16.古い友人
「もしもし、姉ちゃん? 俺、拓海だけど——」
『あら、珍しい。どうした? 彼女でもできた?』
「……いきなり、それかよ……。切るよ?」
『痛いところ突かれてスネない。で、何?』
ぐぬぅ……。
電話の相手は、俺の7つ年上の姉の香菜。
クロのことを思い出した俺だが、記憶があやふやな部分もある。
特に、クロとの別れについては、まったく思い出せない。
最後ってどうなったんだっけ? 自然といなくなったのかな?
そこで、当時のことを覚えていないか聞いてみることにしたのだが……
『あんたまさか、まだ童貞とか言わないわよね?』
「なっ……うっさいわ!違うわ!」
ホントに違うわ。
『あれか、桃ちゃんだっけ?』
「うそ、なんで知って……」
『姉を舐めるな』
「くっ……もうとっくに別れた……」
『知ってる』
「な、なな?」
なぜ、元カノの名前を? そして別れたことも!
そもそも付き合ってたことすら言っていないぞ。
なのに、なぜ……。
俺は一生、姉ちゃんの呪縛から逃れることはできないのか?
少年期の悪夢が蘇る。
俺は、姉ちゃんのことを密かに〝魔王〟と呼んでいた。
それはもう、理不尽の塊だった。
俺はまさに姉ちゃんの〝私物〟だった。姉ちゃんの命令は絶対だ。反抗は許されない。もし逆らえば、容赦ないお仕置きが待っている。
パンツの中に生きたトンボを突っ込まれる。
油性マジックで体に落書きされる。
そんなことは日常茶飯事だ。
それを見てケラケラと笑う姉ちゃんの姿は、まさに理不尽大魔王。
俺の恐怖の象徴だった。
いくら俺が男でも、小さな子どもの7歳差はデカい。力も体の大きさも姉ちゃんに敵うわけがなかった。
はっきり言ってトラウマになっていると思う。未だに無意識に体が竦むのだから。
そんな姉ちゃんだが、信じられないことに中学、高校、大学と、学業優秀、容姿端麗の学校一のモテ女だったというのだ。みんな目が腐ってる。あの悪の権化の姿は、俺だけにしか見えていなかったらしい。
都内の大学進学で家から出ていってくれて、本当に良かったと思う。小学校6年生からの俺の生活は、劇的に改善された。
俺は絶対に女性を見た目だけじゃ信じないのだ。
おっと、だいぶ横道に逸れた。
『拓海?』
「あー、ごめん。あのさ、昔のことで聞きたいことがあって」
『昔のこと?』
「そう。俺が幼稚園くらいのときにさ、家の隣でカラスと遊んでいたの覚えてるかな」
『覚えているわよ。クロでしょ?』
「うおっ、すげー。即答。名前も覚えてんの?」
『あんたのことなら何でも覚えているわよ。ふふん』
なんだろう、背筋に冷たいものが……。
『クロかあ、懐かしい。あんたいつも一人で遊んでたもんねえ。最初はカラスに喋りかけるあんた見て、ビックリしたわよ。あれ、〝天才カラス〟っていうの? テレビ局とかに連絡したら、お金になったかもねー。もったいないことしたわ』
俺の輝く思い出を、悪魔の手で汚されなくて良かった。
「思い出せないんだけど、俺、いつまでクロと遊んでたんだろうって。小学校入るときには、もういなかった気がするんだよね」
『あー……それね……。やっぱり覚えてなかったかー。そうかー』
「どうゆうこと?」
『うーん、もう今なら大丈夫か。あんたも大人になったしね』
「あの、意味わかんないんだけど」
『クロは死んじゃったの。拓海の目の前でね』
死んだ? 俺の目の前で?
『近所の人が目撃してたんだけどね。道路に飛び出しそうだった拓海を、守ったんだよ。少なくともそう見えたって言ってた。あんたを道路から押し返して、かわりにトラックに跳ねられたの』
え……。
『私が学校から帰ってきたらさ、拓海が狂ったように泣きじゃくってて。もう大変だった。でもその後、気を失うように寝ちゃってね。次の日起きたらケロッとしててさ。多分ショックが大きくて忘れちゃったんだろうね』
……あ。
『それからはあんたはクロのことは一切口にしなかったのよ。最初から存在しなかったみたいに。父さんも母さんも私も、このまま思い出さないなら、それでいいと判断したわけ。今まで黙っていてごめんなさい』
思い出した……。
そうだ、俺を助けてくれたんだ。
『だから、クロは拓海の命の恩人。私が覚えてて当たり前でしょ』
クロ……。
なんでこんな大切なこと、忘れちゃってたんだ。
「姉ちゃん、教えてくれてサンキュ……」
『うん。で、なんでまた急にクロのことなんかを?』
「ああ、いや、最近、ウチの周りに変わったカラスが居着いてさ……。不意にクロのことを思い出したんだよね」
『ぷふぅ、何それ? あんたよっぽどカラスに好かれてるんだねー』
「悔しいけど、認めるよ。そうみたい」
ホントにね。
『そうそう、あんたたまにはウチに顔見せなさいよ。近くに住んでいるんだから』
「え? そんなに行ってなかったっけ?」
できることなら、行きたくないんです。こき使われるだけだから。
『ウチにはもう1年近く来てないんじゃない? 倫太郎があんたに会いたがってる』
「うそ、そんなに経った? 倫太郎、今、何年生だっけ?」
『2年生』
「うわ、早っ。そっか、前会ったときは1年生だったもんなあ。元気してる?」
『手が付けられないクソガキになってきた。だから面倒見てもらいたいわ』
「……そんなこと言われてわざわざ行く奴いると思う?」
『いいから来なさい』
1年前、すでにクソガキっちゃクソガキだった件……。
でも、倫太郎って俺に懐いてくれてたよなあ。
「高志くんは? 今いるの?」
『あの人はまだ帰ってきていないわ。そういや、拓海と飲みたいみたいなこと言ってた』
「おー、そうだね。そっちに行ったときにでも、って伝えておいて」
『わかった』
旦那の高志くんはすっげーイイ人。
なんで姉ちゃんみたいなのと結婚したのか謎。
理由を聞いても『全部好き!』って、無いわ……。
「そんじゃ、そろそろ切るよ」
『うん。——拓海、大丈夫?』
「え? ああ……うん。じゃ、おやすみ」
本当は大丈夫じゃない。
クロに会いたい。
会って謝りたい。忘れててゴメン。
たくさんたくさん、お礼を言いたい。
小さかった俺の寂しさを紛らわせてくれて、ありがとう。
楽しい時間を、ありがとう。
そして、命を助けてくれて、ありがとう。
スマホをベッドの上に放り投げ、ベランダの窓を開ける。
クロはいない。そりゃそうだ、俺がここから追い出したんだから。
次はいつ来てくれるだろうか?
明日の朝は来てくれるかな。
っていうか、名前は〝クロ〟でいいんだろうか。
もしかしてそれがイヤで逃げ出したとかはないよね?
……俺はもう、〝クロ〟という名前しか考えられないし。
生まれ変わりでもそうじゃなくても、直感で〝クロ〟だと思ってしまったのだ。
ベランダに置かれた主のいなくなったクッションを、そっと手に取る。
「……クロ……」
それから俺は、泣いてしまった。
涙が次から次へと零れて、止まらない。
嗚咽が漏れそうになって、クッションに顔を埋める。
翼の生えた、古い友人の姿を思い出しながら。




