第24話 腹の音 その4
商店街のアーケードが見えてくる頃には、和憲の歩き方から、痛みをかばうぎこちなさが薄れていた。
抜け落ちた屋根から夜空が覗き、軒先の札が風に揺れている。アリナはなお隣を離れず、ときおり彼の顔を確かめた。
何度目かに目が合い、和憲が小さく笑う。
「さっきより楽になってるよ。心配かけたな」
「歩きやすくなったみたいで、よかった。でも、血がまだ少しついてるよ」
アリナは布のきれいな面を出した。
「ちょっと拭いてもいい?」
「ありがとう。自分では見えなくてな」
和憲が足を止める。アリナは彼の顎へそっと布を当て、乾きかけた血を、肌を擦らないように拭った。 すぐ近くにある真剣な顔を見ているのが照れくさくなったのか、和憲の目が少し横へ泳ぐ。それでも、手入れを受ける間は大人しくしていた。
「……こんなことまでさせちゃって、ごめんな」
「わたしがしたくて、こうしてるんだよ」
口の端に残っていた血を拭い、アリナは布を離してから和憲の顔を覗き込んだ。
「痛くなかった?」
「アリナさんが優しくしてくれたからな。大丈夫だよ」
ホッとしたようにアリナの口元がほころぶ。
「それならよかった」
「顔もさっぱりしたし、気分まで楽になるな」
「また汚れてたら、わたしが拭いてあげるね」
「じゃあまた頼もうかな。アリナさんも、何かあったら遠慮せず言ってくれよな」
「うん♪そのときは、恩人様にお願いするね」
布をしまい、アリナはまた彼の隣へ戻った。
後ろを歩く若い男は、和憲の肩に残る壁の粉を見ていた。
つい先ほどまで血を吐き、息をするのも苦しそうだった。それがもう、何でもないように歩きながら言葉を交わしている。
おおよそ常人とは言い難い、異様な回復の早さだった。
けれど、隣の少女に世話を焼かれ、照れくさそうに笑う顔には、噂から思い描いていた怪物の面影などなかった。
「店は確か……あれだったっけ?」
「正解!昼間に見たところだよ。よく覚えてたね、恩人様。偉い偉い♪」
アリナは手を伸ばし、和憲の頭を軽く撫でた。
彼が照れくさそうに首をすくめるのを見て笑い、通りの先へ目を向ける。
そこには、古びた雑貨店があった。
庇は半分剥がれ、半開きのシャッターを塞ぐように陳列棚や看板が倒れ込んでいる。その上には割れたガラスが散らばり、片づけようとすれば、静かな通りに音を響かせることになりそうだった。
四人は細い通路を抜け、勝手口へ回った。
和憲が中の気配を確かめ、アリナが扉を押す。
だが、隙間が開いたところで、内側に倒れた棚へ引っかかった。
和憲が手を差し入れようとすると、年かさの男が前へ出た。
「待ってくれ。俺たちでやる」
若い男も扉の隙間を覗き込む。
二人で棚の端を持ち上げ、引っかかっていた箱を少しずつずらした。音を抑えながら壁へ寄せると、一人ずつ通れる隙間ができた。
「すまん、ありがとう」
「改まって礼なんて言われる程のことしてねえよ。……これくらい、やらせてくれ」
年かさの男は視線を落とし、扉を支える手へ力を込めた。
店内には、乾いた埃と古い紙の匂いが籠もっていた。 懐中電灯の光が棚の間を滑り、割れた食器や散乱した伝票を浮かび上がらせる。レジの引き出しは抜き取られ、床の紙には幾つもの靴跡が重なっていた。
「ここも、持ってかれてるか」
若い男が呟いた。
年かさの男は返事をせず、棚の奥へ光を向けてもらうよう手で示した。
「……待て。あそこ、箱じゃねえか」
倒れた陳列棚の向こうから、段ボールの角が覗いていた。斜めに落ちかかった棚板に隠れ、通路側からは見落としそうな場所だった。 和憲が横から板を支えると、アリナがそばへ寄る。
「恩人様、持ち上げて平気?」
「こんくらいなら大丈夫。辛くなったらちゃんと言うさ」
「分かった。わたしはここを照らしてるね」
