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第25話 腹の音 その5

 和憲は入口へ一度目を配り、それから菓子の包装へ視線を落とした。頬には、まだ赤みが残っている。


「……ガキの頃は、こういう菓子のオマケが欲しくてな」

 

 若い男が顔を上げた。先ほどまで赤目と渡り合っていた男から出てきた話題としては、あまりに平凡だった。


「あんたも、そういうの買ってたのか」

「シールとか、小さい玩具とか。小遣いが足りないと、母親の買い物カゴへ忍ばせてた」

「勝手に?」

「ほかの物に紛れれば、そのまま買ってもらえるかと思ってな」

「で、その作戦はうまくいったのかよ?」

「だいたい、レジの前で発見されて、売り場へ強制送還だ。なんであんなに気付くんだろうな」


 アリナがくすりと笑った。

 肩が触れたまま揺れ、その振動が和憲にも伝わる。


「小さい恩人様、見てみたかったな。お菓子を戻されて、どんな顔してたのかな?」

「母親の話だと、この世の終わりみたいな顔だったらしい」

「今なら、わたしが一個買ってあげるのに」

「その申し出、昔のオレに聞かせてやりたいな」


 和憲が笑うと、アリナは少し身を起こして彼を見上げた。


「今の恩人様も、オモチャは好き?」

「嫌いじゃないよ。アリナさんの銃が変形したときも、つい見入っちゃったし」

「気づいてたよ。目がきらきらしてたもん」


 アリナは傍らの銃へ目をやり、冗談めかして少し自分の方へ寄せた。


「あれは本当に格好よかったよ。使いこなしてるアリナさんも含めてな」


 銃へ置いた彼女の手が止まった。

 それから、口元が隠しようもなく緩む。


「……えへへ♡ そっちまで褒めてもらえるんだ」

「銃だけじゃ、さっきの一発は撃てなかっただろ」

「恩人様の役に立てたなら、嬉しい」


 膝の袋を持ち直すと、アリナは再び彼へ寄り添った。和憲が楽に座っていることを確かめてから、ほんの少し預ける重さを増やす。


「今度、オマケ付きのお菓子を見つけたら、一緒に見ようね♪」

「いいな。開けるまで中身が分からないのも楽しいんだ」

「恩人様が欲しいの、入ってるといいね」

「アリナさんの好きそうなのもな。小さいクマさんとか」

「それなら集めたいな。旅の楽しみ、増えちゃった♪」

「荷物も増えそうだ。ああいうのって、ハマって集めだすとキリないし」

「そのときは、二人で半分こ!」


 男たちは顔を見合わせた。

 赤目を倒した男が、母親に菓子を戻された話をし、次に見つける玩具の相談をしている。

 年かさの男があれほど見たがっていた左腕も、今はただの毛深い腕に戻り、その手は膝の上でくつろいでいた。


「頭が追いつかねえな」


 若い男の口から、思わず言葉が漏れた。


「オレの趣味にか?」

「ちげえよ。化物みたいな噂ばっかり聞いてたからよ。……母親に怒られたとか、玩具が好きだとか、考えもしなかった」

「腕がこうなったからって、オレの過去が変わるわけじゃないさ」


 和憲は何でもないことのように答えた。

 年かさの男は、その左腕へ目を落とす。

 食料を持っているはずだと決めつけ、それがなければ刃を見せろと迫った。腹の足しにもならないものに、意地になってしがみついていた。


 その腕の持ち主にも、母親と買い物へ行き、菓子をねだった子ども時代がある。

 そんな当たり前のことが、今になって胸へ落ちてきた。

 顔を上げると、和憲の肩にはまだ壁の粉が残っていた。


「……さっきは、本当に悪かった」


 水を膝へ置き、頭を下げた。


「食い物があるって勝手に決めつけて、なかったら腹を立てて。腕を見せろって、しつこく言った」


 誰も口を挟まなかった。

 男はボトルの側面を親指で擦りながら、言葉を継ぐ。


「俺は見てりゃいいと思ってた。あんたが何とかしてくれるって。……あんなふうに、血を吐くこともあるのにな」


 若い男も俯いた。


「俺も、外で言い返さなきゃよかった」


