18.決意の相談
夜明けの気配がまだ残る武蔵天川市の市街地。人通りもまだ疎らな時間帯。
綿貫真詩緒は武蔵天川警察署の前に立ち、正面入口を見つめていた。
「ふぅっ」
大きく息を吐く。
警察に来たことは瑠華には内緒。
夜ふかしな彼女は、いつもお昼近くまで寝ている。「散歩に出かけてきます」という書き置きを残してきた。でも、警察を頼れば、おそらくもう瑠華の家には戻れない。ネットで調べた限り、私みたいなのは保護されて施設に入れられるのが普通らしい。
だから今は、唯一の私の持ち物——ブレザーの制服を着てきた。
もう瑠華には会えないかもしれない。
それでも面と向かってのお別れはできなかった。猛反対されるのが容易に想像できたから。
瑠華にはすごく感謝している。
記憶喪失なんて奇特な状態な私に、すごく良くしてくれた。
彼女が置かれた状況を考えれば、純粋な善意ではなかったかもしれない。心の空洞を埋める存在が必要で、都合よく私が現れただけなのかもしれない。
それでも、私にとっては彼女は恩人。だからこそ、これ以上迷惑を掛けることはできない。
おそらく瑠華は「迷惑じゃない!」って怒るよね。でも、いつかは私の存在が問題になる。瑠華の社会的立場を危うくする可能性が高い。
それに、警察行きを決意した理由は他にもある。
あの件——瑠華の言動が突然おかしくなった件が、頭から離れない。
その後すぐに瑠華は元に戻ったけど、それがかえって怖い。
私が何度確認しても、瑠華は自分の言動そのものを覚えていなかった。そして、私が再び〝交通事故〟の話題を出すと——
また動画編集でそこだけカットしたかのように、話題が無かったことにされてしまったのだ。
そのことに瑠華は何も違和感を感じていない様子だった。
挙句に「真詩緒、大丈夫? もしかしてからかってんの?」と笑い出す始末。
あのときは、怖くて叫び出しそうになった。
ひとつ分かったのは〝交通事故〟が引き金だということ。
それからは、瑠華の前で〝交通事故〟の話はしていない。
私の周囲で〝常識では測れない何か〟が起きている。
私の記憶喪失も、〝交通事故〟を引き金とする異常現象も、きっと無関係じゃない。
私のせいで瑠華に何かあったら……私は自分を許せなくなる。
「記憶喪失?」
「はい」
私が相談内容をざっくり説明すると、受付の女性職員さんが聞き返してくる。
「誰が?」
「私です」
黙り込む職員さん。私の目をじっと見てくる。
冷やかしか何かと思われているのかな……。
「えーと、綿貫さんでしたね。ここじゃなんですから、奥で話を聞きましょうか」
動揺気味の職員さんに連れられて、「生活安全課」という札が掛かった部屋に通される。応接セットのソファに座るように促されると、職員さんは「ちょっと待ってね。担当の人を呼んでくるから」と言ってどこかに行ってしまった。
しばらく待つと、40代中頃くらいの草臥れた感じの男性が現れた。
私服だ。刑事さんかな?
刑事と思しき男性は、眠そうな顔で無精ひげを撫でながら、のんびりと喋り掛けてきた。
「どうも、こんにちは。えーと、綿貫……真詩緒さん? 私は生活安全課の黒須と言います」
「あ、はい、よろしくお願いします」
「誰かあ、お茶入れてくれるぅ? あ、聖ちゃん、君もこっちきて一緒に話聞いて」
ウォータサーバーの前で水を飲んでいた若い女性が、こちらを向いた。
彼女は自分を指さし「私ですか?」という仕草をする。
「そそ、アナタ」
黒須さんの気の抜けた返事にため息をつきながら、彼女はこちらに歩いてきた。
「黒須さん、私、もう上がる予定だったんですけど?
それから、下の名前で呼ばないで下さいって、いつも言っていますよね? セクハラで訴えますよ?」
「まあまあ、そんな目を吊り上げないでさ。可愛いお顔が台無しよ。徹夜明けで機嫌が悪いのは分かるけど、そんなんじゃお嫁さんのもらい手がなくなるよ?」
「くっ、この安定のセクハラ芸。どこからツッコめばいいんだ、このジジィ……」
奥歯をギリッと噛む音が、聴こえた気がした。
「聖ちゃん、クチから呪いが漏れちゃってる。お客さんがビックリしてるから」
「……ちっ、どうも生活安全課の西野です」
「舌打ち」
二人のこの慣れた感じ。きっといつもこうなんだろうな。ふふふ。
西野さんは、20代後半のスラッとした、ショートカットの少しキツめの眼鏡美人。私服なのでやっぱり刑事さん?
