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20/24

20.夏子の憂鬱

 私の名前は、下村(しもむら)夏子(なつこ)。43歳。

 夫に早くに先立たれ、現在は独身。子供はいない。


 中央線梅窪(うめくぼ)駅から徒歩5分の古い商店街の一角。

 そこに私がオーナー兼職人を務めるパン屋『ベーカリーNatsu』がある。


 店名の由来は、私の名前が夏子で、夫の名前が夏樹(なつき)だったから。

 偶然なんだけどね。出会ったときは「同じだね!」なんて盛り上がったっけ。

 だから、店の名前は夫とふたりで決めていた。オープン前に死んじゃったけど。


 店のモットーは『まちのみんなを笑顔にするパン』。


 これは、前オーナーが私に店を譲ってくれる際、そんなパンを作ってくれと私に託した言葉。

 夫を失い、一度は開業を——夢を諦めた私の背中を押してくれた言葉。


 最初は苦労の連続だった。経営を軌道に乗せるのに3年は掛かったかな。

 気がつけば13年。今では、近所の主婦から学校帰りの学生まで、広い客層に支えられる、人気のパン屋になったと自負している。



 そんな私の最近の悩み——


 それは、姪の瑠華(るか)



 瑠華の母、高梨(たかなし)雪乃(ゆきの)は私の実の妹。

 武蔵天川市に実家のある私たち姉妹だったが、共に夫が実家の近くに居を構えてくれた。お互いの家までは徒歩で行ける距離。瑠華が生まれると、私は暇があれば瑠華に会うために高梨の家を訪れた。


 可愛い。本当に可愛いのよ。


 子供のいない私にとって、瑠華は娘も同然。

 実際、心の中では娘だと思っている。本人には言っていない。


 瑠華は私のことを「なっちゃん」と呼び、とてもよく懐いてくれた。

 そう呼ばせたのは私だけどね。


 妹の雪乃には、少々問題があった。

 若い頃から、付き合う相手への執着と依存が強かった。それは結婚しても変わらず、瑠華が生まれた後は、悪化した。

 ありもしない夫の浮気を疑い、事あるごとに喚き散らす。雪乃の夫、将弘(まさひろ)さんからはその件で度々相談を受けていた。将弘さんも相当参っていたと思う。とてもまともな子育ては望めない状況だった。


 私からの提案で、瑠華をウチで預かることが多くなった。

 店も人を雇うことができるようになり、時間に多少の余裕ができていたしね。

 幼稚園のお迎えに私が行き、ウチで夕食の世話して、家に送り届ける。これがひとつのパターンだ。ウチに泊まる日も結構あったかな。


 しかし、独り身でパン屋を営む傍らで、姪とはいえ他人の子供の面倒を見るのは、想像以上の激務だった。泣きたくなる日だってたくさんあった。


 でも、救いもあった。


 新作のパンが完成したときは、私は真っ先に瑠華に食べさせる。

 新作パンのお客様第1号は瑠華。それが私のルール。


 私の可愛いお客様第1号は、毎回パンを口いっぱいに頬張りながら「美味しいね!」と満面の笑みを浮かべる。


 ああもう、本当に可愛い!


 すべての苦労が報われる至福の瞬間よ。



 でも、それから数年後、瑠華が15歳のとき。

 将弘さんが家出した。


 雪乃と将弘さんの関係は、とうの昔に破綻していた。

 夫婦の愛憎から置いてけぼり(・・・・・・)を食っていた瑠華は、いつも親の顔色を伺っていた。


 浮気を疑う雪乃にいい加減辟易していた将弘さんは、今度こそ本当に(・・・)恋人を作り、家に帰ってこなくなっちゃった。あそこまでよく耐えたな、と思わなくもない。


 その後、憔悴した雪乃は、あろうことか相談相手(・・・・)とかいう男と一緒に姿を消した。何の相談をしていたというのか。これには私も開いた口が塞がらなかった。


 何より許せないのは、二人が瑠華を放棄(・・)したことだ。


 瑠華は、有名高校に合格して両親を喜ばせようと、受験勉強に打ち込んでいたというのに。家族のためにできることを精一杯頑張っていたのに。


 雪乃が姿を消したのは、瑠華の合格通知が届いた日だった——



 その夜、合否結果が気になっていた私は、高梨の家を訪れた。

 そこには、真っ暗な部屋で、合格通知書をビリビリに破いて座り込む瑠華がいた——



 ふぅ……。あのバカ夫婦め。

 思い出したら、怒りが蘇ってきたじゃない。



 両親に見捨てられた(・・・・・・)瑠華は、誰もいない家でひとり、引き篭もる日が増えた。

 将弘さんは、毎月、家の口座に生活費と家の維持費を振り込んでいる。

 瑠華が経済的に困窮することはないけども、それで許されると思うなよ?


 私は瑠華の生活回りに腐心した。

 あの子、ろくに食事も取らないんだもの。店で焼いたパンをよく家に届けに行った。もちろんそれだけじゃ栄養が偏るから、ウチに来て食事するように言ったわ。

 でも、瑠華の方から来ることはなかった。


 高校にもちゃんと通うように世話を焼いた。

 最初は渋々通学していたけど、1年生の夏休みが終わった2学期から、不登校になってしまった。以来、1年以上学校には行っていない。


 そして、瑠華はだんだんと私を敬遠しだした。


 わかってる。わかってるわよ!

