第26話 腹の音 その6
「ふふっ……そこを心配してたの?」
「これだけ近いと、先に言っておいた方がいいかなと思って」
「平気だよ♪わたし、恩人様の匂い、好きだから♡」
笑いながら、彼女は長椅子の端へ少し移動した。
畳んだ布を背もたれとの間に挟み、自分がそこへ斜めに寄りかかる。和憲には靴を脱いで脚を上げてもらい、身体を無理にねじらず横向きになれるよう敷物を直した。
「ここなら、痛くない?」
「大丈夫だ。アリナさんこそ、重くないか?」
「つらくなったら、ちゃんと言うね」
和憲がためらいながら頭を預けると、アリナはその顔を胸元へ迎え、肩へ腕を回した。
空いた手で、彼の髪をそっと撫でる。まだ自分で身体を支えようとしているのに気づき、少し顔を近づけた。
「そんなに力を入れてたら、休憩にならないよ」
「……こんな風に寝るの初めてだから、慣れなくてさ」
「ゆっくりでいいから。わたしも、楽にしてるよ」
和憲は息を吐き、少しずつ肩の力を抜いた。
落ち着く位置を探すうち、右手がアリナの腰の手前で止まる。
「アリナさん、その、ここに手を回してもいいか?置き場所に困ってて……」
「もちろん♡わたしだけ抱きついてるのも、寂しいもん」
和憲はそっと彼女の腰へ腕を回した。互いの姿勢を支えるように手を添えると、アリナは嬉しそうに目を細めた。
「これで、お互いさまだね♪」
「世話になってる分は、圧倒的にオレの方が多いと思う」
「わたしも、安心させてもらってるよ」
胸元に伝わる穏やかな呼吸を感じ、抱く腕をわずかに締める。
和憲の手が腰にある。それが、彼もここで休むつもりなのだと教えてくれていた。
「おやすみなさい、恩人様」
「おやすみ、アリナさん。……ありがとう」
最後の言葉は、少しくぐもっていた。
アリナは返事の代わりに彼の髪を撫で、目を閉じる。
初めのうちは、和憲も身じろぎするたびに遠慮していた。だが、疲れには勝てなかったらしい。やがて腰へ回した手から余計な力が抜け、呼吸がゆっくりと深くなった。
その変化を確かめるように、アリナの指が一度だけ髪を梳く。
ほどなく、その手も静かになった。
入口の近くで、若い男が長椅子を振り返った。
和憲はアリナの胸元へ顔を預け、彼女の腰へ腕を回して眠っている。アリナも彼を抱いたまま、満ち足りたような顔で目を閉じていた。
「……アイツら、仲がよすぎるだろ」
年かさの男もちらりと二人を見た。
「休めとは言ったが、そこまでくっつけとは言ってねえな」
「あれで友達なんだよな?」
「さっき、そう聞いた」
「俺の知ってる友達と、だいぶ違うぞ」
「俺のとも違う。だが、聞き直すなよ。やっと寝たんだ」
若い男は口を閉じ、もう一度だけ長椅子へ目をやった。
あれほど血を吐いていた男が、今は少女に抱かれて大人しく眠っている。少女の腕もまた、眠りに落ちてなお、その肩を包んでいた。
「……まあ、よく眠れそうではあるな」
「見てるこっちが落ち着かねえだけだな」
二人は声を殺して笑い、通りへ視線を戻した。
背後からは、穏やかな寝息が聞こえていた。
交代で見張りを済ませ、最後に眠った男たちが目を覚ます頃には、高い窓から白い光が差し込んでいた。
夜には灰色にしか見えなかった木箱に、乾いた木目が浮かんでいる。
奥で布の擦れる音がした。若い男が身を起こすと、荷物をまとめていたアリナが振り返った。
「おはよう。眠れた?」
「久しぶりに、物音で飛び起きずに済んだ」
「それなら、よかった。水、そこの棚に置いてあるよ」
和憲は入口の近くで鞄を持ち上げていた。
身体をひねっても顔をしかめることはない。それでもアリナはそばへ行き、背中の様子を確かめた。
「もう痛くない?」
「平気だよ。アリナさんからたくさん元気もらったから」
「それなら良し♪でも、もし、また痛くなったら教えてね?元気ならいつでも分けてあげるから」
「分かった。ありがとう、アリナさん」
若い男は立ち上がり、服の埃を払った。
「もう行くのか」
「そろそろな。世話になった」
「世話したの、ほとんどそっちだろ」
「寝床を作ってもらったし、見張りもしてもらった。よく眠れたよ」
隣でアリナが嬉しそうに笑った。
若い男は長椅子へ目をやり、何か言いかけてやめた。
和憲が鞄を肩へ掛けると、年かさの男が尋ねた。
「て、アンタらはどこへ行くんだ?」
「とりあえず、あっち」
差し出された手へ、アリナがそっと触れた。
「恩人様、そっちは昨日来た方だよ」
「……最近、記憶力が悪くなっててさ」
「道に関しては出会った頃からだよね?」