 和憲は二人を見た。少し考えてから、自分の肩についた粉を払う。


「まあ、もう済んだことだし。オレも、あんな捕まり方は反省してる」

「だからって、俺たちのせいじゃなくなるわけじゃねえだろ」

「じゃあ、次は三人とも同じ失敗をしないってことで。それでどうだ?」


 年かさの男は深く頷いた。

 アリナも二人へ顔を向ける。


「逃げてって言うのは、二人にも無事でいてほしいからだよ。そのときは、すぐに聞いてね」

「分かった。もう、見せろなんて言わねえ」


 年かさの男は和憲の腕から顔へと目を上げた。


「助けてくれて、ありがとう」


 和憲は頷き、その礼を受け取った。

 アリナもそれ以上は責めず、膝の袋へ手を戻す。しばらくは、包装の擦れる音と、水を飲む音だけが静かな店内に続いた。

 やがて、和憲が思い出したように口を開いた。


「そういや、倉庫だけど。休む場所が要るなら使えばいい。オレたちも、たまたまいただけだし」

「ここで補充もできたから、休んだら先へ進むつもりだよ」


 アリナの言葉に、年かさの男が顔を上げる。


「いいのか?」

「オレの家でもないし、家賃を取れる立場じゃないからな。あの辺で見かけたゾンビは倒してある。ただ、よそから来ることもあるから、そこは気をつけてくれ」

「窓や出入口も、明るくなってから確かめた方がいいね」


 年かさの男は足元の荷物を引き寄せた。


「少し休めりゃ十分だ。これ担いで夜道を歩くより、朝になってから避難所へ戻りてえ」

「なら、ちょうどいいな。オレたちも一度戻るし、道案内はアリナさんに任せよう」

「恩人様も、さっき通った道なんだけどね」

「道の方がオレを覚えてくれてると助かるだけどな」

「それは、迎えに来てくれないと思うよ」


 アリナが笑い、和憲も小さく肩を揺らした。

 年かさの男は、その二人と膨らんだ袋を見比べた。


「……盗みに入った相手に、命まで助けられて、食い物も寝床も世話になるとはな」

「箱を見つけたのは、そっちだろ。入口を開けてもらったのも助かったよ」

「それで、お互い様にしてくれるのか」

「助かったことまで、なかったことにはならんし」


 年かさの男は笑おうとしたが、うまくいかなかった。口元を歪めたまま黙ると、アリナが少し冗談めかして言った。


「じゃあ、一つだけお願いしてもいい?」

「何だ?」

「誰かとお話するときは、食料を溜め込んでるって噂、直しておいてね」

「ちゃんと言う。俺たちが、勝手なことを考えてたんだって」


 若い男も頷いた。

 和憲は自分の腹へ目を落とし、掌を当てる。


「この腹だと、説明に苦労させるかもしれんけど」

「恩人様、お腹に責任を押しつけないであげて?」

「おっと、すまん。長い付き合いだから、つい」

「わたしは好きだもん。恩人様のお腹」


 アリナは空いた手を伸ばし、服の上から、つつ、と指先を滑らせた。丸みを確かめるような軽い動きに、和憲がくすぐったそうに身をよじる。


「……アリナさん、ちょっと……くすぐったい」

「ふふ、ごめんね。つい触りたくなっちゃった♪」


 手を止めて顔を覗き込むと、和憲は照れくさそうに頬を掻いた。


「アリナさんに、そんなに気に入ってもらえるとは」

「だって、恩人様のお腹だもん!」


 困ったような笑顔に、アリナも笑う。手を引き、そのまま彼の腕へ自分の腕を添えた。

 若い男が、つられて口元を緩める。


「さっきの赤目とは別物、か」

「もちろんだよ。わたしがくっついていたいのは、恩人様」

「……ありがとう。オレも、アリナさんが隣にいてくれると落ち着く」


 嬉しそうに肩を寄せてくる彼女のため、和憲は鞄を脇へずらした。アリナは空いた場所へ膝を寄せ、いっそう近くに収まる。


 若い男はボトルを口へ運び、二人から視線を外した。

 菓子を食べさせられていた和憲の顔が、まだ頭に残っている。赤目の前では軽口まで叩いていた男が、あのときは耳まで赤くしていた。


 そのくせ、寄り添われることには慣れているらしい。話しかけられると自然に顔を傾け、近すぎるとも言わずに聞いている。


