5.本条拓海の憂鬱(1)
時間は少し遡る——
10月29日。正午前。
新宿エリアに隣接するオフィス街。
中杜駅から徒歩5分のオフィスビル5Fにある「株式会社ソースリー」。WEBサービスや基幹システムの開発を手掛ける社員数50名程度の中堅IT企業である。
本条拓海はここでエンジニアとして働いている。
◇◇◇
「おっと、もうこんな時間か……」
俺はパソコンの画面から視線を上げ、正面の壁に掛かった時計を見た。
もう昼を過ぎている。
周囲を見ると、同僚たちの姿はほとんどない。食事に出たのだろう。
午後の打ち合わせで使う資料のとりまとめに、思いがけず集中していたらしい。
打ち合わせは客先で午後2時からの約束。
移動に1時間は見ておいた方がいいな。
となると、もう出ないと飯を食う時間がなくなる。
駅前のそばでも食って行くか。
作業を切り上げノートパソコンの蓋を閉じ、無造作にカバンに突っ込む。
「じゃ、行ってきます」
誰かに言ったわけではない。食べる前につい呟いてしまう「いただきます」と同じ。椅子の背もたれに掛けてあったスーツの上着を掴む。
「あれ? 本条、午後から外出?」
キャビネットの陰から声がした。
石見さん、いたのか。
「はい。七夕学院高校のWEBリニューアルの打ち合わせです」
石見さんの代わりに行くんですけどね……。
なんで覚えていないのか。
忙しいっていうから代わったのに、全然忙しそうに見えない。呑気に雑誌のページをめくりながら弁当食ってモグモグしてる姿に、少しイラッとした。
あ、目が泳いだ。
思い出したな。
「おー……あれか……七夕学院ね……。
あそこの校長、ちょっとクセがあるけどさ、うまくやっといてよ」
「はい」
つい大きな溜息が漏れそうになる。危ない、危ない。
もう老害でしょ、この人。まだ三十路だけど。
こんな人でも愛妻弁当作ってもらえるんだな。
……不条理を感じる。
モヤモヤした気持ちのまま廊下に出て、エレベーターホールへ向かう。
ちょうど上がってきたエレベーターから、同じチームの後輩、森川祐介が降りてきた。
「あ、拓海さん。これからお出掛けですか?」
「うん、武蔵天川まで行ってくるよ」
「あれ? 俺、武蔵天川に住んでいるんですよ!」
「知ってる。七夕学院高校で打ち合わせ」
「あー、リニューアルの件! なるほど!
がんばってきてください! 応援してまっす」
そう言って、祐介はガッツポーズをする。
いつも少年のように無邪気だね〜。キラキラしてる。
そのコミュ力というか、人の懐に容易く潜り込んでくるところ? 凄いと思う。俺、パーソナルスペースは広めに取りたいから、グイグイくるタイプは本来苦手。でも許しちゃっている。恐ろしい子。
「ところで、外に飯食いに行ったんじゃないの?」
「なははー、美咲ちゃんをご飯に誘ってみたんですよぉ、入口で偶然出会ったフリして。
でも……フラレちゃいました〜!
なので、ひとり寂しくコンビニおにぎりを食べることにしましたぁ」
トホホ〜、と戯けながら、手に持ったコンビニの袋を見せる祐介。
原田さんかー。チャレンジしたのかー。
で、ダメだったのかー。
祐介の〝美咲ちゃん推し〟は有名だ。しょっちゅう悩み相談に乗っているしね。
「飲みに行きましょう」から「聞いて下さいよ」と来て「どうしたら付き合えますかね」で延々と管を巻くのがお決まりのパターン。しかもなぜか俺のオゴリで。……解せん。
わかるけどね。原田さん、可愛いもんね。
祐介が「天使系女子」って言うのも納得。正直、ウチの会社の若い奴ら、みんなメロメロなんじゃないだろうか。妻帯者の石見さんも、たまに気持ち悪い目で見ているよな……。
ただ——
俺は彼女の作ったような笑顔がちょっと怖い。
「嫌われない程度にがんばれよ」
「いや〜、嫌われてはいないと思うんですけどねえ〜。さっきも『先に約束があったの。ゴメンね』って、エンジェルスマイルくれたし」
うん、それは上手に断られただけじゃないかな。
「おっと、エレベーター来たわ。じゃ、行ってくる」
「あ、お疲れっす」
俺は苦笑しか返すことができず、エレベーターに乗り込んだ。
中杜駅から武蔵天川駅まで、電車で乗り換えなしの15分程度。
武蔵天川駅のホームに降り立つ。
なんか駅が騒がしい。
いや、騒がしいのは駅の外か。
救急車? 消防車?
無数のサイレンが、周囲に鳴り響いている。
ビル壁に反響してか、その数も方向も定まらない。
何かあったよね、これ。
事故? 事件?
