第7話 三つ星料理、銀髪の女を出迎える
カインさんが弟子になって、二日が経った。
朝六時、起床。厨房に立ち、皮むき、仕込み、下ごしらえ。
十二時、昼の営業。夕方、市場で仕入れ。夜、再び厨房。
我ながら律儀に、料理人生活を送っている。
……いや、前世の俺も、こうだった。
結局、俺という人間は、どこの世界でも、料理人でしかいられないらしい。
カインさんは思っていた以上に筋がよかった。
というか、もともと手先が異常に器用だ。
暗殺者として鍛えられた指先の感覚が、そのまま料理の繊細な作業に活きている。
ル・オニオンの皮剥きも、面取りも、見栄え良く仕上がる。
「田中殿」
「はい、なんですか」
「俺の手首、この角度で、正しいか」
「もっと柔らかく。力入れすぎ」
「……」
カインさんは無表情のまま、静かに包丁を握り直した。
いい師弟関係じゃない気がする、というか、暗殺の指導を受けてる気分になる、この会話。
でも、まあ、順調だ。
なんだろう、こうやって一つのことに集中してる時間が、心地よい。
前世の、店の閉店前の、あの焦燥感も、虚しさも、ここにはない。
俺はただ、料理人でいられる。
それだけでこんなにも、心が軽い。
昼の営業が終わった、午後二時ごろ。
宿屋の正面から、鈴の音が軽やかに鳴った。
新しいお客だ。
ベラさんがいつものように「いらっしゃいませー」と元気な声をあげながら、ホールに出ていった。
次の瞬間——
「……え、えっ」
ベラさんが固まった。
その声で、俺は異変を察した。
厨房からそっと顔を出した。
そして俺も固まった。
扉の前に立っていたのは——
銀色の長い髪。深紅の旅装ローブ。白磁のような肌に、藍色の切れ長の瞳。
身長は俺より少し低いくらい。年齢は二十代半ばだろうか。
圧倒的な美人だった。
それも『普通の美人』じゃない。——纏っている空気が、違う。
【鑑定】が勝手に走った。
【レイナ・ヴェル・モルガナート(24歳)】
職業:毒師ギルド総帥
状態:旅装/『観察中』
備考:総合戦闘力——Aランク+
毒術による殺傷能力——大陸最高位
警戒:接近戦・毒食・解毒・全て警戒必要
……。
……え?
えっ!?
何このランク?
俺、食堂を間違えたかな? これ、冒険者ギルド?
いや、違う、宿屋、宿屋です。
でも、なんで——
大陸最高位の毒術師が、うちの食堂の扉を開けてるの?
ベラさんがぎこちない笑顔で接客を始めた。
「い、いらっしゃいませ……! お食事ですか……?」
「ええ」
声が——低くて甘い声だった。わずかに笑みを含んでいる。
「こちらの店の『玉ねぎスープ』をいただこうかしら」
「は、はい! かしこまりました……!」
ベラさんは何度も頷きながら、カウンター席に女性を案内した。
そして振り向いた瞬間——
俺に向かって、顔面を真っ青にして、口パクで叫んだ。
『っっっ、ぬ、ぬし、やばい、やばいですっっ!!』
……知ってる。俺も、やばい、って気付いてる。
だって【鑑定】に『毒師ギルド総帥』って思いっきり書いてあった。
ガリオさんは今日、朝からギルドに出かけている。不在だ。
カインさんは——カインさんは、厨房の隅で固まっていた。
顔から完全に血の気が引いている。
「……総帥」
「カインさん」
「うちの総帥だ」
「ですよね」
「俺、辞職届、まだ出してないんだが」
「……ですよね」
カインさんが腰に手を伸ばしかけた。
……いや、ナイフ抜くな。
「カインさん、落ち着いて」
「いや、しかし——」
「あの人、今、お客さんですよ」
「しかし、田中殿——」
「料理人として、お客さんに料理を出すのが仕事でしょう」
カインさんが一瞬、はっとした顔をして——ゆっくり手を下ろした。
「……すまない。俺が暗殺者モードに戻るところだった」
「はい、戻らないでください」
「承知した」
カインさんが深呼吸をした。
よし、落ち着いた。俺も意識を切り替える。
エプロンの紐を締め直す。火を入れる。ル・オニオンを薄く、薄く、切る。
厨房のいつもの音。
……そう。料理人の仕事はただ、それだけだ。
お客が殺し屋の親玉だろうが、王様だろうが関係ない。
