第36話 エルフ族からの使者、緑の風と共に
ザガン公の脅威を知ってから、一週間。
ベラ亭の警戒態勢は強化されていた。
ガリオさんがベラ亭の周りに、警備の冒険者を配置した。
カインさんは毒師ギルドの情報網を、フル稼働させた。
レイナは入荷する全ての食材を、自ら検査した。
……物々しい雰囲気。
でもベラ亭の営業は、いつも通り続けていた。
お客さんに不安を感じさせないように。
料理人として当然のことだった。
その日も、いつものようにベラ亭は満員だった。
俺は厨房で、ル・オニオンを薄く切っていた。
その時——店の入り口に、緑の風が舞った。
ふわり、と不思議な香り。
森の湿った土の香り。
ベラさんがホールから、慌てて声を上げた。
「あ、あの、お客様……?」
「はい、ベラさん」
「これ、ちょっと見てもらえます?」
俺はエプロンを外して、ホールに出た。
そこに立っていたのは——背の高い女性だった。
俺は思わず息を呑んだ。
女性はエルフだった。
長い銀髪。
……いや、銀じゃない。淡い緑がかった銀。
エメラルドのような瞳。
とがった長い耳。
肌は雪のように白く、透き通っていた。
白いシルクのドレスに、緑の刺繍。
まるで森の精霊が人間の姿で現れたような、神秘的な雰囲気だった。
【鑑定】が勝手に走った。
【シエラ・フェリオン(180歳)】
種族:高位エルフ
職業:エルフ評議会・若手評議員
戦闘力:A級(弓術・自然魔法に特化)
状態:使者として来訪/緊張気味
備考:エルフ族から、田中一郎への、招待状を持参。
……エルフ族。
今度はエルフ族の使者。
やっぱり、招待状。
俺はガリオさんをちらっと見た。
ガリオさんも慎重に、彼女を観察していた。
でも、敵意は感じない。
むしろ、リリスさんと似た雰囲気。
文化的で、丁寧な使者の佇まい。
俺は深呼吸して、彼女に声をかけた。
「いらっしゃいませ」
「……田中、一郎、殿でいらっしゃいますか」
「はい、田中です」
彼女が深く頭を下げた。
その所作は優雅で、無駄がなかった。
「私、シエラ・フェリオンと申します」
「シエラさん」
「エルフ評議会の使者として、参りました」
「エルフ評議会」
「はい」
彼女が顔を上げた。
エメラルドの瞳がまっすぐ、俺を見た。
「魔王陛下から、世界料理大会の招待状を受け取りました」
「ああ、はい」
「エルフ族として、参加を検討しております」
「ありがとうございます」
「ですが——」
彼女の声が、少しだけ緊張した。
「参加の条件として、評議会からご依頼があります」
「依頼、ですか」
「はい」
シエラさんが深く息を吸った。
「田中殿に、エルフの里に来ていただきたいのです」
「エルフの里」
「私たちの料理を、見ていただきたい」
「……」
「そして田中殿の料理を、エルフの長老たちに見せていただきたい」
「……試験のようなもの、ですか」
「いえ、違います」
彼女が慌てて首を振った。
「審査ではなく、交流です」
「交流」
「お互いの料理文化を知る場」
「……」
「それを評議会は、参加の前提と考えております」
俺はガリオさんと目を合わせた。
ガリオさんが深く頷いた。
……エルフ族との文化交流。
料理人として、断る理由はない。
むしろ楽しみだった。
「シエラさん、お受けします」
「!」
「エルフの里に参ります」
彼女がぱぁっと、顔を輝かせた。
その笑顔は——本当に無邪気で、可愛らしかった。
180歳とは思えない若々しさ。
「ありがとうございます!」
彼女が深く深く、頭を下げた。
「実は私、田中殿の噂を長年追いかけていました」
「噂、ですか」
「はい」
「人間界で、毒を料理に変える料理人がいる、と」
「……」
「エルフ族は植物の毒に詳しい種族です」
「あ、はい」
「だから田中殿の技法に、興味ありました」
シエラさんの目が輝いていた。
料理人として、嬉しい視線だった。
俺は笑顔で頷いた。
「エルフ族の料理、楽しみです」
「光栄です」
「いつ出発しますか」
「準備が整い次第」
「明日、いかがですか」