不穏な気配に落ち着かない気持ちのまま、改札を出る。
駅前のロータリーに出ると、一帯に漂う殺伐とした空気に包まれた。
視界に入る人々の動きが明らかに平時とは異なる。慌てた様子で走る者。不安そうに周囲を伺う者。スマホで必死に何かを調べている人々。
知っているまちの知らない表情に戸惑う。
そばを通り過ぎる人々の声が、煩雑に耳に飛び込んでくる。
「——交通事故が——」
「——あれ、ヤバいって——」
「——車がメチャクチャ——」
「——人が何人も——」
「——呼び掛けても……反応が——」
交通事故か。
若い女性が泣きながら連れの男性に支えられ、こちらに歩いてくる。
事故現場を目撃してしまったんだろうか。
……そんなに酷い事故だったのか?
よく見ると、この先の大通りの方に向かって大勢の人間が走っていく。
サイレンの音もそちらから——
あー、今から俺が向かう方角だ……。
あの通りを渡らなきゃいけないのに……最悪だ。
現場を見るのも、野次馬に加わるのも、イヤだなあ。胸の内を誰かに弄られているような不快な感覚が襲ってくる。ジェットコースターのあのフワッとくる感じに似ている。
そういや学生時代のサークルの仲間に、事故とか喧嘩とか、トラブルの現場が大好きな奴がいたっけ。目を爛々と輝かせて「急げ!」と走り出すんだよな。ホント理解不能。もし今あいつがここにいたら、間違いなく事故現場に全力疾走してるだろうね。俺とは根本的に合わない奴だったわ。
少し歩くと、歩道を埋め尽くさんばかりの野次馬の背中が見えてくる。無数の緊急車両。慌ただしく動き回る警官や救急隊員。人壁の向こう側から、緊迫感のようなものが圧を持って押し寄せてくるのを感じる。
あぁ……やっぱりあそこの交差点か。
迂回しよう。
現場と思わしき交差点から、2ブロックほど離れた場所にある歩道橋を渡ることにする。歩道橋の上から事故の様子が視界に入ってしまうかもと心配したが、こんな場所にまで群がる野次馬が、幸いにも俺の視界を遮ってくれた。
ただ、通行の邪魔ではある。
「うわっ、歩道まで乗り上げてんじゃん」
「あんなとこまで転がる? 逆さまになってんじゃん。死んでるよアレ」
「交差点の真ん中の車も原型留めてねえな」
「すげー、カオスじゃん」
「ねえ、人、大丈夫なの?」
「あちこちで救命活動してた感じだよね……ヤバ……」
聞きたくない、聞きたくない。
みんな写真撮ってどうすんだよ。SNSに上げんのか?
そりゃあ俺だって興味や好奇心はあるよ。でもこれは違う。
面倒事には臨場したくはない。その一部に組み込まれたくない。
うん、俺ってビビリなんだよ。
常に安全な場所から第三者の立ち位置で観察していたいんだ。
決して舞台には上がらず、舞台袖はおろか、観客席の前列にすら座らない。
危険には近づかない。渦中など以ての外。炎上はまっぴら御免だ。
褒められるよりは、怒られたくない。嫌われたくない。
それが俺の処世術。
はは、そりゃ彼女なんてできないわ。
『あなたは選ばれました』
突然、耳元で声がした。やたら明瞭な声だ。ただ、男なのか女なのかわからない。
「え?」
振り返る。
歩道橋の上の野次馬たちは誰もが事故現場を見つめていて、こちらを見ている者など一人もいない。
気のせいか?
『あなたは選ばれました』
気のせいではなかった。また聴こえた。
耳元ではない。頭の中に直接響くような声だった。
なんだこれ?
選ばれた?
何に?
心臓が早鐘を打つ。
っていうか、誰?
どこからしゃべってるの?
360度見回しても誰もこちらを見ていない。
『芽生えた〝幹〟の成長を見届けなさい』
ちょっと待って。
ヤバい。ヤバいことが起こっている。
何て言った?
みき? 芽生えた?
『あなたに〝目〟を与えます。
その〝目〟で見逃すことがないように』
目?
……おい、ちょっと。もしもーし。
声がしなくなった。
「どういうこと!?」
俺の声に、近くにいた野次馬の何人かがこちらを振り向いた。
「あ、すみません」
慌てて歩道橋の端まで移動して、手すりに寄り掛かり息を吐く。
再度周囲を見渡す。こちらを見ている者はいない。
今のは何だ?
幻聴?
それにしちゃ鮮明に聴こえ過ぎだろう。
何が芽生えたって?
みき? ……みき……幹か?
〝目〟を与えるって言ってたよな。
いやいやいやいや。おかしいって。
ふと、感じる視線。
近くの道路照明の上から、一羽のカラスがこちらをジッと見つめていた。




