20.夏子の憂鬱
私の名前は、下村夏子。43歳。
夫に早くに先立たれ、現在は独身。子供はいない。
中央線梅窪駅から徒歩5分の古い商店街の一角。
そこに私がオーナー兼職人を務めるパン屋『ベーカリーNatsu』がある。
店名の由来は、私の名前が夏子で、夫の名前が夏樹だったから。
偶然なんだけどね。出会ったときは「同じだね!」なんて盛り上がったっけ。
だから、店の名前は夫とふたりで決めていた。オープン前に死んじゃったけど。
店のモットーは『まちのみんなを笑顔にするパン』。
これは、前オーナーが私に店を譲ってくれる際、そんなパンを作ってくれと私に託した言葉。
夫を失い、一度は開業を——夢を諦めた私の背中を押してくれた言葉。
最初は苦労の連続だった。経営を軌道に乗せるのに3年は掛かったかな。
気がつけば13年。今では、近所の主婦から学校帰りの学生まで、広い客層に支えられる、人気のパン屋になったと自負している。
そんな私の最近の悩み——
それは、姪の瑠華。
瑠華の母、高梨雪乃は私の実の妹。
武蔵天川市に実家のある私たち姉妹だったが、共に夫が実家の近くに居を構えてくれた。お互いの家までは徒歩で行ける距離。瑠華が生まれると、私は暇があれば瑠華に会うために高梨の家を訪れた。
可愛い。本当に可愛いのよ。
子供のいない私にとって、瑠華は娘も同然。
実際、心の中では娘だと思っている。本人には言っていない。
瑠華は私のことを「なっちゃん」と呼び、とてもよく懐いてくれた。
そう呼ばせたのは私だけどね。
妹の雪乃には、少々問題があった。
若い頃から、付き合う相手への執着と依存が強かった。それは結婚しても変わらず、瑠華が生まれた後は、悪化した。
ありもしない夫の浮気を疑い、事あるごとに喚き散らす。雪乃の夫、将弘さんからはその件で度々相談を受けていた。将弘さんも相当参っていたと思う。とてもまともな子育ては望めない状況だった。
私からの提案で、瑠華をウチで預かることが多くなった。
店も人を雇うことができるようになり、時間に多少の余裕ができていたしね。
幼稚園のお迎えに私が行き、ウチで夕食の世話して、家に送り届ける。これがひとつのパターンだ。ウチに泊まる日も結構あったかな。
しかし、独り身でパン屋を営む傍らで、姪とはいえ他人の子供の面倒を見るのは、想像以上の激務だった。泣きたくなる日だってたくさんあった。
でも、救いもあった。
新作のパンが完成したときは、私は真っ先に瑠華に食べさせる。
新作パンのお客様第1号は瑠華。それが私のルール。
私の可愛いお客様第1号は、毎回パンを口いっぱいに頬張りながら「美味しいね!」と満面の笑みを浮かべる。
ああもう、本当に可愛い!
すべての苦労が報われる至福の瞬間よ。
でも、それから数年後、瑠華が15歳のとき。
将弘さんが家出した。
雪乃と将弘さんの関係は、とうの昔に破綻していた。
夫婦の愛憎から置いてけぼりを食っていた瑠華は、いつも親の顔色を伺っていた。
浮気を疑う雪乃にいい加減辟易していた将弘さんは、今度こそ本当に恋人を作り、家に帰ってこなくなっちゃった。あそこまでよく耐えたな、と思わなくもない。
その後、憔悴した雪乃は、あろうことか相談相手とかいう男と一緒に姿を消した。何の相談をしていたというのか。これには私も開いた口が塞がらなかった。
何より許せないのは、二人が瑠華を放棄したことだ。
瑠華は、有名高校に合格して両親を喜ばせようと、受験勉強に打ち込んでいたというのに。家族のためにできることを精一杯頑張っていたのに。
雪乃が姿を消したのは、瑠華の合格通知が届いた日だった——
その夜、合否結果が気になっていた私は、高梨の家を訪れた。
そこには、真っ暗な部屋で、合格通知書をビリビリに破いて座り込む瑠華がいた——
ふぅ……。あのバカ夫婦め。
思い出したら、怒りが蘇ってきたじゃない。
両親に見捨てられた瑠華は、誰もいない家でひとり、引き篭もる日が増えた。
将弘さんは、毎月、家の口座に生活費と家の維持費を振り込んでいる。
瑠華が経済的に困窮することはないけども、それで許されると思うなよ?
私は瑠華の生活回りに腐心した。
あの子、ろくに食事も取らないんだもの。店で焼いたパンをよく家に届けに行った。もちろんそれだけじゃ栄養が偏るから、ウチに来て食事するように言ったわ。
でも、瑠華の方から来ることはなかった。
高校にもちゃんと通うように世話を焼いた。
最初は渋々通学していたけど、1年生の夏休みが終わった2学期から、不登校になってしまった。以来、1年以上学校には行っていない。
そして、瑠華はだんだんと私を敬遠しだした。
わかってる。わかってるわよ!
