第32話 魔界、到着。魔王城の厨房
世界が暗転した。
次の瞬間、目の前の景色が一変した。
俺たちは巨大な、玉座の間のような場所に立っていた。
……魔界。
俺は周囲を見回した。
黒曜石でできた、磨き上げられた床。
高いアーチ型の天井。
壁には深紅の絨毯と、金色の装飾。
窓の外には紫色の空。
……空が紫。
魔界は本当に、別世界だった。
【鑑定】が勝手に走った。
【魔王城・大広間】
規模:王宮の3倍
警備:魔族騎士団100名以上
備考:魔王陛下の謁見の間。
……魔王城。
いきなり最深部に、転移されてしまった。
心の準備する暇もない。
リリスさんが俺たちに向き直った。
「皆様、魔界へようこそ」
「リリスさん」
「魔王陛下がお待ちです」
「……はい」
「こちらへ」
彼女が玉座の方を、指し示した。
俺はガリオさんと目を合わせた。
ガリオさんが深く頷いた。
……行くしかない、ということ。
俺はエプロンの紐を、しっかり締め直した。
料理人として、いつもの出陣準備。
大丈夫。
俺は料理人として招かれた。
料理人として応える。それだけだ。
玉座に腰掛けていたのは——意外な人物だった。
俺の想像していた魔王とは、まったく違った。
白い長髪。優しそうな青い瞳。
肌はわずかに青みがかった色合い。
でも特徴的な角は、頭の後ろに流れるようにあった。
黒いローブを纏っているけど——その姿は王者の威厳というより、学者の雰囲気だった。
【鑑定】が走った。
【グレイヴラント・ベルゼ・モルダリク(推定800歳)】
種族:魔族(最高位悪魔種・魔王)
職業:魔王・全魔界統治者
戦闘力:測定不能(神級)
状態:温和/興奮気味
備考:人間料理の研究を200年、続けている。
……800歳の魔王が、料理研究200年。
予想外すぎる。
魔王が立ち上がった。俺たちに向かって、両手を差し出した。
「ようこそ、田中一郎、殿!」
声は明るかった。
まるで長年の友人を迎えるかのような調子。
「……魔王陛下」
「グレイヴ、と呼んでくれ」
「は、はい?」
「友人としての招待だ」
「……」
「堅苦しい敬語は、不要だよ」
魔王がにっこり微笑んだ。
俺はガリオさんと、再び目を合わせた。
ガリオさんも戸惑った顔をしていた。
……予想と全然違う。
魔王、想像してた何百倍もフランク。
俺は深く頭を下げた。
「グレイヴ、様」
「うん、いい、いい」
「お招きありがとうございます」
「いや、こちらこそ、来てくれてありがとう」
魔王は玉座から降りて、俺の前まで歩いてきた。
近くで見ると、思っていたよりずっと温和な表情だった。
「田中殿、私は200年、人間の料理を研究してきた」
「200年」
「ええ」
「……」
「貴殿の料理は、その中でも特に私を惹きつけた」
「光栄です」
「リリスからの報告書を読んで、いつか必ずお会いしたい、と」
魔王は目を輝かせていた。
まるで子どものような目で、俺を見つめていた。
……あ、これ、本気で料理が好きな人だ。
俺は確信した。
料理人として応える覚悟が、決まった。
「グレイヴ様」
「うん」
「料理をお出しします」
「!」
「魔王城の厨房、お借りできますか」
「もちろん!」
魔王がぱぁっと顔を輝かせた。
まるでお祭りに向かう子どものような笑顔。
……魔王、可愛い。
俺は思わず苦笑いした。
魔王城の厨房は、想像以上に立派だった。
巨大な銅の鍋。最新の調理器具。
そして、信じられないほど豊富な食材。
【鑑定】が勝手に走り続けた。
全部、最高級。
全部、伝説素材レベル。
料理人として、興奮しっぱなしだった。
「グレイヴ様、これ、全部使っていいんですか?」
「もちろん」
「すごい素材ばかりですよ」
「魔界の特産品だ」
「……」
「貴殿が人間の料理に変えてくれることを、期待している」
魔王がニッと笑った。
その笑顔はもう完全に、料理を楽しみにしている子どものそれだった。
俺は笑顔で頷いた。
「分かりました。最高の料理を作ります」
「楽しみだ!」
魔王が両手を合わせた。
その姿は本当に、無邪気だった。
……魔王の印象、覆りすぎ。
俺はレイナとカインさんに声をかけた。
「お二人とも、手伝ってください」
「もちろん」
「了解です」
レイナがエプロンを身につけた。
カインさんもエプロンを身につけた。
二人とも料理の準備、抜群に手早い。
ガリオさんは厨房の入り口で、見張りに回った。
最高のチームだ。