 どういう関係なのだろう。


 命を助けてもらったから懐いている。それだけにしては、アリナの和憲へと向ける表情は甘かった。

 和憲も戸惑いこそするが、彼女の好意を迷惑がっている様子はまるでない。

 隣を見ると、年かさの男も同じ方を眺めていた。


「……何なんだろうな、あの二人」

「俺に聞くなよ」

「ただの連れって感じでもねえだろ」

「そこまでは、俺にも分かる」


 二人とも声を潜めていた。

 恋人同士なのかと思えば、和憲は触れられるたびに初心な顔をする。だが、アリナは彼が照れるところまでよく知っているようだった。


 そもそも、恩人様とは何なのだ。


 そう呼ばれながら甘えられ、あれほど大事にされている男を、ほかに見たことがなかった。


「恩人様、もう一つどう?」

「アリナさんの分がなくなるぞ」

「二人で食べたら、もっと美味しくなるよ♪」

「……じゃあ、お言葉に甘えて」


 和憲が掌を差し出す。

 アリナは少しいたずらっぽく笑ったものの、今度はそこへ素直に菓子を載せた。和憲が口へ運ぶのを見届け、自分も一つ取る。


 若い男が何か言いたげに隣を見ると、年かさの男は小さく首を振った。


 尋ねれば答えてくれるかもしれない。けれど、今の二人へ割って入るのも野暮に思えた。

 結局、どちらも黙って水を飲んだ。

     

 倉庫へ戻る頃には、東の空が薄く白み始めていた。

 帰り道で男たちが言い争うことはなかった。段差の手前では小さく合図をし、後ろの者が通るまで光を留めた。

 和憲の足取りも普段の調子へ戻っていたが、アリナはときおり横顔を覗き込んでいた。

「もう、普通に歩けてるだろ?」

「歩けてるのは合格。ちゃんと休むのは、これからね」

「だいぶ楽になったぞ?」

「“だいぶ”じゃなくて、”ちゃん”と楽になったら、また教えて」

「なかなか審査を通らんな」

「さっきのを見たあとなんだから、厳しくもなります」

「分かった。心配してくれてありがとな」


 その返事に、アリナはようやく口元を和らげた。

 シャッターを潜ると、片づけた通路が奥まで続いていた。


  壁際の木箱、戻した棚板、空いた棚。

 数時間前には、何もないことばかりが目についていた。今は荷物を置ける高さや、風の当たらない隅へ自然と目が向く。


 年かさの男は袋を棚へ載せ、底が安定していることを確かめた。

 和憲は鞄を下ろし、壁の隙間を見上げた。


「しばらく使うなら、布団は探した方がいい。夜は結構冷えるし」

「……オフクロか、お前は」


 年かさの男が言うと、アリナがぱっと顔を上げた。


「あ!それ、ちょっと分かるよ! わたしが下着姿でうろうろしてると、恩人様、すぐ『ちゃんと服を着なさい』って言うもん」


 和憲の手が止まった。

 鞄から布を出しかけたまま、ゆっくり彼女を見る。


「アリナさん。そこまで詳しい例は、なくてもよかったんじゃないか」

「どうして?分かりやすい方がよくない?」

 

 若い男は荷物を下ろす途中の姿勢で止まっていた。


「……下着?」

「身体を拭いたあととか、着替えるときだよ」

 アリナは何でもないように答え、和憲を見上げる。


「恩人様、すぐあっち向いちゃうの。顔、真っ赤にして」

「見ない方がいいだろうと思ってな」

「恩人様だったら――」

「その続きは、あとで二人の時にしような。……お願いします」


 優しい声だったが、耳まで赤かった。

 アリナは楽しそうに笑う。彼の顔から痛みを堪える色が消えていることも、彼女を安心させていた。

 年かさの男は、とうとう我慢できなくなったように尋ねた。


「あんたら、どういう関係なんだ?」

「一緒に旅してる。オレが着いてきてもらってるんだ」

「道中で見た分は知ってる」


 和憲が答えを考えていると、アリナが隣へ寄った。


「あと、友達!ね、恩人様♪」

「大切な同行者、で、友達だな」


 アリナは少し目を丸くしたあと、隠せないほど嬉しそうに笑った。

 

