだよね?」
「いや、それは言葉のあやというか何と言うか……」
和憲は視線を泳がせた。
左腕の刃を彼女から遠ざけたまま、右手をどこへ置くべきか迷う。アリナはその顔を覗き込み、少しだけ首を傾げた。
「わたしじゃ、だめ?」
「アリナさんがダメって訳じゃなくてだな。つまり、その……」
答えてから、和憲は壁際へ目を向けた。赤目はまだ頭を垂れたままだった。
逃げ道を探すように逸らした視線を戻し、観念したように息をつく。
「……めちゃくちゃ嬉しいです」
アリナの目が丸くなった。
和憲は照れくさそうにしながらも、今度は彼女から目を逸らさなかった。宙に浮かせていた右手を、そっとその肩へ添える。
「サンキュ。アリナさんに抱きしめてもらえて、元気出た」
アリナの顔が、ぱっと明るくなった。
「ほんと? えへへ……よかった!」
嬉しさを隠しきれず、肩口へもう一度頬を寄せる。
「わたしも、こうしてると安心するの」
小さく付け足した声には、まだ安堵が滲んでいた。
和憲の肩が呼吸に合わせて動く。その感触を確かめるように触れてから、アリナは自分で腕を緩めた。
「続きは、安全なところに着いてからね」
「つ、続きがあるのか」
「恩人様が嫌じゃなかったら、だけど」
「それを言われちゃ、断る理由がないな」
和憲の赤い顔を見て、アリナは嬉しそうに笑った。
けれど、その目が彼の胸元へ下りると、声はすぐに気遣うものへ変わった。
「痛くなかった?」
「大丈夫。ちゃんと加減してくれただろ」
「うん。痛いところ、増やしたくないもん」
和憲は肩に添えた手を軽く動かした。
「心配かけたな」
「……すごく、心配したよ」
彼女は一度だけ俯き、すぐに顔を上げた。
「でも、今は恩人様の声が聞けて嬉しい」
その向こうで、靴底が舗装を擦った。
アリナはすぐに銃を取った。和憲も右手を下ろし、彼女を背に庇うように半歩前へ出る。
赤目が壁から肩を離していた。
頭から黒い血を流しながら、巨体がこちらへ向き直る。動きは鈍っていたが、残った片方の赤い目が和憲を捉えた。
「まだ動く……」
「今度は、抱きつかれる前に終わらせてやる。二回目は流石にゴメンだしな」
和憲は左腕を低く構えた。
「アリナさん、援護を頼む」
「うん。ちゃんと見てるから、無理はしないでね」
背後で彼女が構え直す気配を確かめ、和憲は赤目の前へ進み出た。
「太っちょ。こっちだ!」
巨体が傾いた。
和憲はすぐには近づかず、斜め後ろへ下がった。腹の揺れと、その下の脚を見る。
腕が伸び、体重が踏み出した片脚へ移る。
その瞬間、和憲は伸びてきた腕の外側へ踏み込み、腰を落とした。
黒い刃が膝を横から捉えた。
肉の奥に硬い手応えがあり、それを断ち切ると、巨体の片側が沈んだ。残った脚が踏ん張ろうとしたが、前へ運ばれた重さを支えきれない。
膝が舗装へ落ち、続いて腹が地面へつかえた。
それでも、腕は和憲を探した。
彼は足元へ伸びてきた手をかわし、巨体の側面へ回り込む。右手で肩を押さえ、下がった後頭部へ切っ先を向けた。
赤目が顔を上げようとする。
その口は、まだ何かを求めるように開閉していた。
和憲はそれを見下ろし、低く言った。
「食い足りないって顔してるな。……これ、やるよ」
黒い刃を突き下ろした。
損傷した頭部を刃が貫き、巨体が震えた。
和憲は肩口へ右足をかける。胸の奥に痛みが走ったが、足を退くことはしなかった。
肩を踏んで押さえつけ、突き刺した刃を首の付け根へ向けて引き切る。
湿った音とともに抵抗が失われた。
刃を引き抜くと、離れた頭部が舗装へ転がった。その傍らへ巨体が崩れ、腹が地面を打つ重い音が響く。
伸ばされた指が一度だけ舗装を掻き、今度こそ動かなくなった。
和憲は足を下ろし、呼吸を整えながら周囲へ意識を向けた。
新しく近づく気配はない。
倒れた赤目にも、動く様子はなかった。
「なかなか、食べ応えあっただろ」
返事のない相手へ、和憲は呟いた。
口元に浮かびかけた笑みは、すぐに消えた。刃を下ろしても立ち去ろうとはせず、地面へ投げ出された太い腕と、動かなくなった指先を見つめている。
「……後は、あの世で腹いっぱい食っててくれ」
言葉の終わりが、吐息に紛れた。
もう届かないと分かっている相手に声をかけ、そのあとで、何を言えばいいのか分からなくなったようだった。伏せた目に、虚しさが残っていた。
