第35話 魔界からの、不穏な噂
魔界から戻って、二週間が経った。
ベラ亭の準備は順調に進んでいた。
招待状の発送、特別室の改装、料理人スタッフの増員。
全部、ジルベールさんとガリオさんが手際よく進めてくれた。
俺は料理の研究と、レシピの開発に集中できた。
世界料理大会で、何を出すか。
全種族に笑顔になってもらえる料理。
そんな夢のような一皿を、毎日考え続けていた。
……平和だった。
でも、その平和は長くは続かなかった。
ある日の夕方。
ベラ亭の厨房に突然、漆黒のカラスが飛び込んできた。
窓を勝手に開けて、入ってきた。
ベラさんが悲鳴を上げた。
「きゃーっ! な、何ですか、これ!」
「ベラさん、落ち着いて」
俺は冷静にカラスを観察した。
【鑑定】が走った。
【リリス・ベルザード使い魔・伝令カラス】
目的:田中一郎への、緊急伝達
備考:足に手紙が、結ばれている。
……リリスさんからの伝令。
俺はカラスにそっと手を伸ばした。
カラスは警戒も見せず、俺の腕に止まった。
足には小さな巻物が、結ばれていた。
俺はそれを慎重に外した。
カラスは用が済んだとばかりに、窓から飛び去っていった。
……早い。
仕事が早い使い魔。
俺は巻物を開いた。
田中殿
緊急のお知らせがあります。
魔界に、不穏な動きがあります。
大会開催に反対する勢力が、台頭しています。
ご注意ください。
詳細は来月、私が直接お伝えします。
リリス
……。
俺は巻物をゆっくり閉じた。
反対勢力。心当たりがある。
魔王のグレイヴ様が平和派なら——逆に、戦争派の魔族もいる、ということ。
200年、グレイヴ様が平和を模索してきたということは。
200年、それに反対してきた勢力もいる、ということ。
俺はガリオさんを呼んだ。
ガリオさんが巻物を読んだ。
彼の表情が徐々に、険しくなった。
「田中、これはまずいな」
「ガリオさん」
「魔界の政情、安定してないってことか」
「リリスさん、わざわざ緊急の伝令を送ってきました」
「相当深刻、ってことだな」
ガリオさんが深くため息をついた。
「魔王陛下が平和構想を、進めれば進めるほど」
「はい」
「反対派の動きも激しくなる」
「……」
「料理大会を潰そうとする勢力が、出てきてもおかしくない」
俺は深く頷いた。
料理大会。平和の象徴。
戦争派の魔族にとっては、許せないシンボル。
俺は深く息を吸った。
「ガリオさん」
「ん?」
「俺たち、何をするべきでしょう」
「警戒を強めることだ」
ガリオさんがはっきり言った。
「ベラ亭の警備、増強する」
「はい」
「お前自身も、一人で外に出ない」
「分かりました」
「カインに相談しよう」
「はい」
俺は頷いた。
カインさんは毒師ギルド総帥。
魔界の情報網にも、独自に繋がりがある。
彼の知恵が必要だった。
その夜。
俺、ガリオさん、レイナ、そして急遽呼んだカインさんが、ベラ亭の奥の食堂に集まった。
俺はリリスさんからの伝令を、皆に見せた。
カインさんが巻物を読みながら、深く頷いた。
「……俺も最近、魔界の情報を独自に集めていました」
「カインさん」
「同じ結論です」
「魔界、不穏ですか」
「ええ」
彼が淡々と続けた。
「魔王陛下の弟、ザガン公が最近、勢力を急速に拡大している」
「弟、ですか」
「魔王陛下グレイヴ様の、実弟」
「……」
「ザガン公は長年、人間を家畜として扱う思想の持ち主」
「家畜……」
俺は思わず息を呑んだ。
その言葉の重さ。
料理人として、最も許せない思想。
食材は生きていた命。
それを敬う心がない相手は——料理人として許せない。
「カインさん、続けてください」
「ザガン公の勢力は、魔界の軍部に強い影響力を持つ」