私がお節介を焼き過ぎて、煩くなっちゃってるって。
何回「ウザい」と言われたか分からない。
でも、心配なんだもの。
瑠華には幸せになってもらいたいのよ。
そして、つい先日——
「親でもないクセに母親ヅラすんな!」
そう瑠華に怒鳴られてしまった。
鈍器で殴られたような衝撃だった。
何よりそのショックの大きさに驚いた。
思わず泣いちゃった。
泣いてから「失敗した」と思った。
瑠華に涙を見せてしまった。
瑠華を動揺させてしまった。
本心から出た言葉じゃないとわかっているのに——
以来、瑠華は、まともに目も合わせてくれなくなっちゃった……。
瑠華への悩みは、昔からずっとあるけども、ギクシャクしていたところへのこの一撃。
これが最近の悩みというわけ。
はぁ……、一生の不覚よ……。
ということで今、高梨の家に向かって歩いている。
瑠華と顔を合わせるのが気まずくって、気がつけば一週間も足が遠のいていた。
店の方は、今日はスタッフのみんなに任せてある。
今日は朝から瑠華の世話を焼くと決めたのだ。どうせあの子は家でゴロゴロしているのだ。嫌がったって居着いてやる。
出て行こうとしたら……ウソ泣きでもしてやろうかしら?
いやいや、ダメよ、それは悪手だわ。性格が悪すぎる。第一私のメンタルが持たない。確実に自己嫌悪に陥るわ。
まあ、瑠華が居なくったって、やることはたくさんあるしね。
部屋も散らかってるだろうから、掃除や洗濯もしなきゃだし。
夕食の準備だってしておかなくちゃね。
そのために、食材を買い込んできたんだから。
要らないとか言うくせに、作っておくとちゃんと食べるんだもんね。
あは、可愛い奴め。
両手にぶら下げたスーパーの買い物袋を握る手に、力を入れる。
いざ、家の前まで来ると、やっぱり緊張するわね……。
合鍵で玄関の鍵を開け、そっと扉を開けて中を覗き込む。
いるかしら?
あら? 見たことのない靴……
玄関には、黒のローファーがきれいに揃えて置かれていた。
瑠華の高校は、ブラウンのローファーだ。1年以上シューズボックスに入ったままだけど。
新しく買ったのかしら?
リビングに入ると、見たことのない少女が、ソファでお茶を啜っていた。
ドアが開いたことに気づいたのか、こちらに振り向いた。
あらま、綺麗な子だわ。瑠華と同じくらいの歳だとしたら、凄く大人っぽい。
キリッとした眉毛に、凛とした透き通るような瞳。何よりもその佇まい。ソファに浅く腰掛けピンと伸ばした背中。髪型は前下がりのショートボブだけど、真っ黒で艶のある髪のせいか、古風で清廉な印象を与える。部屋着姿だというのに、ね。
背景に日本庭園が見えてきそうだわ。
彼女と目が合う。あちらもビックリしている。
彼女の魅力は、その目ね。綺麗なラインで弧を描く二重の瞼。大きな瞳に吸い込まれそう。
って、見惚れている場合ではないわ。
「えーと、どなた?」
私の問いに彼女も慌てて立ち上がるが、どうしていいかわからない様子だ。
背も高い。165cm以上はあるわね。立ち姿もなんて綺麗……。
「あ……」
「ゴホン……。瑠華のお友だちかしら?」
よく見ると、彼女が着ているのは瑠華の服。お泊りしたのかしら?
……お泊り? 瑠華にそんなお友だちが?
「あ、はい……あの……」
「あっ、私は瑠華の叔母よ。この近くに住んでいるの」
「あ! お話は伺っています!
失礼いたしました。
私、瑠華——瑠華さんの友人で、綿貫真詩緒と言います」
真詩緒と名乗った少女は、姿勢を正すと丁寧なお辞儀をする。
びっくりした。
こんなしっかりした挨拶できる子、初めて会ったわ。
それに、なんて綺麗な所作なのかしら。
「これはこれは、ご丁寧に……。
叔母の下村夏子と申します……」
バカな返答をしてしまった……。
「学校の……お友だち?」
まさかね、もう1年以上学校には行っていないもんね。
「違います。実は、つい先日友人になったばかりで……」
ドタドタ——ッ
二階からすごい音がする。
それから、ダンダンダンッ、と階段をものすごい早さで何かが降りてくる。
ゴンッ、と鈍い音と「痛っ!」という悲鳴。
…………。
足を引きずるような音がしたところで、ドアが勢いよく開く。
頭ボサボサのパジャマ姿の瑠華が、膝を抑えながら涙目で飛び込んできた。
「ああっ、なっちゃん!! いつ来たの!?」
「今よ、いま」
「来るならちゃんと連絡しろって!!」
「いつも連絡したって無視じゃないの」
「うっ……ああああ、もおおおおぉぉぉっ!」
頭を抱えて悶える瑠華。
そして、グシャグシャと頭を掻きむしった後、叫んだ。
「待って! 説明するから!」
「……うん。頼む……」