「恩人様〜♪今の、もう一回言ってくれてもいいよ♡」

「うへ。自分でも結構恥ずかしいこと言った気がするから、一回で勘弁してくれ」

「それじゃあ、あとで何回も思い出すね♪」


 若い男は二人を見比べた。答えはもらったはずなのに、分からないことが増えた気がした。


「友達の前で、そんな格好になるのか」

「誰の前でもじゃないよ?」


 アリナの声が柔らかくなる。


「恩人様の前なら、安心できるの。困らせちゃうのは、ちょっと申し訳ないけど」

「できれば、その……着替えが終わってから安心してくれると助かる」

「恩人様が優しいからだよ。つい甘えちゃうの」


 和憲は返す言葉に詰まり、頬を掻いた。

 年かさの男が長く息を吐く。


「服を着ろって言う方なのは、よく分かった」

「風邪を引かれても困るしな」

「結局、そこへ戻るのか」

「寝床の話をしてたはずなんだが、ずいぶん遠くまで来たな」


 和憲は手にした布を持ち上げた。


「とりあえず、長椅子の埃を払おう。座れる場所が欲しい」

「それは、わたしがやるよ」


 アリナが布を受け取ろうとすると、和憲は長椅子と彼女を交互に見た。


「アリナさんも疲れてるだろ。これくらいは――」

「“これくらい”だから、任せてほしいな」


 若い男も敷物を持ち上げた。


「俺たちもやる。今夜は少しくらい、世話する側に回らせてくれ」

「三対一だぞ。諦めろ」


 年かさの男まで加わると、和憲は三人を見回した。

 それから肩の力を抜き、布をアリナへ渡す。


「じゃあ、お言葉に甘えて任せるとするか。ありがとう」

「どういたしまして。すぐ座れるようにするね」


 アリナが埃を払い、男たちが敷物を広げた。

 長椅子へ腰を下ろした和憲は、背もたれへゆっくり身体を預ける。ようやく荷物も、周囲を警戒するための緊張も、ひとまず下ろすことができた。


「アリナさんも休んでくれ。ずっと気を張ってただろ」

「恩人様がちゃんと休んでくれたら、わたしも安心できるんだけどな」


 若い男が入口へ向かいながら、肩越しに振り返った。


「先に二人で寝てくれ。しばらくは俺たちが見てる」

「物音がしたら起こす。それくらいは任せろ」


 年かさの男も、入口を見渡せる木箱の脇へ腰を下ろした。

 あとで交代することを決めると、アリナは二人に礼を言い、弾むような足取りで和憲の隣へ戻ってきた。


「恩人様、今日は一緒に休めるね♪」

「ありがたいな。今のうちに、少し寝かせてもらおう」

「えへへ……嬉しい♡」


 隣へ座った彼女は、まだ笑っていた。

 どちらかが眠れば、もう一人は起きて周囲へ気を配る。その繰り返しだった。そばにいても、二人で同時に気を抜ける時間は少ない。


 今は、彼が目を閉じるのを見届けたあと、自分も眠っていい。

 アリナは両腕を伸ばした。


「恩人様、お疲れ様♪」


 肩と後頭部へ手を添え、その顔を自分の胸元へぎゅっと抱き寄せる。傷めた背中を強く押さないよう気をつけながら、確かめるように抱きしめた。

 和憲の背筋が伸び、膝へ置きかけていた手が宙で止まった。


「……アリナさん?」

「安全なところに着いたら、続きって言ったでしょ?」


 彼の髪へ頬を寄せ、アリナは嬉しそうに笑った。


「ちゃんと覚えてたんだよ?エラいでしょ」

「オレも忘れてた訳じゃないんだけど……寝る準備にしては、逆に目が覚めそうだ」

「そう? わたしは、ほっとするよ」


 和憲がわずかに身じろぎすると、アリナはすぐ腕を緩めた。


「苦しかった?」

「いや、大丈夫。ただ、その……寝るときは、少し離れた方がいいんじゃないか」

「どうして?」

「こんなに近いと、落ち着いて寝られる自信がない」


 正直に答えた彼の頬は、また赤くなっていた。

 アリナはその顔を見つめ、袖を軽くつまむ。


「わたしは、恩人様が近くにいる方が落ち着くよ」

「アリナさんにそう言ってもらえるのは、本当にありがたいんだけど……」

「……一緒に寝よ?」


 アリナが小さく首を傾げる。

 今度の声には、からかう響きがなかった。


「もう少し、傍にいたいの。恩人様がちゃんと息をしてるって分かるところで、休みたい」


 和憲は彼女を見た。

 赤目に締めつけられていたとき、何度も自分を呼んでいた声を思い出す。今は笑っていても、あのときの恐怖が、すっかり消えたわけではないのだろう。

 袖をつまむ指へ目を落とし、観念したように息をついた。


「……分かった。一緒に休もう」

「ほんと?」


 アリナの顔がぱっと明るくなった。

 和憲は照れくさそうに頬を掻き、少し声を落とす。


「ただ、加齢臭がキツくても勘弁してくれよ」


 アリナは一瞬きょとんとしたあと、堪えきれずに笑った。

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