第29話 迫る刃 その3
「黒瀬冴と申します。先ほどは、ありがとうございました」
名乗った女へ、和憲は少し困ったような顔を向けた。
「お礼を言われるようなことは、できてないよ」
工場にいた男のことを言っているのだと、冴にはすぐに分かった。助けようとした。その点を持ち出せば、感謝くらいは受け取れるはずだった。それでも和憲は、間に合わなかったという結果だけを答えた。
冴はわずかに顎を引いた。
「それでも、あのままでは私まで襲われていたかもしれません」
「怪我がないなら、それでよし、ってことで」
そこで話を終えるつもりなのか、和憲は隣のアリナへ目を向けた。冴は、その前に言葉を継いだ。
「お願いしたいことがあるんです」
アリナの視線が戻ってくる。先ほどから、こちらの手元と顔を交互に見ていた。銃口こそ下がっているが、気を許しているわけではない。和憲へ向ける表情が柔らかいぶん、その違いが分かりやすかった。
「この先に、食料が残っている場所があります。取りに行くのを、手伝っていただけませんか」
和憲はすぐには答えなかった。アリナが、代わりに口を開く。
「また、建物の中?」
「廃車の解体工場です。以前使われていた休憩室に、缶詰や保存食が残っています」
「そこも、ゾンビがいるの?」
「います。ですから、一人では難しいんです」
冴は隠さずに答えた。
工場で男を失った直後に、また安全だと請け合えば不自然になる。危険を承知したうえで、それに対応できる相手を頼る。その形なら、今の状況にも合っていた。
アリナは口を閉じ、冴を見た。冴も、その目を静かに受け止めた。
解体工場は実在した。この先の住宅街を抜けたところに、使われなくなった敷地がある。高い塀の内側には、窓を失った車や外された部品が残され、作業棟には長く動いていない機械が並んでいた。
冴が管理している場所だった。
人目のないところへ連れ出す必要のある相手や、路上で始末するには厄介な相手を、そこへ誘い込んできた。敷地の中には、何度も歩いた通路と、見慣れた暗がりがある。ただし、今度の相手は、これまでの経験だけで測れる人間ではなかった。
冴は和憲の左腕へ、短く目を向けた。すでに、ただの腕に戻っている。先ほど伸びた黒い刃も、ゾンビを倒していた力も、今の姿からは読み取れなかった。袖の下に武器を隠しているという話ではなく、身体そのものが変わったのだ。
報告にあった異常な腕力も、誇張ではないのだろう。一方で、死なないという噂まで事実と判断するには、材料が足りなかった。危険な場所から無傷で戻れば、見ていた人間にはそう映る。傷を負っても倒れないことと、何をしても死なないことは同じではない。
確かめる必要があった。そのためにも、通りの真ん中で仕掛ける気はなかった。
「ここから、どのくらいだ?」
和憲が尋ねた。
「歩いて二十分ほどです。道が塞がっていなければ、もう少し早く着きます」
「恩人様。着く頃には、暗くなりそうだね」
アリナがそばへ寄り、空へ目を向けた。和憲もつられて見上げると、建物の隙間に残っていた明るさは、先ほどより薄くなっていた。
「だな。アリナさん、疲れてないか?」
「わたしは大丈夫だよ。恩人様は? さっき、戦ったばかりだけど……」
「オレもまだ歩けるよ」
「それならよかった。でも、中の様子も分からないんだよね。暗いまま入るのは、少し心配」
アリナは言いながら和憲を見た。手助けしたいと思っていることは分かっている。それでも、先ほどのように彼の姿が暗がりへ消えるところを、何も言わずに見送る気にはなれなかった。
「ん。なら、急いで入るのは、やめておこうか」
和憲が目を合わせて答えると、アリナの眉間からわずかに力が抜けた。
冴は二人の会話を遮らなかった。和憲が決め、アリナが黙って従う関係ではないらしい。和憲は彼女の顔を見ながら話を聞き、アリナも気になることをそのまま伝えている。どちらか一方だけを納得させても、話は進まない。
「今夜、無理に入っていただく必要はありません。近くに休める事務所があります。入口を確かめて、難しければ朝まで待てます」
「そこには、誰かいるの?」
アリナの問いは早かった。
「今は誰も。以前、私が使ったことがあります」
「食料があるのも、そのときに見た?」
「はい。ただ、そのあと敷地へゾンビが入り込んでいます。前と同じように歩けるとは思っていません」
知っていることと、伏せていることを混ぜる。保存食は実際に置いてあり、休憩室も使える事務所もある。その場所を何に使ってきたのかさえ言わなければ、話の表面に大きな綻びは生まれない。
アリナは和憲を見た。彼は少し考えてから、まず隣へ顔を向けた。
「とりあえず、近くまで行ってみるのはどうかな。入るかどうかは、二人で見てから決めよう」
