21.記憶のない居候と、当てのない訪問者
「記憶が、ない……?」
L字型ソファの長辺には瑠華と真詩緒ちゃん。短辺には私。
角を挟んで3人で向かい合って座っている。
瑠華から聞く話の中で、聞き捨てならないワードが飛び出てきた。
〝記憶喪失〟
えーと……。待って。何?
何から考えればいいのか、わからなくなった。
落ち着くのよ、夏子。
真詩緒ちゃんは記憶喪失……。
でも、そんなことって本当にあるの?
「真詩緒ちゃん?」
「はい」
「今の話って、本当なの?」
真詩緒ちゃんはコクリと頷いた。
彼女自身、相当に混乱しているわよね。
「……名前以外、何もわかりません……」
「……そう」
嘘をつくような子には見えないのよねえ。
……まったく瑠華ったら、ちょっと目を離した隙にやってくれるわ。
まさか、もう一週間もこんな状態だったとは。
「ちょっと、なっちゃん! 真詩緒のこと、追い出したりしないよね? ずっとウチに居ていいって言ったんだから、アタシに恥かかせないでよね!?」
「瑠華、落ち着いて。まだ何も言ってないでしょ?」
「だって、なっちゃん!」
「あの……、叔母様」
オ・バ・サ・マ?
初めて言われたー。
「夏子よ。そう呼んで」
「あ、じゃあ、あの、夏子さん?」
「はい、何かしら?」
「ご迷惑なら私はいつでも出ていきますので——」
「真詩緒は黙ってて!」
「瑠華、ちょっと落ち着きなさい」
こんなの、本当ならすぐに警察に保護してもらうべき。
それが市民の義務だし、身元不明者を匿うなんて、トラブルの元でしかない。
それに、ご家族の心配を考えるなら早ければ早いほどいい。
でも……実際、もう一週間経っている。
はぁ〜、頭痛がしてきた。
「真詩緒ちゃん。ネットの情報なんかはもう調べているのかしら? 例えばあなたを探している人がいるとか。どうなの?」
「はい……毎日、瑠華のスマホを借りて調べています。私の名前で検索しています。ニュース記事、SNS、掲示板、警察の公開情報、思いつく限りは全部……。でも何も見つかりません」
何も? 本当に?
……これは想定外だわ。
きちんとした子だから、家族や親戚、友だちなんかが探していると思ったのに……。
うーん。かなりの〝ワケあり〟よね。
「警察には相談しなきゃいけないわね」
「なっちゃん! 警察なんて……絶対にダメ!」
「ダメじゃないでしょ。むしろ当たり前のことよ。これは真詩緒ちゃんのためだし、瑠華のためでもあるの」
瑠華の気持ちはわかるけども……ここは大人の判断が必要な場面。
最優先は、瑠華を守ることなんだから。
「夏子さん、実は私、昨日警察に行ってきたんです……」
「え?」
「は? ……真詩緒? どういうこと?」
「ごめんね、瑠華。やっぱりこのままじゃいけないと思って、一人で警察に相談に行ったの」
「じゃあ、昨日の朝の散歩って……」
「うん……ごめんなさい」
「うそ……どうして!? 真詩緒!?」
あーもー、グダグダじゃない。
パンッ——
と手を叩く。
「はい! そこまで!」
「「……ッ!」」
「瑠華。真詩緒ちゃんの判断は正しいわ」
「そういうことじゃない! アタシに相談もしないなんて裏切りだって言ってんの!」
「それじゃあ、もし相談してたら、真詩緒ちゃんが警察に行くことをあなたは認めた?」
「そ、それは……」
認めないわよねえ……。
「それが分かっているから、真詩緒ちゃんは一人で行ったの。そうでしょ?」
真詩緒ちゃんが、口を固く結んだままコクリと頷く。
膝の上に乗せた両手の拳を、強く握り締めている。
「でも、ひどいよ! アタシがどれだけ……」
そこまで言って言葉を詰まらせる瑠華。その表情は苦痛に歪んでいる。
うん、辛いよね。でも、真詩緒ちゃんだって辛い決断だったと思う。
目に涙をいっぱい浮かべる真詩緒ちゃん。でも——
言い訳もせず、目を逸らしもない。真っ直ぐ瑠華の目を見ている。
なんて強い子なのかしら。
「これは真詩緒ちゃんには必要なことでしょ?」
「う……ぐ……」
ああ、瑠華までそんなに目を潤ませちゃって。
困るのよねえ。私、瑠華の泣き顔に弱いんだから……。
「真詩緒のバカ! 勝手にすれば!? もう知らない!」
「あ、瑠華!」
瑠華はヒステリー気味に叫んで立ち上がると、呼び止めようとした真詩緒ちゃんを無視して、部屋を飛び出した。
階段を駆け上がる音に続き、バタンとドアを閉める音が響く。
そうやってすぐ自分の部屋に籠るんだから。子供ねえ。
「ああなったらしばらくは出てこないわ。放っておきましょ。——ところで、真詩緒ちゃん?」
「は、はい」
「警察はあなたを保護はしてくれなかったの?」
そう、彼女は警察から戻ってきた。
この場合、保護してくれるのが普通だと思うのだけど。
「そ、それが……」
ピンポーーーン
インターホンの呼び音が鳴る。
「誰か来たわね。こんなときに……」
インターホンの親機のモニターを覗き込む。
そこに映っていたのは、中年男性と若い女性。
ひとまず「はい」と応答。
『すみませーん、警察の者ですが』
「警察ですか?」
『はい、武蔵天川署の生活安全課の黒須といいます。隣りは西野です』
カメラの前に警察手帳を提示している。
本物みたいね。
「どのようなご要件でしょう?」
『少しお伺いしたいことがございまして——』
玄関の外で会うことにする。
「失礼ですが、奥様でいらっしゃいますか?」
「いえ、ここは妹夫婦の家で、私は近所に住んでいる姉の下村夏子です。
お恥ずかしい話ですが、妹夫婦が家を空けがちなものですから——
こうやって頻繁に訪れては、家の管理と姪の世話をしています」
私の言葉に、二人とも表情に変化がない。
ということは、こちらの家庭事情はご存知ということね……。
説明する面倒が省けて助かるけども……何が目的?
