第28話 迫る刃 その2
最後まで言う前に、和憲が動いた。女の横を抜けて通用口へ近づく間に、左腕の形が変わった。太い腕の輪郭が崩れ、肘から先へ黒い刃が伸びていく。
女の視線が、そこへ止まった。
噂に誇張があるとは考えていた。依頼人が危険を大きく言っている可能性も、逆に報酬を抑えるため過小に伝えている可能性もあった。だが、目の前の変化を見間違いで片づける余地はなかった。
和憲は扉を押し開け、そのまま中へ入った。
「恩人様、奥まで一人で行かないでね。ここから見てるから」
「了解。入口から片づけるよ。アリナさんも、無理はしないでな」
アリナは通用口の横へつき、銃口を暗がりへ向けた。和憲の動きと重ならない位置を選んでいるのを見ながら、女は二人から少し離れ、工場の壁へ背を寄せた。
刃が振るわれる音がして、何かが倒れた。すぐに次の物音が重なったが、男が抵抗していたときのような、追い詰められた慌ただしさはなかった。
入口へ這い出そうとしたゾンビの腕が途中で落ち、その身体が奥へ押し戻された。別の影が和憲の脇へ回りかけた瞬間、アリナが短く声をかける。
「恩人様、右にもう一体、来てるよ!」
和憲が身体の向きを変えた。女の位置からはその先の動きまでは見えなかったが、次に入口を横切った影は、もう立ってはいなかった。
「見えた。ありがとう、アリナさん」
暗がりから返ってきた声に、アリナは銃口を動かしながら小さく頷いた。視線は和憲の背後まで確かめ、彼が向きを変えるたびに、自分も立つ位置をわずかに調整していた。
呻き声が減っていくのを聞きながら、女は腰へ伸ばしかけていた手を下ろした。
今、仕掛ける必要はなかった。銃を持つアリナは工場の中だけを見ているわけではなく、こちらが足を動かすと、その視線が一度だけ戻ってくる。若く見えても、連れの男に守られるだけの相手ではないらしかった。
女は、男の最期を聞いていたときと同じ顔で、戦いが終わるのを待った。
やがて工場が静かになると、アリナが通用口の内側へ声をかけた。
「恩人様、大丈夫?」
返事までに、少し間があった。
「……大丈夫だよ。すぐに戻るから」
入口へ戻ってきた和憲の左腕では、黒い刃が縮み始めていた。指先まで人の形へ戻る過程を女が黙って見ていると、彼は通用口の内側へ目をやった。
「……すまん。間に合わなかった」
「そうですか」
女はわずかに顎を引いた。
アリナが工場の中を覗き、すぐに視線を戻した。その表情が曇ったのを見て、和憲は入口から半歩ずれた。
「アリナさん、無理に見なくていいよ」
アリナは和憲の方へ目を戻すと、空いている手を伸ばし、彼の袖口へそっと触れた。
「……恩人様も、つらかったね」
和憲は少しだけ目を伏せた。何か答えようとして、うまく言葉が見つからなかったらしく、代わりに彼女へ小さく頷いた。
アリナはそれ以上聞かず、触れていた手を離して彼の腕へ目を落とした。
「怪我はしてない?痛いところ、ない?」
「オレは平気だよ。アリナさんが見ててくれたから」
「それなら、よかった……」
返事を聞いても、アリナは腕と服を順に確かめずにはいられなかった。傷らしいものがないと分かると、ようやく息を吐き、和憲を見上げた。その表情に気づいた彼も、安心させるように口元を緩める。
女は二人のやり取りを見てから、背中のリュックを下ろした。
「これを、預かっていました」
壁際へ置く。回収を頼まれた荷物ではあったが、ここで不自然な振る舞いをする方が不利益は大きかった。もう一件の仕事を進める機会が、目の前にある。
和憲はリュックを見たが、手を伸ばさなかった。
「その人と、一緒に?」
「ここで会っただけです。食料が残っていると話したら、中を見てくると」
「名前とかも?」
「伺っていません」
知っている名前を、女は口にしなかった。
和憲は再び入口へ目をやった。何かを言いかけたようにも見えたが、そのまま唇を閉じる。その横で、アリナの目が女へ向いた。
「あなたは、何があるか知ってたの?」
柔らかい声ではなかった。女は落ち着いて、用意してあった答えを返した。
「窓から棚を見たことはあります。ですが、奥までは確認できていませんでした」
アリナはすぐには返事をしなかった。女の顔を見て、それからリュックと通用口へ目を移す。怯えも取り乱しもしない態度が気になっているのだろうが、それだけで何かを断定できるわけではない。
女が聞かれたこと以上を話さずに待っていると、和憲が静かに口を開いた。
「ここにいたら、また別のが来るかもしれん。面倒なことになる前に離れた方がいいかもな」
「恩人様、その前に手を拭こう? 布、持ってるよ」
アリナが鞄から布を取り出した。和憲は自分の手を見下ろし、服へ近づけかけていた右手を止めた。
「おっと!危ない危ない、服で拭くところだった」
その仕草に、アリナの口元が少し緩んだ。
「間に合ってよかった。はい、こっちを使ってね」
「助かるよ。もう、だいぶ汚しちゃったけど……」
「まだ大丈夫だよ。これ以上増やさなければ、あとで拭くのも楽になるから」
差し出された布を、和憲は素直に受け取った。指の間を拭く間、アリナはその手元を見守り、彼が気づかずにいた手首の汚れを指で示した。