「……うん。それなら。一人で先に入らないで、わたしも一緒に確かめさせてね」
「分かった。アリナさんと一緒に見るよ」
その返答を聞いて、アリナが小さく頷いた。和憲は冴へ向き直り、同じ条件を伝える。
「それでいいか?」
「十分です。ありがとうございます」
冴が進む方向を示すと、和憲は先に歩き出しかけた。ところが、その足が向かったのは反対側で、アリナがすぐに袖を軽く引いた。
「恩人様、こっちだよ。今、冴さんが教えてくれた方」
「……おっと、そっちか」
「ふふ。まだ曲がってないから、大丈夫」
笑いながら隣へ寄ったアリナに、和憲は少しばつの悪そうな顔をした。
「面目ない。頼りにしております、アリナ様」
「お任せください、恩人様♪」
同じようにかしこまって答えてから、アリナは楽しそうに笑った。
「迷いそうになったら、わたしがちゃんと教えてあげるからね!」
「そうしてもらえると助かるよ」
アリナは袖から指を離し、彼の歩調に合わせて隣へ並んだ。冴は二人より少し前へ出て、通りの先を確かめた。
誘いには乗った。それだけで仕事の半分が済んだと考えるつもりはない。先ほどの工場でも、和憲は短い時間で複数のゾンビを倒している。こちらの都合のいい場所へ入れたところで、その力が失われるわけではなかった。
しかも、アリナがいる。
和憲へ話しかけるときの明るさや、袖を引く仕草には親しさが表れている。だが、工場の入口で見せた立ち位置は、偶然で選べるものではなかった。和憲の動きを妨げず、必要な場所へ銃を向けていた。こちらを振り返ったときも、暗がりへの注意を完全には外していなかった。
少なくとも、怖がらせれば動けなくなる連れではない。
「冴さん」
背後から呼ばれ、冴は振り返った。アリナがこちらを見ていた。
「わたしは小之瀬アリナ。まだ、名前を言ってなかったから」
「ご丁寧に。アリナ嬢、とお呼びしても?」
「……嬢?」
アリナが瞬きをした。
「そういう呼び方をするんです。お気に障りましたか」
「ううん、嫌じゃないよ。初めてそんな風に呼ばれたから、ビックリしちゃっただけ」
「では、そう呼ばせていただきます」
冴は続けて和憲へ視線を移した。和憲も、その意味には気づいた。相手が名乗ったのだから、自分も名乗る。それだけで済むやり取りだった。
口を開きかけたものの、自分の名前を相手へ差し出そうとすると、言葉がすぐには出てこなかった。
わざわざ覚えてもらうほどの人間だろうか。
頼まれた場所へついていき、できることをして、それで別れるかもしれない。そんな相手に、自分が何者なのかを知らせることに、妙な気後れがあった。
名を隠して何かをするつもりはない。ただ、自分の名前を覚えてもらうことに、どれほどの価値や意味があるのか分からなかった。
黙っている方が不自然だと分かっていても、和憲は一度開いた口を閉じ、足元へ目を落とした。
アリナが、その横顔を見た。
彼女もまだ、和憲の本名を知らない。施設で出会ってから名前を口にできないままなのは、まだ記憶が本調子ではないからかもしれないと思っていた。
昔のことを話せるからといって、すべてを同じように思い出せるとは限らない。
今の沈黙も、言おうとして、うまく言葉を拾えずにいるように見えた。
「……恩人様、無理しなくていいよ」
アリナは彼の袖へそっと指を添え、こちらを見た和憲へ微笑んだ。
「話せるときに、聞かせてもらえたら嬉しいから」
それから冴に向き直り、声の調子を戻した。
「ちょっと事情があって。無理に聞かないであげてもらえる?」
事情を詳しく説明しようとはしなかった。和憲が話していないことまで、自分が代わりに決めつけて伝えたくはなかった。
冴はその様子を見て、問いを重ねる必要はないと判断した。記憶か、素性か、何か触れられたくない事情があるのだろう。
見間違える余地のない身体の変化はすでに確認している。消すべき相手だという点に、疑いはなかった。
どうせ、これから始末する。その相手が何という名で呼ばれてきたのかは、現在の仕事には必要ない。
「言えない事情があるのでしたら、構いません」
冴が告げると、和憲は顔を上げた。
「……悪い。隠したいってわけじゃないんだけど……」
「無理に伺うつもりはありません」
「ありがとう、黒瀬さん」
冴が軽く会釈して前へ向き直ると、和憲は少し肩の力を抜き、隣へも目を向けた。
「アリナさんも、ありがとう。助かったよ」
「どういたしまして。困ったときは、何時でもわたしに頼ってね!」
アリナは笑って、袖へ添えていた指を離した。
名前を知らないことを、寂しく思わないわけではなかった。いつか本人の口から聞けたら嬉しい。けれど、そのために和憲を困らせたいとは思わなかった。
和憲はその笑顔を見て、返す言葉を少し探したが、結局、小さく口元を緩めるだけにした。