 私がお節介を焼き過ぎて、煩くなっちゃってるって。

 何回「ウザい」と言われたか分からない。

 でも、心配なんだもの。

 瑠華には幸せになってもらいたいのよ。


 そして、つい先日——



「親でもないクセに母親ヅラすんな!」



 そう瑠華に怒鳴られてしまった。


 鈍器で殴られたような衝撃だった。

 何よりそのショックの(・・・・・)大きさ(・・・)に驚いた。

 思わず泣いちゃった。

 泣いてから「失敗した」と思った。

 瑠華に涙を見せてしまった。

 瑠華を動揺させてしまった。

 本心から出た言葉じゃないとわかっているのに——


 以来、瑠華は、まともに目も合わせてくれなくなっちゃった……。



 瑠華への悩みは、昔からずっとあるけども、ギクシャクしていたところへのこの一撃。

 これが最近の悩みというわけ。


 はぁ……、一生の不覚よ……。





 ということで今、高梨の家に向かって歩いている。

 瑠華と顔を合わせるのが気まずくって、気がつけば一週間も足が遠のいていた。


 店の方は、今日はスタッフのみんなに任せてある。

 今日は朝から瑠華の世話を焼くと決めたのだ。どうせあの子は家でゴロゴロしているのだ。嫌がったって居着いてやる。


 出て行こうとしたら……ウソ泣きでもしてやろうかしら?

 いやいや、ダメよ、それは悪手だわ。性格が悪すぎる。第一私のメンタルが持たない。確実に自己嫌悪に陥るわ。


 まあ、瑠華が居なくったって、やることはたくさんあるしね。

 部屋も散らかってるだろうから、掃除や洗濯もしなきゃだし。

 夕食の準備だってしておかなくちゃね。

 そのために、食材を買い込んできたんだから。


 要らないとか言うくせに、作っておくとちゃんと食べるんだもんね。

 あは、可愛い奴め。


 両手にぶら下げたスーパーの買い物袋を握る手に、力を入れる。





 いざ、家の前まで来ると、やっぱり緊張するわね……。


 合鍵で玄関の鍵を開け、そっと扉を開けて中を覗き込む。


 いるかしら?


 あら? 見たことのない靴……


 玄関には、黒のローファーがきれいに揃えて置かれていた。

 瑠華の高校は、ブラウンのローファーだ。1年以上シューズボックスに入ったままだけど。


 新しく買ったのかしら?



 リビングに入ると、見たことのない少女が、ソファでお茶を啜っていた。

 ドアが開いたことに気づいたのか、こちらに振り向いた。


 あらま、綺麗な子だわ。瑠華と同じくらいの歳だとしたら、凄く大人っぽい。

 キリッとした眉毛に、凛とした透き通るような瞳。何よりもその佇まい。ソファに浅く腰掛けピンと伸ばした背中。髪型は前下がりのショートボブだけど、真っ黒で艶のある髪のせいか、古風で清廉な印象を与える。部屋着姿だというのに、ね。

 背景に日本庭園が見えてきそうだわ。


 彼女と目が合う。あちらもビックリしている。

 彼女の魅力は、その目ね。綺麗なラインで弧を描く二重の瞼。大きな瞳に吸い込まれそう。

 って、見惚れている場合ではないわ。


「えーと、どなた?」


 私の問いに彼女も慌てて立ち上がるが、どうしていいかわからない様子だ。

 背も高い。165cm以上はあるわね。立ち姿もなんて綺麗……。


「あ……」

「ゴホン……。瑠華のお友だちかしら?」


 よく見ると、彼女が着ているのは瑠華の服。お泊りしたのかしら?

 ……お泊り? 瑠華にそんなお友だちが?


「あ、はい……あの……」

「あっ、私は瑠華の叔母よ。この近くに住んでいるの」

「あ! お話は伺っています!

 失礼いたしました。

 私、瑠華——瑠華さんの友人で、綿貫(わたぬき)真詩緒(ましお)と言います」


 真詩緒と名乗った少女は、姿勢を正すと丁寧なお辞儀をする。


 びっくりした。

 こんなしっかりした挨拶できる子、初めて会ったわ。

 それに、なんて綺麗な所作なのかしら。


「これはこれは、ご丁寧に……。

 叔母の下村(しもむら)夏子(なつこ)と申します……」


 バカな返答をしてしまった……。


「学校の……お友だち?」


 まさかね、もう1年以上学校には行っていないもんね。


「違います。実は、つい先日友人になったばかりで……」


 ドタドタ——ッ


 二階からすごい音がする。

 それから、ダンダンダンッ、と階段をものすごい早さで何かが降りてくる。

 ゴンッ、と鈍い音と「痛っ!」という悲鳴。


 …………。


 足を引きずるような音がしたところで、ドアが勢いよく開く。

 頭ボサボサのパジャマ姿の瑠華が、膝を抑えながら涙目で飛び込んできた。


「ああっ、なっちゃん!! いつ来たの!?」

「今よ、いま」

「来るならちゃんと連絡しろって!!」

「いつも連絡したって無視じゃないの」

「うっ……ああああ、もおおおおぉぉぉっ!」


 頭を抱えて悶える瑠華。

 そして、グシャグシャと頭を掻きむしった後、叫んだ。


「待って! 説明するから!」


「……うん。頼む……」

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