責める響きはなく、声は笑っていた。アリナは彼の手を下ろし、自分の立つ方へ招いた。
「今日は反対方向へ出て、大きな道に合流しよう。出発する前に確認できてよかったね!」
若い男が、恐る恐る口を挟んだ。
「目的地は、あるんだよな?」
「少なくとも、オレは実家に帰るつもりだ」
「道は?」
「それは、相談に乗ってもらってる」
隣を見られ、アリナは少し胸を張った。
「わたしも、家まで全部知ってるわけじゃないからね。地図と看板を見ながら、一緒に調べるの」
「アリナさんが、これまた頼りになるんだ。いてくれなかったと思ったらゾッとするよ」
「ふふ♪よろしくお願いします、恩人様」
「こちらこそ。アリナさん」
年かさの男が、笑いを含んだ息を吐いた。
「嬢ちゃんの方も、大変だな」
「目を離すと、すぐに知らない方へ行こうとするんだもん」
アリナはそう言いながら、少しも嫌そうではなかった。
和憲の右隣へ立ち、袖へ指を添える。
「今日は、ちゃんと隣にいてね」
「大丈夫。今日も、ちゃんと隣にいるよ」
「……そう。今日も」
アリナは嬉しそうに言い直した。
二人が入口へ向かうと、男たちも後を追った。
外はすっかり明るくなっていた。夜にはひと続きの闇だった建物の間に、細い路地や閉ざされた扉が見える。
道の端には変わらず瓦礫が積もり、割れた窓も、そのままだった。
それでも、昨夜ここへ来たときと、同じ景色には見えなかった。
「二人とも、助かった。本当に」
若い男の声に、アリナが振り返る。
年かさの男も、今度は言葉を飲み込まなかった。
「噂は、ちゃんと直しておく。食料を隠してるなんて話は、もうさせねえ」
「ありがとう。でも、訂正するために喧嘩しないでね」
「……そこまで面倒はかけねえよ」
「それなら安心!」
アリナは笑い、二人の足元へ目をやった。
「避難所へ戻るときも気をつけて。荷物が重いから、無理に急がないでね」
「分かってる。そっちも気をつけてな」
若い男の視線が和憲の肩へ向く。
和憲はそれに気づいたように、軽く腕を回してみせた。
「もう平気だよ。そっちも、無料はせずにな」
「最後までオフクロか」
「言い忘れると、あとで気になりそうでな」
「分かったよ。ちゃんと帰るさ」
年かさの男も、今度は素直に笑った。
和憲は通りへ出て、左右を見渡した。それからアリナへ顔を向ける。
「こっちで合ってるか?」
「大正解!滑り出しは順調だよ」
「そのまま滑って行かないように気をつけないとな」
「それも楽しそうだね♪」
アリナが彼の腕へ少し身を寄せる。
「滑っても、長くかかっても、一緒に歩いて行こうね」
和憲の返事は、男たちのところまでは届かなかった。
ただ、アリナが顔を上げ、嬉しそうに笑ったのは見えた。
薄緑色のフードと、長い亜麻色の髪が遠ざかっていく。
和憲が路面の破片を指すと、アリナがそれを跨いだ。次の角では彼女が進む方を示し、和憲はその隣を離れず歩いていた。
男たちは、二人が建物の陰へ消えるまで見送った。
「……変な奴らだったな」
若い男が言った。
年かさの男は、まだ道を見ていた。
「関係は、結局よく分からなかったけどな」
「友達だって言ってたろ」
「あんなふうに抱き合って寝る女友達、俺にはいねえよ」
「俺にもいねえな」
若い男が苦笑する。
年かさの男は少し間を置き、続けた。
「でも、大事なんだろうな。あいつが怪我したときの、嬢ちゃんの顔を見りゃ分かる」
和憲が傷ついた時に、アリナから通りで向けられた視線を思い出し、若い男も黙った。
赤目を倒した刃より、あの目の方が、自分たちへ向けられていたぶんだけ忘れにくかった。
「……怒らせたくはねえな」
「男の方も、似たようなもんだろ。嬢ちゃんのことになると、服だの食い物だの、やたら気にしてた」
「オフクロだからな」
「お前、それ本人の前で言うなよ」
「先に言ったの、そっちだろ」
二人は顔を見合わせ、声を抑えて笑った。
自分の分は要らないと言いながら、和憲は水を背負っていた。
道の分からない男の隣で、アリナは行き先を確かめていた。
噂だけを聞いていたときには、そんな姿を想像したこともなかった。
倉庫へ戻ると、棚の上には分けてもらった菓子と水が置いてあった。
年かさの男は本数を確かめ、袋へ収めた。若い男も口を結び直し、持ち上げたときに破れないよう底へ手を添える。
「戻ろう。待ってる奴らに渡さねえと」
「道、分かってるよな」
「当然だろ。アイツと一緒にすんなっての」
年かさの男は鼻から息を漏らし、荷物を持ち上げた。
