第27話 迫る刃 その1
夕暮れの残光が、廃工場の屋根の向こうにわずかに残っていた。
工場の北側を通る路地には高いコンクリート塀が続き、割れた舗装の隙間から伸びた雑草が、吹き込む風に擦れていた。建物に挟まれた道はすでに薄暗く、少し先で折れ曲がった向こう側までは見通せない。何かが起きても、表通りから様子を窺うことはできそうになかった。
女は塀のそばに立ち、向かいの男が話し終えるのを待っていた。
赤いメッシュの入った黒いウルフカットの襟足が、首筋でかすかに揺れる。丈の短いタンクトップに色落ちしたジーンズというラフな出で立ちだったが、立ち姿に気の緩んだところはない。薄い上着を腕に掛けたまま、男が口にする不満を、表情を変えずに聞いていた。
男は四十前後で、背負ったリュックはほどよく膨らんでいた。腰には鞘に収めた短い刃物があり、靴も服も汚れていたが、何日も食べずに彷徨ってきた人間ではなかった。
少し離れた地区のコミュニティに身を置き、物資の取引や運搬に関わっていることを、女は事前に聞かされていた。その男の始末を依頼したのは、所属先とは別のコミュニティだった。
反社会的勢力の残党が牛耳るその集団は、物資の融通や通行の便宜を口実に、周辺の生存者から取り分を徴収していた。男は彼らとの取引で預かった物資を横流しし、その利益を自分の懐へ収めたらしい。依頼人は被った損失について長く話したが、女が確認したのは、対象を取り違えないための特徴と行動範囲、それから報酬の支払い方法だった。
男の言い分を聞く仕事ではなかった。
女は、特定のコミュニティに属していない。食料や弾薬、寝床を得るため、ときには用心棒の仕事を引き受け、ときには邪魔者を消してほしいという依頼を受けた。基本的には一人で動き、仕事が済めば報酬を受け取って、その場を離れる。
その筋の人間たちには、そういう仕事を請け負う始末屋として知られていた。ただし、名前を聞いたことがある者すべてが、その顔まで知っているわけではない。目の前の男も、食料を見つけたが一人では運び出せない女だとしか思っていないようだった。
「……本当に、一人なのか」
男が尋ねた。
「ほかに頼める相手がいれば、ここで待ってはいません」
女は穏やかに答えた。男の視線が顔から首元へ落ちたが、こちらが黙って見返すと、気づかれていないつもりなのか、工場へ顔を向けた。
「食い物があるってのも、確かなんだろうな」
「休憩室の棚に缶詰が残っています。数までは確認できませんでしたが」
女は半開きになった通用口へ目を向けた。隙間から覗く廊下は外よりも暗く、奥の様子はここからでは分からなかった。
「一人で運べないほどあるのか?」
「棚が倒れていて、近づきにくいんです。無理をして怪我をしても困りますから」
嘘を口にする間も、声の調子は変えなかった。缶詰があることは確かだったし、その先に何がいるかも、女は知っていた。
男は入口を見つめ、それから女へ視線を戻した。
「俺が手伝ったら、半分は貰うぞ」
「構いません」
「……へへ。それだけじゃ、割に合わねえかもしれねえな」
女は一拍置いて男を見た。向こうが何を期待しているのかは分かっていた。先ほどから繰り返されている視線も、距離を詰めようとする足の運びも、特に珍しいものではない。
「まずは、戻ってからお話ししましょう」
肯定も否定もせずに答えると、男は口元を緩めた。
「待ってろよ。お楽しみはその後だ」
「外を見ています。お気をつけて」
男はリュックを通用口の脇へ下ろした。女に荷物を預けたつもりなのだろう。肩を回し、腰の刃物を抜いてから、鉄扉の隙間へ身体を滑り込ませた。
靴底が破片を踏む音を、女は入口へ顔を向けたまま聞いていた。男の姿が暗がりへ消えると、少し遅れて、奥から金属の擦れる音が届いた。
「……なんだよ、これ」
低い声に続き、何かを蹴ったような音がした。女は壁際のリュックを持ち上げ、通用口から一歩離れた。その間にも廊下の奥で呻き声が重なり、男の声が急に高くなった。
「おい……おい!いるじゃねえか!どうなってんだ!?」
駆け戻ろうとする足音に、別の物音が被さった。重い棚が揺れ、刃物が何かへぶつかる。短い罵声のあと、息を詰まらせるような悲鳴が響いたが、女は動かなかった。
