第8話 毒師の女王、弟子入りを申し込む
レイナが帰った翌朝。
俺は厨房でいつものように仕込みをしていた。
いつもと違うのは——カインさんの様子だった。
皮剥きの手が止まっていた。深刻な顔で何かを考え込んでいる。
「カインさん、どうしました?」
「……総帥が、何も言わずに帰った」
「ああ、はい」
「それどころか、ウィンクした」
「……はい」
「俺、ちょっと信じられない」
カインさんはル・オニオンの皮を握りしめたまま俯いた。
「……あの方は十年、弟子入り志願者を、一人も受け入れたことがない」
「そうなんですか」
「若い貴族の子息、大陸中の研究者、Aランク冒険者——全員断ってきた」
「へぇ」
「むしろ『邪魔』と判断した者は、その場で殺している」
「……え?」
「『毒師ギルドの格が落ちる』と言って、三人ほど殺した」
「……」
俺は言葉を失った。
昨日、ウィンクして帰っていった、あの綺麗な人。
……あの人、三人、殺してるの?
いや、大陸最高位の毒師って、そういうものなのか?
わからん、この世界、怖い。
「でも、田中殿」
「はい」
「あの方が、昨日、料理の後に——少しだけ笑った」
「笑いましたっけ?」
「唇の端が、一ミリだけ上がった」
「一ミリ」
「俺には、わかる」
カインさんが真剣な顔で頷いた。
暗殺者の観察眼、怖い。そしてそこまで観察されてるの、レイナさん。
「あの方が昨日のスープを、忘れるとは思えない」
「そうですか」
「田中殿、備えた方がいい」
「何にですか」
「わからない」
「わからないのかよ」
「だが、何かが起こる」
……。
カインさんの予言は当たった。その日の夕方。
宿屋の裏口のドアが、コン、と鳴った。
ベラさんが出ていくと——
扉の前に立っていたのは。
銀髪を後ろで一つに束ねた、地味なローブ姿の女性。
どこの誰か——一瞬、わからなかった。
だが、藍色の瞳と白磁の肌を見て、気付いた。
「……レイナ、さん?」
「久しぶり、田中、一郎」
レイナがぺこり、と頭を下げた。
……はい?
昨日帰った人が、地味な格好で、裏口から来た。
しかも、頭を下げた。
「レ、レイナ、さんっ!?」
カインさんが奥から血相を変えて飛び出してきた。
「総帥、その格好は!?」
「カイン、久しぶり」
「な、なぜ、こんな格好で——」
「今の私は、田中一郎の弟子志願者よ」
「は?」
俺とカインさんの声がぴったり重なった。
ベラさんが両手で口を押さえて、固まっていた。
ガリオさんもちょうどギルドから帰ってきたところだったらしく、後ろで棒立ちになっていた。
レイナは俺たちの反応を楽しそうに見ていた。
そして俺に向かって深く頭を下げた。
「田中一郎。どうか私を、あなたの弟子にしてくださらないかしら」
「……」
俺は絶句した。
昨日、毒師ギルドの客員を断った俺。
今日、毒師ギルドの総帥が逆に弟子入りを申し込んできた。
なんだ、この反転劇。
いや、待て、落ち着け。俺は一度、深呼吸をした。
「レイナさん」
「はい」
「とりあえず中に入ってください」
「はい」
「お茶、淹れます」
「ありがとう」
我ながら、料理人としての接客スキルが、こういう場で役に立つ。
とりあえず客を座らせる。とりあえずお茶を出す。
そうしている間にこっちの頭も整理する。
ベラさんが我に返って「ひっ、お、お茶、お茶ですね!?」と慌てて茶葉の棚に走った。
厨房の奥でガリオさんがぼそりと呟くのが聞こえた。
「……田中、本当にとんでもねぇな」
俺もそう思う。
食堂の一番奥の席にレイナを座らせた。
向かいに俺。その両脇にカインさんとガリオさん。
ベラさんはお茶を出した後、そっと厨房に戻った。
空気を読んでくれたらしい。ありがとう、ベラさん。
レイナはお茶を静かに一口すすった。
それからきれいな所作で、カップを置いた。
「あなたの料理を、もう一度、食べたいの」
「それはお客様として、でしょうか」
「いいえ」
「弟子として、でしょうか」
「弟子として、よ」
……。真剣な目だった。
昨日の妖艶な雰囲気とは違っていた。
今日のレイナは、毒師ギルド総帥の仮面を脱いでいた。
「あなたは昨日、私の提示した待遇を断ったわね」
「はい」
「金でも、研究室でも、素材でもなく——あなたが選んだのは、この店の厨房だった」
「そうです」
「だから私も、『私の立場』を一度、下ろすことにしたわ」
レイナは自分のローブの袖を軽く撫でた。