「軍部」
「ええ」
「グレイヴ様の平和構想を、軟弱と批判してきた」
「……」
「ザガン公は200年、機会を伺っていた可能性があります」
「機会、とは?」
「クーデターの機会」
カインさんの声が低くなった。
俺はガリオさんを見た。
ガリオさんも深く頷いた。
「クーデター、か」
「ええ」
「料理大会が、その引き金になる可能性があります」
「……」
「平和の象徴である料理大会、それを阻止することで」
「ザガン公が政権を奪う」
「はい」
俺は深く息を吸った。
料理大会の開催が、政治闘争に利用される。
料理人として許せない。
でも現実だった。
「カインさん、対策ありますか」
「あります」
カインさんがまっすぐ俺を見た。
「魔界の情勢を、もっと詳しく調査する」
「はい」
「俺の毒師ギルド時代の人脈を使います」
「……」
「魔界にも毒師ギルドの繋がりがあります」
俺は頷いた。
毒師ギルド総帥としての、カインさんの力。
ここでも活きる。
「ありがとうございます、カインさん」
「いえ、当然です」
「ガリオさん、ベラ亭の警備、お願いします」
「任せろ」
ガリオさんがニカッと笑った。
「俺の剣の本領、発揮する時が来た」
頼もしい用心棒だった。
レイナが隣で口を開いた。
「私も毒師として、毒物の警戒を強める」
「レイナさん」
「ベラ亭に入る食材は、全て私が最終チェックする」
「お願いします」
「あなたの命を守るのが、私の役目」
彼女の目には、強い決意が宿っていた。
俺は深く頷いた。
仲間たちがそれぞれの専門性を活かして、俺を守ってくれる。
料理人として、これ以上の心強さはない。
その夜、皆が寝静まった頃。
俺はベラ亭の厨房に、一人で立っていた。
ガスコンロに似た魔石コンロの火が、ちらちらと燃えていた。
ふと、前世の最後の日を思い出した。
田中食堂を潰した、あの日。
誰かを笑顔にするために、料理を続けようと誓った、あの日。
……今も変わらない。
料理は、人を繋ぐ橋。
戦争を止める力になる。
俺は信じている。
でも——その俺の信念に敵対する勢力が、現れた。
ザガン公。
名前を聞いただけで——背筋が寒くなった。
【鑑定】を無意識に、思い浮かべた。
でも、相手の姿、声、何も知らない。
【鑑定】は目の前の対象しか、走らない。
遠隔の情報は得られない。
だから俺は、ただ待つしかない。
来るべき時を。
料理人として、何かが起きる前に。
備えるしかなかった。
その時、後ろから足音がした。
振り向くと、レイナが寝間着姿で立っていた。
「一郎」
「レイナさん」
「眠れない?」
「はい」
「私も」
彼女が隣に立った。
月明かりが窓から、差し込んでいた。
「魔界のことを、考えているの?」
「はい」
「不安?」
「……正直、不安です」
「私もよ」
彼女が優しく、俺の手を握った。
「でも、私たちは一人じゃない」
「はい」
「仲間がいる」
「はい」
「あなたの料理がある」
「……」
「料理人として、信じる道を進めばいい」
彼女の声は穏やかだった。
でも、その奥に確信があった。
「レイナさん」
「はい」
「ありがとうございます」
「うん」
「俺、料理人として最後まで戦います」
「うん」
「料理を悪用させない」
「うん」
「料理で人々を繋ぐ」
「うん」
「それが俺の生き方です」
彼女がにっこり微笑んだ。
「いつものあなた、ね」
「はい」
「だから、私、あなたに惹かれたの」
俺は彼女の手を、強く握った。
冷たい手。でも温かい想い。
二人で月明かりを浴びながら、しばらく立っていた。
厨房のガスコンロが、まだちらちらと燃えていた。
料理人としての戦いが——もうすぐ始まる。
俺はそれを予感していた。