入口の暗がりに、男の手が現れた。扉の縁を掴もうと伸ばした指が空を掻き、その向こうに、恐怖で見開かれた目が覗いた。
「ひぃ!た、助け――」
言葉が続く前に、その腕が奥へ引き戻された。肩口へ噛みついた作業着姿の影が見え、男が刃物を振るうより早く、別の影が身体へ覆いかぶさった。床に倒れた男は抵抗するたびに入口へ近づき、また暗がりへ引きずられた。
靴が床を蹴る音が続き、女を呼ぶ声は途中から言葉にならなくなった。男の指が敷居に届いたとき、女はその顔を見た。助けを求める目に、こちらが動かない理由を理解した色が浮かんだ。
「お、おま、え……」
女は答えなかった。男の手が力を失って床へ落ち、しばらくして靴音も途切れた。代わりに残った音を聞きながら、女はリュックを背負い直した。
回収できる物資があれば持ち帰ることも、依頼には含まれていた。中身の確認はここを離れてからでよく、男の所属先へ知らせる必要もなかった。
女が路地の出口へ向き直った、そのときだった。
「恩人様、こっちで合ってる?」
「この先だと思う。アリナさん、少し後ろにいてくれるか?」
「分かった。後ろは見てるから、恩人様も気をつけてね」
角の向こうから届いた声に、女は足を止めた。
薄緑色のフードが路地へ入ってきた。背の高くない、太った男だった。前の開いたパーカーの内側では、黒いノースリーブが腹を覆っている。黒いジャージに運動靴という取り合わせは、こんな場所へ来るにしては、ひどく頼りない格好に見えた。
その少し後ろに、長い亜麻色の髪を揺らした少女が続いた。前髪の下から青い目がこちらを捉え、手にした大ぶりの銃が、歩みに合わせてわずかに動いた。重さに振り回されている様子はなく、足を止めればすぐに構えられる持ち方だった。
女は二人を見た瞬間、背負った荷物の重みを意識した。聞かされていた特徴と、一致していた。
フードの男。左腕を異形の刃へ変え、生存者を助けて歩く男。
今回の依頼人からは、もう一件、仕事を請け負っていた。その対象が、目の前の男だった。
無報酬で人を助けるという噂を、依頼人はひどく不愉快そうに話していた。彼らが物資と引き換えに提供していた護衛を、この男は見返りも求めずに引き受ける。徴収に抵抗した生存者を逃がし、追ってきた者を退け、危険だから諦めろと告げていた場所から食料まで運び出してしまう。
助かるには彼らを頼るしかないという状況が、その男の通った場所では成り立たなくなるのだ。その不満については、女にも理解できるところがあった。
女自身、用心棒を引き受け、その報酬として受け取る食料や弾薬で日々の生活を維持していた。危険な道を通る荷物に同行し、寝床を狙う略奪者を退ける。相手が一人では対処できない危険を引き受けるからこそ、物資を要求できるのだった。
同じことを無報酬で済ませる人間がいれば、依頼する側は当然そちらを頼るだろう。都合よく会えなかったとしても、何も取らずに助けてくれる者がいると知れば、こちらの提示する報酬を惜しむ者は出てくる。命を危険に晒す仕事であっても、条件を聞くより先に、あの男ならただで引き受けたと言われかねなかった。
これまで受けてきた仕事を、実際に奪われたわけではない。それでも、噂が広まり、同じ地域で活動を続けるなら、いずれ無関係ではいられなくなる。
女にとっても、邪魔な存在だった。
人を助けたいという事情まで否定する気はなかったが、そのために自分の稼ぎが減ることを、黙って歓迎する理由もなかった。あの男が何も受け取らずに立ち去れても、女には次の食事も、使った弾の補充も必要だった。
もっとも、それだけで自分から殺しに行くつもりはなかった。仕事を巡る不利益と、相手を始末するために負う危険は、別に考えなければならない。
今回は、その始末に報酬がついた。
依頼人の言い分すべてに同意したわけではなかったが、条件を確かめたうえで、女は仕事を引き受けていた。ただ、目撃された場所が一定せず、行動範囲も広いため、今は先に片づけられる男を追っていた。
探す手間が省けたとはいえ、ここで会うことまでは予定していなかった。
「中に、誰かいるのか?」
和憲が尋ねた。女は入口へ目を向け、背負ったリュックへ意識が向かないよう、自然な間を置いて答えた。
「男性が一人。食料を探しに入りましたが……」