だが、入口近くまで来たところで、散らばった梱包材に目が留まる。
袋をいったん下ろし、屈んで拾った。
壁際へ寄せ、端がめくれた敷物も畳み直す。
「……何してる?」
「片づけてるだけだ」
若い男は通路を見回し、何も言わずに近くの木片を拾った。
誰かが、また休みに来るかもしれない。
そのとき、足を取られずに中へ入れて、風の当たらない場所へ荷物を置ければいい。
二人は通り道を空けてから、食料の袋を持ち直した。
時は、夜明けよりも前へ遡る。
小型トラックの停まった通りを見下ろす屋上に、一人の女がいた。
地上から輪郭を捉えられないよう、縁から身を引いて膝をついている。ウルフカットの襟足を風が揺らしたが、女は構わず眼下へ目を向けていた。
雲の切れ間から差す月明かりが、整った鼻梁と薄く結ばれた唇をかすめる。
目を引くほどの美貌だった。だが、その顔からは、何を思って戦いを眺めているのか読み取れなかった。
視線の先で、男が壁へ叩きつけられた。
口から血が噴き、砕けた壁の粉が降る。
女は動かなかった。
赤目の指が肩へ食い込む位置、刃と化した左腕の向き、地面を離れた足先へと、視線だけを移していく。
男は巨体に抱え込まれ、右手で相手の胸を押していた。上体をねじろうとしても、左腕を押さえられて動けない。膝を曲げ、足を置く場所を探す間にも、赤目の腕が締まっていく。
苦痛に歪む顔を見ても、女の呼吸は変わらなかった。
腕の力は強い。
だが、関節の動きを封じられれば、その力を十分には使えない。
負傷しても動く身体が、どんな姿勢で止められるのか。女は攻防の一つ一つを、手順を確かめるように追っていた。
亜麻色の長い髪が、道路を横切った。
連れの少女が銃を構え直す。銃身が伸び、射撃位置を変えて膝をつくと、女の目もそちらへ移った。
射線と、拘束された男の頭の位置を確かめる。
鋭い銃声が響いた。
赤目の頭部が跳ね、腕が緩む。
その一瞬に男は身体をねじって抜け出した。膝を折りかけながらも後退し、咳とともに血を吐く。
駆け寄った少女が、その肘を支えた。
二人は何か話していた。
声までは届かない。ただ、男の呼吸が次第に落ち着き、苦しげだった口元に笑みが戻ったのは分かった。
女は、肘へ添えられた手を見た。
次いで、その手を受け入れている男の顔へ視線を移す。
少女が唇を尖らせ、壁際の赤目を確かめてから、男の身体へ両腕を回した。
男の肩が不自然に固まる。
それまで痛みに耐えていたときとは、違う反応だった。少女から顔を逸らし、空いた右手を持て余したあと、ためらいがちにその肩へ置く。
少女が笑った。
短い抱擁が解かれると、二人は再び赤目へ向き直った。
屋上の女は、その間も瞬きさえ少なかった。
男が前へ出た。
今度は腹へ刃を向けず、踏み込んできた脚を横から断つ。崩れた巨体の側面へ回り込み、下がった頭へ刃を突き刺した。
肩へ足をかけたところで、女はわずかに顎を引いた。
黒い刃が首の付け根へ引き切られる。
頭部が落ち、続いて巨体が舗装を打った。重い音が周囲の壁へ反響する。
女の視線は転がる頭を追わなかった。
男が足を下ろす際の重心の揺れと、痛みを抑えるように短く息を吐いたことを見ていた。
男はすぐにはその場を離れず、倒れた赤目へ何か言った。
顔を伏せたため、表情は読み取れない。
少女がそばへ寄ると、彼はそちらを向いた。右手を両手で包まれ、わずかに口元を緩める。
ほどなく、黒い刃が縮み始めた。
異形の輪郭が失われ、太い指が戻っていく。
女の眼差しが、二人の手元に長く留まった。
赤目の首を断った男は、今、自分より小さな手へ右手を預けている。相手が近づいても身構えず、顔を覗き込まれると、困ったように笑っていた。
屋上を渡る風が強まった。
女は頬へかかった髪を指で払い、通り全体へ視野を広げる。
トラックの陰から、二人の男が出てきた。
少女が振り向くと、二人の足が止まる。短いやり取りのあと、男たちは頭を下げた。
やがて四人が荷物を持ち直し、通りの先へ歩き始める。
薄緑色のフードのすぐ隣を、亜麻色の髪が揺れながらついていった。
女はその背中を追い、静かに立ち上がった。
通信機を取り出す様子はない。傍らに答える者もいなかった。
それでも、報告を読み上げるような明瞭さで告げた。
「ターゲットを捕捉。任務を開始します」
夜風に紛れるほど低く、抑揚のない声だった。
唇が閉じる頃には、薄緑色のフードが角を曲がっていた。
女は屋上の出入口へ向かい、足音を残さず暗がりへ消えた。