光を頼りに、若い男が箱を引き出した。 埃を払い、テープを剥がして蓋を開ける。その手が、中を見たところで止まった。
「……ある」
菓子の袋が詰まっていた。
赤や黄色の包装が光を返し、埃に沈んだ売り場の片隅に、そこだけ昔の色が戻ったようだった。
若い男は一袋を取り出し、裏面の日付を読んだ。封の端を確かめ、包装に破れがないか、指で慎重になぞっていく。
「本当に残ってる……」
声を上げて喜ぶより先に、もう一度箱を覗き込んだ。目を離した隙に、中身が消えてしまうとでも思っているようだった。
隣では、年かさの男が別の箱を開けていた。 蓋を持ったまま動かなくなったので、アリナが光を寄せる。
「……水だ」
男は一本を両手で持ち上げた。 埃を被ったラベルの向こうで、透明な水が揺れる。キャップの封が切れていないことを親指で確かめ、しばらくその重さを掌に受けていた。
持ち帰れる。
明日、また空の袋を抱えて歩かずに済む。
そう思った途端、張り詰めていた肩がゆっくり下がった。
「こんなところに、あったのか」
顔を上げると、棚板を安全な位置へ下ろした和憲が、アリナへ笑いかけていた。
「水もあったな。アリナさんの分、減ったままにならなくて良かった」
「うん♪これで、少し安心できるね」
彼女の声にも安堵が滲んでいた。
年かさの男は手元の一本を見てから、二人へ差し出した。
「ほら、取ってくれ」
「本数を見てから分けよう。持って帰る分もいるんだろ?」
「それでも、まずはあんたらに渡したい」
今度は、和憲の顔を見て言った。
若い男も菓子の箱を二人へ寄せる。
「ここまで来られたのも、二人のおかげだ。俺たちだけで抱えるわけにいかねえ」
アリナは和憲と目を合わせた。
それからアリナが水を受け取った。
「ありがとう。じゃあ、残りも分けよう。待ってる人たちにも持って帰れるように」
「……頼む」
傷んだ包装を取り除き、持ち帰れる菓子と水の本数を数える。
男たちは袋の底へ水を並べ、その上に菓子を重ねていった。年かさの男は、ときおり手を止めて中を確かめる。袋を握り潰していたときとは違い、今は口を広げる指つきまで慎重だった。
和憲が自分たちの取り分へ手を伸ばすと、アリナが声をかけた。
「恩人様、重さは半分こにしよう?」
「痛みはずいぶん引いたし、半分以上でも大丈夫だよ」
「……嘘じゃない?」
「本当。アリナさんに嘘は言わないって。元気いっぱい、パワー全開だ」
冗談めかして腕に力を入れてみせると、アリナはくすりと笑った。それでも渡した水は、きちんと半分だった。 和憲もそれ以上は欲張らず、鞄へ収める。
「ちゃんと休んでからにするからさ」
「そうしてくれると嬉しい。わたしも、恩人様のお隣で休みたい」
近づく気配がないことを確かめ、四人は入口の様子が窺える店の奥で休むことにした。
年かさの男が水のキャップを捻ると、封の切れる小気味よい音がした。
飲み口へ唇を当て、まず一口含む。乾いた喉を水が通り抜ける感覚に目を閉じ、何口か続けて飲んでから、長く息を吐いた。
「っ〜〜かああ!……生き返る」
若い男も水を飲み、菓子の袋を開けた。
「これ、世界がこんなになる前はよく買ってたな。価格も量も庶民の味方って感じでさ。……いや、今もそうか」
一つ口へ運び、しばらく黙って噛む。
「……ちょっと湿気てるな」
「長いこと、あそこにあったんだろ」
年かさの男も一つもらい、水と一緒に飲み込んだ。 袋へ伸ばしかけた手を止め、ぽつりと続ける。
「……でも、ありがてえな」
若い男は頷き、どちらからも取れるよう、袋を二人の間へ置いた。
和憲が隣の埃を払っていると、アリナがそばへ来た。
「ここ、座ってもいい?」
「ん。アリナさんがいいなら、オレはいいよ」
「恩人様のお隣、あったかいから好き♪」
ほかにも場所は空いていたが、彼女は肩が触れるくらい近くへ腰を下ろした。