「毒師ギルド総帥レイナ・ヴェル・モルガナートじゃない、ただの毒術師レイナとして——」
「はい」
「あなたの下で学びたい」
……うわぁ。
なんだ、この、重たい決意。
俺の玉ねぎスープ、どんな破壊力をしてるんだ。
いや、もう、受け入れざるを得ない気がする。
でも、少しだけ確認させてほしい。
「レイナさん」
「はい」
「一つだけ、聞いていいですか」
「なんでも」
「なんで、料理人になりたいんですか?」
レイナが少しだけ驚いた顔をした。
それからゆっくり口を開いた。
「あなたの料理を食べた瞬間」
彼女の視線がテーブルの一点を見つめた。
「私、思ったの。『私の人生の半分、無駄だった』って」
え。
「え?」
「十年、毒師として生きてきた」
「はい」
「人を殺す技を極めてきた」
「はい」
「でも、あなたは同じ『毒』で、人を救って、温めていた」
レイナが顔を上げた。瞳がわずかに潤んでいた。
「——私は、何をしてきたんだろうって」
沈黙が落ちた。
カインさんが言葉をなくしていた。
ガリオさんも静かにお茶をすすった。
俺はレイナの目を見た。
この人は、たぶん嘘を言っていない。
本気で料理を学びたいと思っている。
だったら俺は、料理人として応えなきゃいけない。
「レイナさん」
「はい」
「一つだけ、条件があります」
「なんでも」
「料理は、人を殺すための技じゃありません。逆も、です」
「……」
「『毒で人を救う』のは、その先の結果、です」
「——」
「まず『誰かに、美味しいと言ってもらいたい』って、思ってください」
「それだけでいいの?」
「それが、一番、大事なんです」
レイナは深く、深く頷いた。
「……わかりました」
「じゃあ、明日からどうぞ」
俺は少し微笑んで、頭を下げた。
「弟子、第二号として、よろしくお願いします」
レイナの藍色の瞳が一瞬、揺れた。
「二号……?」
「ええ、一号がカインさんで」
「……カイン」
「はっ」
カインさんがぴしっ、と姿勢を正した。
「あなた、いつのまに、私より先に弟子入りしていたのね」
「……申し訳ございません、総帥」
「いえ、いいわ。先輩として丁重に扱いなさい」
「御意」
……いや、レイナさん、さっきまで毒師ギルド総帥じゃないって言ってませんでした?
いきなりカインさんに、上下関係、作ってるし。
まあ、いい。これからゆっくり教えていけばいい。
料理人として——料理は身分も、立場も、関係ない、ってことを。
俺は親父からそう教わった。
その夜。
レイナは宿屋の従業員寮の、空き部屋をもう一つ借りた。
ベラさんが「女性客用の、一番綺麗な部屋です」と誇らしげに案内した。
レイナはそれを素直に受け入れた。
毒師ギルド総帥が、田舎の宿屋の寮の一室で寝る。
——普通に考えてありえない光景だった。
でも、レイナは特に文句も言わず、静かに受け入れていた。
カインさんがベラさんに、こっそり耳打ちしていた。
「……ベラ殿、あの方、本当に、総帥、か?」
「えっ、違うんですか?」
「……違わない」
「じゃあ、総帥なんですね?」
「……そのはずだ」
「どっちですか!」
ベラさんが困惑していた。
でもベラさんも、もう、どうでもよくなったらしく、結局、両手を上げて諦めた。
「まあ、なんでもいいです、美人さんが増えるなら大歓迎ですっ!」
……ベラさんのメンタルの強さ。
この人、絶対、うちの宿を盛り上げる適性がある。
ガリオさんは厨房の隅で、静かにぼやいた。
「……田中」
「はい」
「宿屋、乗っ取れるぞ、その気になれば」
「なりません」
「俺の予想では、この調子だと、一年で大陸の主要人物が全員、お前の下に集結する」
「大袈裟です」
「大袈裟じゃない。賭けてもいい」
……いや、さすがに。さすがにそんなこと、ないと思う。
でも——なんとなく、ガリオさんの声には確信が宿っていた。
俺はわざとらしく目を逸らした。
食堂の窓の外。
オルバの街は、今夜も静かに明かりを灯していた。
田中食堂、もとい、ベラ亭。
その一角に——【絶対鑑定】を持つ、前世廃業の料理人。
その弟子に元・暗殺者。もう一人の弟子に毒師ギルド総帥。
脇にはAランク冒険者と、号泣癖の女将。
……何なんだ、この、カオス。
でも厨房から漂うル・オニオンの甘い香りだけは。
前世の田中食堂と、何も変わっていなかった。
俺はそっと火を落とした。
明日もいい一日になる予感がした。