駆け寄ろうとしていたアリナは、その横顔に目を留めた。
初めて会ったときも、和憲はこんな顔をしていた。
ゾンビに怯える人も、憎しみをぶつける人も見てきた。倒して安堵する姿など、珍しくもない。
けれど、その死を前に、こんなふうに寂しそうな顔をする人間は、和憲が初めてだった。
つい先ほど、自分を締め殺そうとした相手なのに。
彼が何を思っているのか、アリナにはまだ分からなかった。聞いてみたい気もしたが、今、言葉にしてもらう必要はないと思った。
ただ、その横顔を一人で俯かせたままにしておきたくなかった。
「……恩人様」
そばへ寄って呼ぶと、和憲が顔を向けた。
アリナは彼の右腕へ、そっと手を添えた。
「背中はどう?さっきより痛くなってない?」
「ちょい痛いけど、動けるよ。血も止まってきてる」
アリナは彼の口元を確かめ、それから目を合わせた。
「そっか。でも、辛かったら教えてね?わたしには、我慢とか遠慮しなくていいから」
和憲は何かを言いかけ、少しだけ苦笑した。
「……じゃあ、正直に言う。少し休みたい」
「うん。早く休めるところへ行こうね」
すぐに頷いた彼女の目の縁には、薄く光が溜まっていた。
和憲は左腕を彼女から遠ざけ、声を落とした。
「……嫌なものを見せて悪かった」
アリナは頭部を失い、倒れた巨体を一度だけ見た。
それから、和憲の右手を両手で包んだ。
「怖かったよ。でも、恩人様が血を吐いたときの方が、ずっと怖かった」
握る力が少し強まる。
「だから今は、傍にいてくれてよかったって思ってる。わたしのところへ戻ってきてくれて、ありがとう」
「戻れたのは、アリナさんのおかげだ。さっきの一発、本当に助かった」
「間に合ってよかった……」
アリナは包んだ手へ目を落とし、指先をそっと撫でた。
「次も、危なくなったら頼ってね。一人で何とかしようとしなくていいんだよ」
「ありがとな。頼りにしてる」
和憲が答えると、アリナはようやく柔らかく微笑んだ。
「うん♡」
両手をほどき、彼の右腕へ自分の腕を添える。和憲も今度は遠慮せず、その支えを受け入れた。
男たちがトラックの陰から出てきたのは、黒い刃が縮み始めてからだった。
若い男は倒れた赤目から目を逸らしている。年かさの男は鞄を両手で抱え、和憲の口元に残る血を見ては、何か言いかけて俯いた。
アリナが振り向くと、二人は足を止めた。
和憲へ向けていた柔らかさは消えていた。怒鳴るわけではない。ただ、二人を順に見る視線には、言い訳を許さない厳しさがあった。
「二人の声で、あのゾンビに気付かれたんだよ」
「……悪かった」
年かさの男が頭を下げた。
「俺がよそ見して缶を蹴って、それで言い返した。俺が悪い」
「俺も、声を抑えなかった」
若い男も続いた。
アリナは、和憲の袖についた血へ目を落とした。
「恩人様だって、怪我をするの。なにかあればどうにかしてくれる、助けてくれる、だから大丈夫だなんて、思わないで」
年かさの男の指が、鞄の持ち手を握り締めた。
あれほど見たかった刃の話は、もう口にできなかった。
「……もう、同じことはしないでね」
二人が頷くのを見届けてから、和憲が口を開いた。
「続きは、落ち着けるところにしよう。銃の音もしたし、ここには長居しない方がよさそうだ」
アリナは彼へ向き直った。
「そうだね。恩人様も、早く休みたいもんね」
年かさの男が鞄を返そうとすると、彼女が手を伸ばした。
「それ、わたしが持つね」
「重くないか?」
「大丈夫。恩人様は、歩く方に力を残しておいて」
「助かるよ。任せてばかりで悪いな」
「悪くないよ。わたし、頼ってもらえると嬉しいもん」
鞄を肩へ掛け、和憲の右腕を支え直す。
「つらくなったら教えてね。背負うこともできるから」
「流石にそこまではさせられないなあ。逆なら兎も角、絵面が凄いことになりそうだ」
「大丈夫!ちゃんと一緒に、恩人様と帰りたいもん」
和憲は彼女を見つめ、少し表情を和らげた。
「……ありがとう」
「いくらでも♪ゆっくり行こうね」
アリナが和憲の手を握った。
和憲は眉を少し上げたが、すぐに、そっとアリナの手を握り返した。
和憲の困ったような、でも柔らかな笑みを見てアリナは明るく笑った。
最初の一歩を一緒に踏み出し、アリナは和憲の足元を確かめた。
男たちも黙って後に続いた。
四人が赤目から離れるまで、誰も刃のことを話さなかった。