美味いメシを出すだけだ。
それが田中食堂の、親父の教えだった。
鍋を火にかけながら、俺は考えていた。
あの女——レイナ、と言っていたな。
彼女はただの玉ねぎスープを食べに来たわけじゃない。
俺の料理を『試しに来た』のだ。
なら、出す料理もちょっと考えないといけない。
……よし。
俺は棚から一本の素材を取り出した。
三日前に森で手折った——『リトル・ジューシー草』。
あの、ガリオさんの命を救った猛毒の草。
【リトル・ジューシー草】(完全処理済)
効能:料理に使用で、旨味を五倍に引き出す。
備考:調理者が毒素を完全制御している場合のみ可。
一般人が扱えば即死級の毒。
俺が扱えば——ただの、極上のハーブ。
ル・オニオンスープに、仕上げに一滴、絞る。
香りが変わった。
厨房中に気品のある、花のような、蜂蜜のような匂いが広がった。
カインさんが、すぅ、と深く息を吸った。
「……田中殿、これは」
「ちょっと気合い入れてみました」
「気合いのレベルが違うぞ」
「大陸最高位のお客さんなので」
俺は苦笑いしながら、スープを器に盛った。
磁器の白い深皿。透き通った琥珀色のスープに、飴色のル・オニオンがゆらり、と沈む。
仕上げにメルゼのオイルを一滴。
完成。
俺は皿を手にした。
カウンターの女の席まで歩いた。
レイナは俺をじっと見つめていた。
目が合った瞬間——彼女の唇がかすかに吊り上がった。
「あなたが田中一郎、かしら」
「……はい」
俺は頷きながら、スープを彼女の前に置いた。
「お待たせしました、玉ねぎスープです」
「ふぅん」
レイナはスプーンを取り上げた。
ゆっくり、ゆっくり、スープの表面を撫でるようにかき混ぜた。
一滴、すくった。唇に近づけた。止まった。
「……毒が入っているわね」
俺は心臓が跳ねた。でも動揺は見せなかった。
「はい、入ってます」
「…………え?」
今度はレイナの方が固まった。
「素直に認めるの?」
「だって素材、毒草ですから」
「そうじゃなくて、私に毒入りの料理を——」
「人体に影響のない形に処理してあります」
俺は真面目に答えた。
「リトル・ジューシー草の毒素を抜き切った後、旨味成分だけを抽出しています。処理法は——」
「待って」
レイナが手を掲げた。
「待って、待って」
彼女はもう一度、スープを見つめた。
それからゆっくり、ゆっくり、一口含んだ。
——時間が止まった。
レイナの藍色の瞳が、ゆっくり見開かれた。
息が止まった。
スプーンを握る指先が、微かに震えた。
「……う、そ、でしょう」
彼女の声が掠れていた。
「これ、本当にリトル・ジューシー草を使っているの?」
「はい」
「毒は?」
「完全に処理済みです」
「どうやって」
「舐めて、鑑定して、苦味から抜きました」
「——」
レイナの口が半開きになった。
「舐めて?」
「はい」
「そんなことが」
「俺の仕事ですから」
彼女が震える手で、もう一口スープを飲んだ。
その瞬間——
レイナの切れ長の瞳が揺れた。
唇が何か言いたげに動いて、止まった。
スプーンを置いた。両手で顔を覆った。
「……」
「……大丈夫ですか?」
「……大丈夫じゃないわ」
レイナの声が少しだけ震えていた。
「あなた、何者なの」
「料理人です」
「そんなわけないでしょう」
「料理人、です」
二度、言った。俺は譲らなかった。
レイナがゆっくり手を下ろした。
その顔は——赤かった。頬がわずかに紅潮していた。
そして彼女はぽつりと呟いた。
「……こんな気持ち、生まれて初めて」
俺には意味がわからなかった。
ただ隣の厨房から——
ベラさんのぞわぞわとした、ニヤけ声が聞こえてきた。
「あらあらあらあら、まぁまぁまぁまぁ」
ベラさんが両手を組んで、キラキラした目でこちらを見ていた。
俺は厨房に戻った。
カインさんが真顔で俺に告げた。
「田中殿」
「はい」
「総帥のあんな顔、初めて見た」
「そうですか」
「十年、仕えてるが、あの顔は見たことがない」
「はぁ」
「あれは——」
カインさんが確信を込めた声で言った。
「惚れてる顔だ」
……は?
