第30話 迫る刃 その4
黒瀬さん、と名字を呼ぶのは自然にできる。自分の名前を口にするより、ずっと簡単だった。初対面の相手を下の名前で呼ぶことにも、和憲には少しためらいがある。アリナを名前で呼べるのは、本人がそう呼んでいいと認めてくれたからだ。
今では馴染んだその呼び方も、彼女が受け入れてくれなければ、きっとまだ使えずにいただろう。
「恩人様、そこ、少しへこんでるよ。こっちを通ろう?」
「うへ、ホントだ。ありがとう、見てなかったよ」
和憲が足をずらすと、アリナも隣で歩調を合わせた。彼が窪みを越えたのを見届けてから、自分もその脇を通り抜ける。
冴は二人の足音を聞きながら、通りの先へ目を配った。
アリナが和憲を守ろうとしているのは、危険なものに襲われたときだけではないらしい。不審な相手を牽制することにも、言葉に詰まったところへ助け舟を出すことにも迷いがない。その一方で、和憲の代わりにすべてを話してしまうわけでもなかった。
冴は、二人を無理に引き離そうとする案を、ひとまず頭の隅へ退けた。
風が通りを抜けた。
黒い髪の襟足が首筋を撫で、短いタンクトップの裾がかすかに揺れる。ジーンズとの間に覗く腹部へ風が当たったが、冴は特に気にせず、片手で髪を耳へ払った。
和憲の視線が、一度こちらへ動いた。
冴はその動きを見逃さなかった。目が合うよりわずかに早く、和憲は前を向いたが、無関心というわけでもないらしい。
自分の容姿が相手へどう映るかは理解している。その反応を確かめるため、冴は歩調を落とし、和憲と並ぶ位置へ移った。
「引き受けていただけて、助かりました」
「まだ、何もしてないよ」
「来ていただけるだけでも違います」
少し顔を向けると、和憲もこちらを見た。冴は、会話をするには不自然でない程度に距離を詰めた。
「食料を無事に運べましたら、お礼はさせてください」
「礼なんていいよ。自分の分を確保してくれ」
即答に近かった。冴は表情を変えずに続けた。
「物資以外でも、できることはあります」
和憲が瞬きをした。
返事を待っても、すぐには何も言わない。ただ、冴の顔を見て、何かを考えている。その表情には期待も、気まずそうな笑みも浮かんでいなかった。
和憲は本気で、何のことだろうと思っていた。
物資以外の礼。食べ物でも、水でも、何か使える道具でもないということだろうか。そもそも、何かをしてもらうつもりで引き受けたわけではない。急に別のものを示されても見当がつかなかったが、手間をかけてもらうようなことなら、思い浮かばなくもなかった。
「お礼って……肩たたき、とか?」
おずおずと尋ねると、冴が答えるより早く、アリナが顔を上げた。
「肩たたきなら、わたしがしてあげるよ」
声が弾んでいた。和憲の隣へ少し身を寄せ、顔を覗き込む。
「休めるところに着いたら、どうかな? 少しでも楽になってもらえたら、嬉しいな」
「ありがたいんだけど……ごめんな。人に肩を触られるの、少し苦手でさ」
和憲は申し訳なさそうに答えた。
アリナの足取りが、ほんの少し鈍った。上がっていた口元が下がり、伸ばしかけた手がそっと引っ込められる。
「……そっか。苦手なら、無理にはしないから」
笑おうとしてくれたのが分かったからこそ、和憲は慌てた。
「いや、でも、アリナさんがやってくれるなら、話は別だから!」
思ったより勢いのある声が出た。アリナが顔を上げ、少し驚いた目で彼を見る。
「ほんと? わたしに気を遣ってない?」
「アリナさんなら、嫌だって言ったらやめてくれるだろ。だから、その……少し、お願いしてもいいかな」
アリナの表情が、ぱっと明るくなった。すぐに頷きかけ、それでも確かめるように和憲の顔を見た。
「もちろん!最初は、そっとにするね♪」
「そうしてもらえると助かるよ」
「苦手だなって思ったら、遠慮しないで教えて。すぐやめるから」
「ありがとう。じゃあ、あとで頼む」
「うん。任せてね♡」
嬉しそうに答えたアリナは、肩には触れず、和憲の腕へそっと手を添えた。和憲もその手を避けることはなく、少し赤くなった顔で笑った。
冴は、一連のやり取りを黙って見ていた。
肩たたき。自分の言葉からそこへ辿り着くまでに、和憲が何を考えたのか分からなかった。
意味を理解したうえで、アリナの前だからとぼけたのだろうか。それにしては、随分と自然だった。きょとんとした顔にも、答えを探していた間にも、こちらの反応を窺う様子がなかった。肩を触られるのは苦手だと口にしてから、アリナの落胆を見て慌てたところまで、取り繕っているようには見えない。
演技なのか。それとも、本当に何も分かっていなかったのか。
冴は和憲の横顔を見た。本人は少し赤くなった頬を指で掻き、何とか話が落ち着いたことに安堵しているようだった。冴がどんな礼を考えていたのか、改めて聞こうとさえしない。
こちらの言葉を受けた会話のはずが、いつの間にか二人の約束になっていた。
アリナが冴を見た。
「そういうことだから、お礼は気にしなくて大丈夫だよ」
にこりと笑う。どこまで察しているのか、その笑顔だけでは決めきれなかった。ただ、和憲との距離を譲る気がないことは分かった。
「……分かりました」
冴が短く答えた直後、和憲がこちらへ顔を向けた。