「こっちにも、少しついてる」
「ここか?」
「もう少し横。……そう、そこ。よくできました♪」
和憲が言われた場所を拭くと、アリナは満足そうに頷いた。
「ありがとう、アリナさん。自分じゃ見落とすところだった」
「ふふ♪恩人様のことは、わたしがちゃんと見てるからね」
和憲は少し照れたように目を伏せた。
アリナの声色はつい先ほどまで女へ向けていた警戒とは、明らかに違う声だった。アリナは和憲のそばを離れず、腕に残った汚れがないか、もう一度目を配っていた。
女は視線を外し、工場の窓を見た。
一件目の仕事は終わった。二件目の対象については、噂の一部が確かめられただけだった。どこまで動けるのか、何に注意を向けるのか、銃を持つアリナとどう連携するのか。分からないことが多すぎる。
依頼を受けたからといって、最初に目についた機会へ飛びつく必要はなかった。支払われるのは、仕掛けたことに対する報酬ではない。
「では、私も移動します」
女が告げると、和憲は軽く頷いた。
「ん。行くのなら気をつけてな」
「はい。ご忠告、感謝します。そちらもご無事で」
女はリュックのそばに残り、二人が路地の出口へ向かうのを見送った。アリナは歩き出してからも一度こちらを振り返ったが、女はその目を避けなかった。
二人の姿が角へ消えたあと、女はリュックを開けた。依頼人から聞かされていた物資と中身を照らし合わせ、持ち運べる分を自分の荷物へ移す。残りを回収するのは後でもよかった。今は、遠ざかる足音を見失わないことの方が重要だった。
噂の男は、悲鳴を聞いて来たらしい。
誰が中にいるのかも、何を持っているのかも確認せず、入口へ向かった。助けられなかったと分かれば、残された荷物にも執着しなかった。依頼人が疎ましく思っているという、報酬を求めない振る舞いは、少なくとも今見た範囲では事実だった。
善人かどうかを判断する必要はない。危険の中に人がいると知れば近づき、困っていると訴える相手の話を聞く。その傾向が分かれば、接触の仕方は考えられた。
女は立ち上がり、腕に掛けていた上着を荷物へ収めた。
この先の工業区画には、女が使っている廃車の解体工場があった。面倒な対象を人目のない場所へ連れ込み、仕事を終えるために確保してある場所だった。出入口も、見通しの悪い通路も、残された設備も把握している。
そこには食料も置いてある。危険があって取りに行けないから手を貸してほしいと頼めば、今の男が話を聞く可能性は高かった。
ただし、先ほどの相手と同じ誘い方では足りないだろう。こちらへ向けた和憲の視線に、浮ついたものはなかった。それに、アリナがいる。危険を伏せて安全だと思わせるより、承知のうえで助力を求めた方が自然だった。
女は路地を抜けた。
夕闇の通りに、薄緑色のフードがまだ見えた。二人はゆっくり歩き、アリナが和憲の左側に並んで、何かを話していた。
「恩人様、こっちの手も見せてもらっていい?」
「さっき拭いたつもりだったけど、まだついてたか?」
「汚れじゃなくて、怪我。戻ったばかりの方も、ちゃんと見ておきたくて」
「そっか。ほら、どうぞ」
和憲が歩調を緩めて手を開くと、アリナは空いている手でその指先をそっと支えた。手の甲から掌まで確かめ、傷がないことを見届けてから、ようやく息をつく。
「よかった。どこも痛くなさそう」
「心配かけたな」
「心配するよ。恩人様、大事な人だもん」
和憲が言葉に詰まったのが、少し離れた女の位置からも分かった。アリナは顔を上げ、その反応を見て柔らかく笑った。
「だから、急に見えなくなっちゃうと、ちょっと怖いの」
「……ごめん。アリナさんが後ろを見てくれてるって分かって、頼りすぎたな」
「頼ってくれるのは嬉しいよ。わたしも、恩人様の役に立ちたいから」
「十分、助けてもらってるよ」
和憲の返事に、アリナの笑みが深くなった。それでも、受け止めていた手をすぐには離さず、指先へ軽く力を添えた。
「それなら、次もわたしから見えるところにいてね。ちゃんと手伝えるように」
「分かった。二人とも無事に出てこられるようにしよう」
「約束だよ?」
和憲が何か答えた。声までは届かなかったが、アリナが嬉しそうに頷き、離した手で今度は彼の袖を軽くつまんだのが見えた。二人の距離が少し縮まり、和憲も彼女に合わせて歩く速さを落とした。
女は歩調を上げた。
距離が縮まるより先に、アリナが振り返った。銃は下ろしたままだったが、女の顔を見た瞬間、和憲のそばへわずかに寄った。袖をつまんでいた指が離れ、その手が自由になる。
女は数歩の間を残して止まった。
「少し、よろしいですか」
和憲も足を止めた。
「あれ? さっきの……。何か、あったのか?」
女はその顔を見た。先ほどの場所から追ってきた相手を、まず追い払おうとはしなかった。何を話すのか、聞くつもりでこちらを向いている。
今は、それで十分だった。
「実は……お願いしたいことがあります。その前に、名乗っていませんでしたので」
女はアリナへも一度視線を向け、それから和憲を見据えた。
「黒瀬冴と申します。先ほどは、ありがとうございました」




