第4話 宿屋の女将、朝から号泣する
翌朝。
俺は宿屋の厨房に立っていた。
なんで、と聞かれても困る。
ただ、起きて一階に降りたら、女将さんが泣きそうな顔で鍋を覗き込んでいて——
気付いたら俺はエプロンを着けていた。料理人の本能だ。
「あ、あの、お客さん!?」
「あ、すいません、勝手に厨房に入って」
「いえ、それはいいんですけど、なんでエプロンを……」
「料理人なので」
「料理人……?」
女将さんは四十代後半くらいだろうか。ふくよかな体型に、ふっくらした頬。
いかにも宿屋の女将、という風体の人だった。
名前は確か、ベラさん。
昨夜、ガリオさんが「ここの女将のメシは絶品だ」と言って連れてきてくれた、人情味のある宿だった。
……だったのだが。
その女将さんが朝から、鍋の前で泣きそうな顔をしていたのだ。
料理人として、見過ごせるはずがなかった。
「ベラさん、その鍋、何作ってるんです?」
「あ、お客様に出す朝食用のスープです……でも、何度作っても味がぼやけてしまって」
覗き込んだ。【鑑定】が勝手に走った。
【スープ・状態:未完成】
不足:旨味成分/甘み/塩分(バランス不良)
原因:使用中の【エルダム塩】の品質劣化(保存期間超過)
……ああ、塩か。
「ベラさん、この塩、いつ買ったやつですか?」
「えっ、半年くらい前ですけど」
「これ、もう塩としての力が弱まってます」
「えっ!? そんな!?」
「あと、玉ねぎ……いや、こっちの世界だと、なんて言うんですか、これ」
俺は籠の中の野菜を指差した。半透明の皮、丸い形。明らかに玉ねぎ系の野菜だ。
「ル・オニオンですね」
「うん、ル・オニオン」
ル・オニオンって。まんまじゃねえか、と心の中でツッコミながら、俺は手を伸ばした。
【ル・オニオン】
効能:旨味の倍化/血行促進
調理推奨:弱火でじっくり炒めることで、糖度が八倍に。
……糖度、八倍。完全に玉ねぎだ。
しかもこっちの世界の方がポテンシャルが高い。
「ベラさん、ちょっと貸してください、これ」
「は、はい!」
俺はル・オニオンを薄切りにし始めた。
包丁が新鮮だった。
厨房の包丁はよく研がれていて、皮の層を薄く均一に滑らせてくれる。
……うん、いい包丁だ。
料理人の手に馴染む包丁を作る職人が、この街にもいるんだな。
切り終わった玉ねぎを別の鍋に放り込んだ。
バターらしき脂と一緒に、弱火でじっくり——
ベラさんが横で目を丸くしていた。
「お客さん、なんで、そんなに丁寧に……」
「玉ね……ル・オニオンは、火を入れすぎず、入れなさすぎず、が大事なんですよ」
「で、でも、もう四十年近くこの仕事をしてますけど、こんな炒め方、見たことが」
「四十年やってる先輩の前で、偉そうにすいません」
「い、いえ! そうじゃなくて!」
ベラさんは何度もぶんぶんと首を振った。
「私、長年、この味をぼやけさせてしまうことに悩んでて……夫が亡くなってから、何かが足りない、って」
ベラさんの目にうっすらと涙が浮かんだ。
……あ。
俺は手を止めなかった。ただ黙って玉ねぎを混ぜ続けた。
料理人にとって、こういう時の言葉は料理で返すべきだ。
親父がいつも言っていたことだった。
三十分後。
完成したスープを、ベラさんに味見してもらった。
ベラさんは木のスプーンをゆっくり口に運んだ。
……時間が止まった。
ベラさんがじっと、スープの表面を見つめていた。
「……っ」
肩が震えた。次の瞬間。
「うっ、うわぁぁぁぁんっ!」
ベラさんが号泣し始めた。
厨房中に響き渡る号泣だった。
「えっ、ベラさん!? ど、どうしました!?」
「だ、だっ、だってぇ、これ、これ……っ」
ベラさんが震える指で、スープを指差した。