「姪というと……高梨瑠華さん、ですね?」
「はい。あの……瑠華が何か?」
「実はですね、瑠華さんが、女性を保護してこちらで預かっている、という話を伺いましてね」
ああ、真詩緒ちゃんが昨日相談に行った件ね。
「真詩緒ちゃんのことですね。ちょうど、昨日そちらに伺ったという話を、彼女から聞いていたところですよ」
「「——ッ!」」
二人の刑事は、顔を見合わせていた。
「あ、あの……今、『真詩緒ちゃん』って……。綿貫真詩緒さんですか?」
西野という女性刑事が、顔を引き攣らせながら聞いてきた。
顔色がだいぶ悪い。大丈夫かしら。
「ええ、そうです。
と言いますか、昨日、そちらで彼女の相談に乗ったのは、刑事さんたちではないのですか?」
「昨日……彼女が、警察に……来た?」
「く、黒須さん、それって……まさか……」
黒須刑事が、何かを確認するように独り言を呟いている。
西野刑事は、もはや顔面蒼白だ。
「下村さん、改めて確認しますが……
綿貫真詩緒さんは、今現在、こちらにいらっしゃるのですか?」
「いますよ?」
送り返したのはそっちでしょうに。
西野刑事がゴクリと唾を飲む。
その様子に、意地悪そうな笑みを浮かべた黒須刑事が、
「彼女、足はちゃんと付いてます?」
と聞いてきた。
「はあ?」
そのとき、背後の玄関扉が開いた。
振り向くと、真詩緒ちゃんが立っていた。
「やっぱり昨日の刑事さんでしたか。声が聞こえたので……。黒須さんと西野さんですよね?」
「ヒィッ!」
西野刑事が悲鳴を上げてその場に座り込む。
黒須刑事は真詩緒ちゃんを指さして、呆然としていた——
「お見苦しい姿を晒してしまい、大変申し訳ありません……」
ソファに腰かけ、温かいお茶で一息ついた西野刑事が、生気の抜けた顔で謝罪する。
腰を抜かして立てなくなった彼女を放置もできないしね。
仕方ないから、二人を家に上げて休んでもらうことにしたのだ。
瑠華もこの騒ぎを聞いているわよね。
人見知りの上に警察不信だから、顔は出さないと思うけど、後で怒られるなあ。
「大丈夫ですか?」
「はい、だいぶ落ち着きました。ありがとうございます」
私の問い掛けに、しっかりと答える西野刑事。うん、大丈夫そう。
「本当に申し訳ない。西野もいつもは頼りになる優秀な部下なんですがね。どうにもコレが苦手なようでして……」
黒須刑事は腕を胸前でブラブラと揺らし、幽霊のポーズをする。
真詩緒ちゃんの幽霊疑惑は、彼女が自ら足を見せ、会話をすることで無事に解消した。
でも、真詩緒ちゃんが少しでも動くと、ビクッと身をすくめる西野刑事。
いや、どんだけ怖かったのよ。
なので真詩緒ちゃんは、部屋の隅で人形になり切ろうとしていた。
憂い気な顔で壁際に佇み、じっとこちらを見つめている美しい少女——
今の方がよっぽど幽霊みたいよ。
「——で。真詩緒ちゃんが幽霊ってどういうことですか?」
私の問いに、黒須刑事と西野刑事は目を合わせる。返答に困っている。
すると、か細い声が部屋の隅から飛んでくる。
「あの……。私も気になります。どうして私が幽霊なのでしょう?」
黒須刑事はため息をつき、真詩緒ちゃんを見た。
「その前に、ひとつ聞いていいかい?
キミが昨日の朝に武蔵天川署を訪ね、私と西野と話をしたというのは、間違いない?」
「はい。受付の人に案内されて、生活安全課という場所で刑事さんたちと会いました」
「……そう、か。そのとき、私たちはどんな様子だった?」
「どうって……。最初は黒須さんがやってきて、水を飲んでいた西野さんに声を掛けて……」
質問の意図がわからないわ。真詩緒ちゃんが嘘をついているとでも?
真詩緒ちゃんも混乱しているじゃない。
「あ。……それ、何となく覚えてる……」
西野刑事が小さく呟く。
「そう……帰ろうとしていたのに……黒須さんに呼ばれ……なんかセクハラ発言を受け……」
「おいっ!……って、なんか、俺も覚えているな……」
この人たち、しっかり寝てるのかしら……。
「そのとき、確かに誰かが俺たちの前に座っていた……」
と、視線をゆっくりと真詩緒ちゃんの方に向ける黒須刑事。
「……きみ……か……?」
真詩緒ちゃんは、黙ったまま黒須刑事を見つめ返している。
西野刑事はしきりに頭を振り、目頭を揉んでいる。
「……あの、黒須さん。私も、映像が一瞬過ぎる感じが……。でも、私の記憶なのに、他人の記憶みたい……これって……」
「ああ。どうやら、問題は我々の方にありそうだな。参ったなこりゃ」
刑事さんたちだけで盛り上がっているけれど……。
「私たちにも、わかるように説明してもらえます?」
なんか、だんだんイライラしてきたわ!