レンズの奥の切れ長の鋭い目が、黒須さんを睨んでいる。ちょっと怖い……。でも黒須さんは、私が未成年の女子だから気を使って彼女を呼んだのかも。
「綿貫さんのその制服、どこの学校なのかな? ……って、それも分からないんだっけ? いやあ、これは参ったなあ」
黒須さんの言葉に、西野さんが眉根を寄せる。
「制服着てるのに、学校が分からない? どういうことですか?」
「彼女、名前以外の記憶が無いらしい」
「は? 記憶が? 名前以外のって……どこまで?」
「だから全部みたいよ? まあ、それをこれから聞くわけだけど」
西野さんが訝しげな目で私を見る。
ごめんなさい……。
「一応、今向こうで氏名の照会をかけているから。はい、座って」
黒須さんの言葉を聞き、不承不承ながらもソファに腰を下ろす西野さん。
「綿貫さんも、ご両親とか探しているかもしれないしね。そういうのがあればすぐに分かるから」
どうやら別の部屋で私の名前から色々と調べてくれているらしい。
「じゃ、さっそく話を聞こうかな。聖ちゃん、メモよろしく」
「……ちっ」
それから私は、記憶にある最初の日——瑠華と出会った日から、覚えていることを順番に話していく。たまに黒須さんから確認の質問があり、それらを西野さんが調書に書き留めている。
「それじゃ、今朝までその高梨さんの家にいたということかな? えーと、瑠華ちゃんだっけか。彼女のご両親には会っていないんだね?」
「はい。あの……たまたまご両親が長期で不在中なので、ちょうどいいからと私を泊めてくれました。ただ、そのままでは迷惑を掛けると思い、こちらに相談に来ました」
嘘はついていないけど、内容は少し誤魔化しておく。
なるべく瑠華に不要な注目が集まらないようにしないと……。
「あの、綿貫さん、ちょっといいかしら?」
「はい」
「一時的な記憶障害の場合、強い心的ストレスなどが要因になることがあるのだけど……。瑠華さんと出会ったとき、あなたの体にはおかしな点はなかったかしら? その、着衣の乱れとか……」
西野さんの質問の意味はわかる。
男性などに乱暴をされたショックが原因では、ということだよね。
「それは無いと思います」
「そう」
無表情に見える西野さんだけど、目には安堵の色が伺えた。
「ふーむ。ところで、照会結果遅くない? 聖ちゃん、ちょっと見てきくれる?」
「なんで私が……って、分かりましたよ……」
席を立った西野さんの後ろ姿を見ていると、黒須さんが私に微笑む。
「彼女、見た目はキツいし、言動はちょっとアレけど、優しい人だから安心してね」
「はい」
そんな感じ。私もクスッと笑みを返す。
そこへ、離れた場所から西野さんの声が——
「——はあ? どういうことですか? 調べていない?」
どうしたんだろう?
「なんだ? ちょっと待っててね」
慌てた様子で黒須さんも席を立つ。
「——聞いてないってどういうことですか? 黒須さんから指示があったんじゃないんですか?」
「そう言われましても……私たちは何も言われていませんので」
「おいおい、声が大きいぞ。どうした? ああ、君、さっきの身元照会はどうなった?」
「え? 何のことです?」
「……おい、つまらない冗談はよしてくれよ。こっちは徹夜明けでお疲れなんだよ」
「そう言われましても……」
何か揉めている。
声が遠くてよく聞こえないけど、私のことで揉めているのはわかった。
ぞくり——
この嫌な感じ……。
「なんだ、調べた履歴があるじゃないか。これ、君が今調べてたんだろ?」
「え? あれ? 本当だ……。『綿貫真詩緒』? いつの間に……」
「——とにかく、君、その席を退いて。あとは俺が調べるから」
「黒須さん、いいんですか?」
「今急いでいるからさ、聖ちゃんも手伝って」
「分かりました」
何? 何があったの?
「——黒須さん? ちょっと、どうしました? 黒須さん?」
「ん? なんだい聖ちゃん?」
「なんだい?じゃないですよ」
「あれ? 今、何をしてたんだっけ?」
「……ジジィ、本当にボケてんのか? 寝るなら家帰って寝て下さい!」
「聖ちゃん? さすがにオジサン泣いちゃうよ?」
「いいから席を代わって下さい! 私が調べます!」
会話はよく聞き取れない。
まだ揉めている?
「……あれ? 聖ちゃん? どうした?」
「黒須さん……私たち、徹夜明けで何してたんでしたっけ?」
「うーん、ちょうど俺もそれを考えていたところ。やばいね、ワーカホリックかもね」
「…………」
もうどれだけ待っているだろう?
私はひとり取り残されたまま、ソファに座っている。
少し前まで聞こえていた黒須さんたちの声も、今は聞こえなくなった。
「あら? あなたは?」
背後からの女性の声に振り向くと、制服を来た女性警官が不思議そうに私を見ていた。
「あの、刑事さんと相談中にここで待つように言われたのですが、ずっと戻って来なくて……」
「誰と相談中だったのかしら?」
「黒須さんと西野さんです」
「黒須? 西野? あれ? 二人ならついさっき、帰ってしまったけど……」
え?
「そんなはずは……」
動揺する私に、女性警官も不安な顔になる。
「どうしたの?」
また別の方向から声がして、女性が一人やってくる。
入口の受付で対応してくれた女性職員さんだ。
「こちらの子が、黒須さんと西野さんとお話し中だったらしいんですが……」
「え? さっき『お疲れ様ー』って署を出ていったわよ?」
「ですよねえ……」
「あ、あの、今朝はどうもありがとうございました」
「……え? 私? あなたと会ったかしら?」
え?
私を覚えていない?
……これって……瑠華に起こったアレと同じ?
直前の言動や記憶が無かったことになっている……。
「……ねえ、あなた、大丈夫?」
「あ、すみません、私の勘違いでした! もうお話は済んでいたのを、私が勘違いしてたみたいです。あはは、それじゃあ帰ります」
「そ、そう? それならいいんだけど……本当に大丈夫?」
「はい、大丈夫です。では、失礼いたします」
一礼して、逃げるように部屋を出た。
心臓が早鐘のように激しく打っている。
今日は〝交通事故〟の話題は出していない。
なのになぜ?
……私?
もしかして、私が原因……?
でもどうして……
私はいったい、何?
わからない……
誰か……教えて!
瑠華、助けて……。
警察署を出て、駅に向かう道を歩く。
すべての人や物が、色を失っているように見える。
まるで、私だけ別の世界に取り残された〝仲間外れ〟みたい——