和憲は少し照れたように目を伏せる。アリナは彼に礼を言って菓子を膝へ置くと、胸の前で手を合わせた。
「いただきます」
頭を下げ、袋へ手を伸ばしたところで、和憲の視線に気づく。
「どうしたの?恩人様」
「前から思ってたけど、アリナさんって行儀いいよな」
「そうかな?」
「ちゃんと食べる前には手を合わせるし、終わったあとも、ごちそうさまって言うだろ」
「昔からだから、言わないと落ち着かないんだよね。お菓子でも、大事なご飯だもん」
「そういうの、自然にできるのはいいと思うぞ。オレも見習わないとな」
アリナは膝の袋へ目を落とし、少しはにかんだ。
「えへへ♪そんなところまで、見ててくれたんだ」
「結構な間、一緒にいるしな。自然と目に入るというか……アリナさんの色々が少しずつ分かってきたって感じだ」
「わたしも、恩人様のこと、前より分かるようになってきたよ」
「道に迷いそうな顔とかか?」
「それもだけど、嬉しいときの顔も」
和憲は否定せず、困ったように口元を緩めた。
「そっちまで分かるのか」
「今も、ちょっと嬉しそう」
「……アリナさんが笑ってくれてるからな」
アリナは何か言いかけたが、嬉しさが先に顔へ出た。 一つ菓子を食べ、それから袋を彼へ傾ける。
「恩人様も、食べる?」
「いや、オレはいいよ。アリナさんが食べてくれ」
「そう言わずに。たまには、一緒に食べよう?」
袋から取り出した菓子を指先でつまみ、和憲の口元へ差し出す。
「はい♡あーん♡」
和憲は動きを止めた。
菓子を見て、アリナの顔を見て、それから男たちの方へちらりと目をやる。頬がじわじわと赤くなった。
「……いや、その。自分で食べるから、手に渡してもらえると」
差し出されたアリナの手が、少し下がった。
「……イヤ?」
眉が下がり、笑みが心細そうにほどけた。
和憲は慌てて首を振る。
「イヤじゃないよ。ただ、ちょっと恥ずかしくて……」
「そっか。無理強いするのはよくないよね……」
しょんぼりと俯いて、手を引こうとする彼女を見て、和憲は赤い顔のまま、慌てて言葉を継いだ。
「……せっかくだから、もらおうかな」
アリナの顔が、ぱっと明るくなった。
「ほんと?」
「うん。……いただきます」
和憲は膝の前で手を合わせ、おずおずと顔を近づけた。 菓子は小さく、つまんでいる指との間にほとんど余裕がない。
近づきすぎれば唇が触れてしまうと思うと、簡単なはずの動作が急に難しくなった。
端だけをくわえようと、少しずつ顎を寄せる。
首や肩へ余計な力が入り、口元がぷるぷると震えた。
アリナは手を動かさずに待っていたが、笑いを堪える唇の端が持ち上がっていた。
ようやく、和憲が菓子をくわえた。
指に触れずに済んだと肩の力を抜きかけた、その瞬間だった。
「えいっ♡」
アリナの指先が少し進み、唇へちょんと触れた。
和憲が目を丸くする。
彼女はすぐに手を引き、彼の顔を覗き込んだ。
いたずらっぽく細めた目と、ゆっくり持ち上がった口元には、いつもより少し大人びた色があった。
「美味しかった?」
和憲は菓子を噛みながら、真っ赤な顔でこくこくと何度も頷いた。
「……よかった♡」
アリナの笑顔を前に、和憲はしばらく返す言葉を見つけられなかった。ようやく飲み込み、息を整えてから彼女を見る。
「アリナさん……今のは、びっくりする」
「ごめんね。恩人様があんまり気をつけてくれるから、つい♪」
まだ赤い頬を見つめ、今度は声を柔らかくした。
「食べてくれてありがとう。一緒に食べられて嬉しかった♡」
「……オレも、嬉しかったよ。ちょいと恥ずかしかったけど」
満足そうに菓子の袋を膝へ戻し、アリナは彼のそばへ座り直した。
肩が触れても、和憲は離れなかった。そのことが嬉しくて、彼女は寄り添ったまま次の一つを口へ運んだ。