「明日!?」
「ベラ亭、料理大会の準備で大忙しです」
「あ、はい」
「先延ばしすると、戻る時間が減ります」
「分かりました。明日出発しましょう」
シエラさんが嬉しそうに頷いた。
俺はガリオさんを見た。
ガリオさんも苦笑しながら頷いた。
「お前、本当に忙しい男だな」
「すいません」
「いや、いい。俺たちがついていく」
「ありがとうございます」
仲間たちがまた、一緒に行ってくれる。
心強かった。
その夜。
ベラ亭の奥の食堂で、シエラさんを招いた夕食会を開いた。
俺、レイナ、ガリオさん、カインさん、ベラさん、リエラさん。
みんな揃って、シエラさんを囲んだ。
ベラさんが興奮した声で聞いた。
「シエラさんって、本物のエルフですか?」
「はい、エルフ族です」
「すごい、本物のエルフを見たの初めてですぅぅ……!」
ベラさんがまた、号泣しそうになった。
でも今日は、嬉し涙だった。
「ベラ夫人、エルフ族は人間界では珍しいのですか」
「ええ、王都にもほとんどいません」
「私たちは森の奥に住んでいるので」
「そうなんですね」
シエラさんが優しく微笑んだ。
「人間とエルフは長年、距離を置いてきました」
「はい」
「お互いに文化を知らない」
「……」
「だから料理大会、参加したい」
「素晴らしい考えです」
ベラさんが感動しながら頷いた。
その時——レイナがぽつりと口を開いた。
「シエラさん」
「はい」
「エルフ族の毒、人間より強い、と聞いてます」
「……」
「植物毒の専門家、ですよね」
「はい、確かに」
「だから料理大会で、エルフ族の料理に毒を混ぜることもできる」
レイナの声は低かった。
毒師ギルド総帥としての声。
俺は、はっとした。
……レイナさん、警戒している。
シエラさんが深く頷いた。
「ご指摘、ごもっともです」
「……」
「ですが、エルフ族は毒を料理に使いません」
「……」
「私たちの料理哲学は、自然との調和」
「自然との調和」
「植物の毒を無効化することはできます」
「ええ」
「でも、その技術を悪用することは、エルフの長老たちが許しません」
彼女の声には、強い誇りが宿っていた。
レイナがしばらく彼女を見つめた。
それからふっと微笑んだ。
「……そう」
「はい」
「あなたの目を見れば、嘘じゃないとわかる」
「ありがとうございます」
「失礼な質問、ごめんなさいね」
「いえ、当然の警戒です」
二人が笑顔で頷き合った。
……よかった。
最初は警戒し合っていた二人が、すぐに打ち解けた。
やっぱり女性同士、というか——同じ毒に詳しい女性同士、通じ合えるものがあるらしい。
ガリオさんがぼそっと呟いた。
「……毒の女子会、だな」
「ガリオさん、その表現」
「いや、いい光景だ」
ガリオさんがニカッと笑った。
俺も微笑んだ。
料理人として——種族の壁を超える瞬間が、また訪れた。
料理を通じてでは、ないけど。
これも、料理人としての仕事の一部だ。
その夜、シエラさんはベラ亭の客室に泊まった。
俺はレイナと、田中食堂の屋根の上にいた。
いつもの二人の時間。
「一郎」
「はい」
「忙しくなるわね」
「はい」
「魔界、エルフ、まだまだ続きそう」
「ええ」
「楽しい?」
彼女がにっこり微笑んだ。
「楽しいですよ」
「ふふ、料理人らしい答え」
「料理人ですから」
俺は少しだけ笑った。
レイナが月を見上げた。
「種族の壁を、料理で繋ぐ」
「はい」
「素敵な夢ね」
「俺、本気で信じてます」
「うん、信じてる」
「俺、できると思います」
「私も信じてる」
彼女が優しく頷いた。
月明かりが、彼女の銀髪を照らしていた。
いつもの美しい横顔。
俺は彼女の手を握った。
「明日、エルフの里に行きましょう」
「うん」
「シエラさんと、エルフの料理を学んで」
「うん」
「料理大会の最高のメニューを作りましょう」
「もちろん」
二人で月を見上げた。
星々が優しく輝いていた。
料理人としての新しい章が——明日、始まる。
俺は深く息を吸った。
明日が楽しみで仕方なかった。