「亡くなった夫の、味なんですぅ……っ」
「……え?」
「結婚したての頃に夫がよく作ってくれたスープと、おなじっ……」
俺は何も言えなかった。ただエプロンの裾をぎゅっと握った。
会ったこともない、ベラさんの旦那さん。
でも、たぶんその人もきっと、料理を愛していた人だったんだろう。
その騒ぎが響いたのか、二階から階段を駆け下りる音がした。
「ベラさん! どうした、何があった!?」
ガリオさんが寝起きの顔で、慌てて飛び込んできた。
ベラさんを見て、俺を見て、鍋を見て——深く、深く、ため息をついた。
「……田中、お前、また、何かやったな」
「いや、別に何も」
「絶対やってる、その顔は」
「……スープ、作っただけです」
ガリオさんはもう一度ため息をついて、ベラさんに優しく寄り添った。
ベラさんに肩を貸しながら、俺の方を横目で見た。
その目が、何かを確信したような顔をしていた。
俺は慌てて視線を逸らした。
ガリオさんが低い声で言った。
「田中。お前、本当に、ただの料理人か?」
「……はい、ただの、料理人です」
「そうか」
それきりガリオさんは何も言わなかった。
朝食の時間。
宿屋の食堂はいつもよりずっと賑わっていた。
ベラさんが俺のスープを「魔法のスープです!」と宣伝してしまったらしく、宿泊客全員がこぞって注文した。
そして全員が——
一口飲んで固まった。
次に、目を見開いた。
次に、誰かがぽつりと呟いた。
「これ、王都の高級店でも、出てこないぞ」
……いや、いや、いや。大袈裟だ。
ただの玉ねぎスープだ。
俺の前世の世界でも、フレンチビストロに行けば普通に出てくる類のやつだ。
……いや、待て。
俺の前世の世界では、ル・オニオンの糖度は八倍じゃなかった。
……マジか。
マジで、この世界、食材ポテンシャルがおかしい。
俺は改めて震えた。料理人として、武者震いだった。
「田中」
ガリオさんが隣の席に、どさり、と座った。
「はい」
「お前、覚悟、決めとけ」
「何の覚悟ですか」
ガリオさんは俺の目をまっすぐ見た。
「お前、この街で、ただじゃ済まなくなる」
その時——
宿屋の窓の外を、黒いフードの影が、すっ、と通り過ぎた。
俺は気付かなかった。ガリオさんも気付かなかった。
ただベラさんが、皿を運びながら、ふと窓の外を見た時——
「……今、誰か、いた?」
ぽつりと呟いた。
でも、もう外には誰もいなかった。
その夜。毒師ギルド・本拠地。最上階の執務室。
黒檀のテーブルの上に、報告書が置かれた。
深紅のドレスを纏ったレイナが、その報告書を静かに読んだ。
「……ふぅん」
ぱさり、と報告書を閉じた。
「玉ねぎスープを作って、宿屋の女将を泣かせた、と」
彼女は唇の端をゆっくりと吊り上げた。
「面白いこと、しているじゃない」
立ち上がった。
「カイン」
影から黒装束の男が音もなく現れた。
「お呼びですか」
「あなた、行ってきなさい」
レイナは報告書を男に放り投げた。
「街はオルバ。標的は——田中、という料理人」
「殺しますか?」
「……ううん」
彼女はふっと笑った。
「まずは、その料理を、食べてきて」
「は?」
「私の代わりに、味見をしてきなさい。話は、それからよ」
黒装束の男——カインは、戸惑いながらも頷いた。
「……御意」
影に消えた。
一人になったレイナが窓の外、満月を見上げて呟いた。
「玉ねぎスープで、人を泣かせる、ね」
「——どんな顔してるのか、見ものね」
ベラさんと、刺客カインさんが登場しました!
次話、いよいよ刺客の襲撃です。
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