「それより、黒瀬さん。上着を羽織った方がいいんじゃないか?」
冴は一拍遅れて、自分の服へ目を落とした。肩と腕が出ており、タンクトップの裾は短く、腹も隠れていない。
「この格好が、何か?」
「夜は冷えるだろ。そのままだと寒くないかと思って」
和憲は通りに並んだ建物へ目を向けた。
「必要なら、上着も探すか。どこかに残ってるかもしれないし」
冴は、その顔を見つめた。
食料の回収を頼んだ相手だった。まだ目的地へ着いてもいない。その相手が、今度は自分の着るものまで探そうとしている。
どこまで本気で言っているのだろう。
親切な言葉だけなら、いくらでも口にできる。けれど、今ここで必要だと答えれば、この男は実際に道を変えそうだった。
「お気遣いは結構です。私は寒さに強いので、このままで平気です」
「オレも暑がりだし、気持ちは分かるけどね」
和憲は自分の開いたパーカーへ目を落とした。
「でも、寒くなったら言ってくれ。無理して体を壊したら、その方が困るだろうし」
冴は返事をする前に彼の服装を見た。半袖のパーカーに黒いノースリーブという、確かに暖かさを求めた格好ではない。本人は、同じように薄着を好む相手として、理解を示したつもりらしかった。
「……承知しました」
冴が答えると、アリナが和憲の袖へ軽く触れた。
「恩人様も、寒くなったら教えてね」
「オレも?」
「うん。ほかの人のことを気にかけて、自分のことは後回しにしそうだから」
責める調子ではなく、案じるように言って顔を覗き込む。和憲はその目を見て、小さく笑った。
「そのときは言うよ。ありがとう」
「約束ね」
「アリナさんもな。寒かったら、上着でもカイロでも、使えそうなものを先に探そう」
「うん。……嬉しい。ありがとう、恩人様」
アリナは袖をつまんだまま、少しだけ彼へ身を寄せた。
「じゃあ、お互いに我慢しないって約束だね♪」
「ああ、約束だ」
頷く和憲を見て、アリナは満足そうに笑った。指を離したあとも、二人の間隔はそれまでよりわずかに狭いままだった。
冴は再び前へ出た。
相手の欲を確かめるつもりだった。得られたのは、肩を触られることが苦手らしいという話と、薄着を心配する言葉だけだった。
まったく手応えがないわけではない。和憲は女性へ無関心ではなく、アリナの表情にはよく反応する。その一方で、含みを持たせた言葉が、こちらの意図したとおりに伝わるとは限らない。
冴は相手への見積もりを修正した。通じない働きかけを繰り返す必要はない。目的地へ向かっている以上、今はそれでよかった。
背後で、和憲の足音がわずかに変わった。
冴が振り返ると、和憲は崩れた塀の向こうへ目を向けていた。
「何かいますか」
「少し離れたところにいる。こっちには来てない」
その返事に、アリナはすぐ進行方向を確かめた。
「この道、そのまま進んでも大丈夫そう?」
「今のところは大丈夫だと思う。近づいてきたら、すぐ知らせるよ」
「了解。わたしも周りを見てるね」
冴は口を挟まなかった。
気配。音を聞き取ったのか、それ以外の何かなのか、自分には塀の向こうで何が動いているのか分からない。アリナは問い返さず、和憲の言葉を受け入れていた。それまでにも、同じように周囲を確かめてきたのだろう。
冴は、和憲が顔を向けた場所を覚えた。報告にないことがいくつもある。異形の腕だけに注意を向けていては、ほかを見落とす。
通りを曲がると、住宅の窓に残っていた光が消えた。道端には、乗り捨てられた車が斜めに停まっている。冴はその手前で歩みを緩め、二人がついてきていることを確かめた。
「先ほどの工場ですが……」
冴が切り出すと、和憲が顔を上げた。
「悲鳴を聞いて、来られたんですか」
「声が聞こえたからな。近くにゾンビもいたし」
「知らない相手でも、ああして中へ入るんですね」
和憲は、少しだけ冴を見た。
「まあ、助けられるかもしれないなら」
冴はその答えを聞いてから、前へ向き直った。
行かない人間を、いくらでも知っていた。助けを求める声から離れる者も、その声を利用する者もいる。冴自身が、つい先ほど、男の手が届かないところに立っていた。
和憲の返答には、こちらを責める響きはなかった。冴が工場の外で何をしていたか、知っているわけではないのだろう。だからこそ、ただ自分の行動を説明しているように聞こえた。
「危険に見合わないと思うことは?」
「そりゃ勿論、危なくない方がいいよ」
和憲は少し考え、それ以上うまい言い方が見つからなかったのか、肩を動かした。
「でも、だからって放っておいて、あとから気になるのも面倒くさいし」
アリナが和憲を見た。その表情には、聞き慣れた言い方を受け止めるような柔らかさがあった。
冴は小さく頷いた。
「……そうですか」
善意なのか、本人なりの都合なのか。どちらでもよかった。冴が知りたいのは、その考えによって、どこまで動くかだった。
危険があるから来ない相手ではなく、見返りを先に求める相手でもない。ただし、アリナの意見には耳を傾ける。
歩きながら拾った反応を、一つずつ整理する。自分の容姿を使うことも、困ったふりをすることも、冴には特別な行為ではなかった。必要なら選び、通じなければ変える。それで仕事を続けてきた。
この男にも、適したやり方があるはずだった。