俺は慌てて首を振った。
「いや、無いでしょう、それは」
「ある」
「会って、五分ですよ」
「五分で充分だ」
「無いです」
「俺の十年の経験で言う」
「暗殺者の経験、料理に生かしてください」
俺はぴしゃり、と言った。
カインさんは真顔のまま、「承知した」と頷いた。
カウンター席から、スプーンを皿に置く澄んだ音が聞こえてきた。
振り向くと、レイナは空になった皿をじっと見つめていた。
それからゆっくり立ち上がった。
席まで歩いてきた俺に、彼女は静かに言った。
「田中、一郎」
「はい」
「あなた、毒師ギルドの客員になりなさい」
「……え?」
「給料はあなたが今、受け取っている、百倍」
「百倍!?」
「待遇は専用の研究室と、最上級の素材供給。毒草なら、何でも手に入る」
……。
……すごいオファーだ。料理人として正直、心が動いた。
動いた、が——
「すいません」
俺は頭を下げた。
「せっかくですが、お断りします」
レイナの眉がピクリと動いた。
「……なぜ」
「俺、ここの田中一郎じゃなくて、ベラ亭の住み込み料理人、ですから」
「それは肩書きの問題でしょう。金で解決できる——」
「ベラさんに拾ってもらった恩があるので」
俺はきっぱりと言った。
ベラさんが涙を堪えていた。
レイナはしばらく、じっと俺の目を見つめていた。
そしてくすっ、と笑った。
意外にも、怒り出す気配はなかった。
「……面白いわね、あなた」
「ありがとうございます、ですかね」
「褒めてるわ」
彼女は懐から銀色のコインを取り出した。
「これ、預けるわ。私を呼びたくなったら、魔力を込めて、私の名を呼びなさい」
「いつ呼ぶんですか」
「気が向いた時に」
「気が向くことは、たぶん、ない気が——」
「ふふっ」
レイナは意味深に笑った。
「向くわよ、きっと」
「は?」
「だって、もう、私、決めちゃったから」
「決めた、って、何を」
「あなたの料理を、定期的に食べること」
彼女は踵を返した。ドアを開けた。
「また来るわ、田中一郎」
戸口で一度、振り返った。長い銀髪がふわり、と舞った。
そして——ウインクを一つ残して。出ていった。
扉が静かに閉まった。
ベラさんが、弾けたように叫んだ。
「田中さんっ!!! いまの!!! いまの見ました!?」
「見ました」
「ウィンクっ!!! 大陸最高位の美女が、あなたに、ウィンクっ!!!」
「はい」
「ウッッッ、私、もう、感動で、身体が震えますぅぅぅ!」
また、ベラさんが号泣し始めた。
カインさんは厨房の隅で、微動だにせず呟いた。
「総帥が、ウィンク、した」
「はい」
「——世界の終わりだ」
「カインさん、その反応、ちょっと重すぎます」
その夜。オルバの街を離れる馬車の中で。
レイナは窓の外の月を見上げていた。
——胸の奥が熱かった。
二十四年生きてきて、初めての感覚だった。
毒師ギルドの総帥として孤高を貫いてきた自分。
誰も彼女の心を動かすことはできなかった。
それなのに——
「……たかが、一杯のスープに」
呟いた声に、笑みが混じった。
彼女は指先で唇に触れた。
まだあの極上の旨味の余韻が残っていた。
「田中、一郎……」
名を呟いた。
それから——ぽつり、と。
「私も、弟子入り、しようかしら」
誰にも聞こえない声で、そう呟いた。