俺は棚から素材を取り出し始めた。
【魔界産・赤血竜の心臓】
効能:人間に致命的な、超高純度の毒
処理可能性:完全に処理すれば、最高級の旨味
備考:1万年に1度しか採れない、伝説素材。
……うわぁ。
1万年に1度の素材。
しかも人間に致命的。
でも処理すれば、最高級の旨味。
料理人として、燃えてきた。
「レイナさん」
「うん」
「これ、見てください」
「……はぁ? 1万年素材?」
「はい」
「これを扱える人間、史上たぶんいないわ」
「俺たち、初挑戦ですね」
「やる気よね、あなた」
「もちろんです」
レイナがふっと笑った。
「私もよ」
二人で目を合わせた。
料理人と毒師。最強コンビ。
もう一度、最強の料理を作る時が来た。
処理は、ベラ亭で開発した技法を応用した。
でも素材のレベルが、桁違いに高い。
より慎重に、より丁寧に進めた。
レイナの毒師としての知識が活きた。
彼女が毒の層ごとに、抽出方法を指示してくれた。
俺はそれに従って、調理した。
【鑑定】が補助役として、走り続けた。
四時間かけて、処理が完成した。
最終工程は、極弱火で丁寧に煮込むこと。
俺は王宮で開発した、新メニュー『黄金のキノコのコンソメ』をベースに使った。
そこに赤血竜の心臓のエキスを加えた。
黄金色のスープに、深紅の輝きが混ざった。
まるで夕焼けのような、美しい色合い。
厨房中に、これまでにない芳香が広がった。
……うわぁ。
俺自身が味わうのが、楽しみすぎるメニュー。
料理人として、最高の瞬間だった。
完成した料理を、玉座の間に運んだ。
魔王が玉座に座って、待っていた。
俺が皿を運んでくると、子どものように目を輝かせた。
「来た、来た、来た!」
「グレイヴ様、お待たせしました」
「お、お、お、いい匂い!」
魔王が興奮して、立ち上がりかけた。
でもすぐに座り直した。
咳払いをして、威厳を取り戻そうとしている。
でも、目はすでに輝きすぎていた。
俺は思わず笑ってしまった。
「グレイヴ様、お料理お出しします」
「うむ」
魔王が銀のスプーンを取った。
一口。二口。
三口目で——彼の目から涙がぽろり、とこぼれた。
「……」
「グレイヴ様?」
「……これ、これだ」
「お口に合いましたか」
「200年、待った味だ」
魔王の声は震えていた。
「私、人間の料理を研究して200年」
「はい」
「いつか必ず、こんな料理を食べたいと思っていた」
「……」
「貴殿がそれを、現実にしてくれた」
魔王の頬を、涙が伝った。
それを彼は、隠そうともしなかった。
むしろ誇らしげに、涙を流していた。
「田中、一郎、殿」
「はい」
「貴殿は本物の料理人だ」
「ありがとうございます」
「魔界の王として、最高の賛辞を贈らせてもらおう」
魔王が立ち上がった。
「貴殿に、魔王認定の料理人の称号を授ける」
「……え?」
「魔界の歴史上、初めて人間に贈る称号だ」
「ええ!?」
「これで貴殿は、魔界のどこでも自由に出入りできる」
「は、はい」
「魔界の素材も、自由に使える」
「……」
「人間と魔界の料理の、橋渡しをしていただきたい」
魔王の目には、もう涙がなかった。
代わりに強い決意が、宿っていた。
「人間と魔族の関係、それを変えたい」
「……」
「料理から変えていきたい」
「グレイヴ様」
「貴殿の料理が、人間と魔族の橋を架けてくれる」
「……」
「協力してほしい」
魔王が深く頭を下げた。
……。
魔王が頭を下げた。
俺は慌てて声をかけた。
「グレイヴ様、頭をお上げください」
「いや、これは必要な礼だ」
「……」
「人間と魔族の戦争を、終わらせるために」
「……」
「貴殿の力が必要なんだ」
俺はガリオさんを見た。
ガリオさんが深く頷いた。
レイナもカインさんも頷いた。
みんな、同じ考えだった。
俺は深く頭を下げた。
「グレイヴ様」
「うん」
「協力させていただきます」
「!」
「料理人としてできることがあるなら——」
「……」
「俺、力を貸します」
魔王の目が、ぱぁっと輝いた。
「ありがとうございます!」
魔王が両手で、俺の手を握った。
俺の手の何倍も大きい、魔王の手。
でも温かかった。
冷たい、と思っていた魔族の手。
でも温かい心が、伝わってきた。
料理人として、もう一つ新しい章を開いた瞬間だった。
その夜。
魔王城の客室で、俺たちは特別な晩餐を楽しんでいた。
魔界の特産品ばかりの、豪華な食事。
最初は警戒していたけど、リリスさんが安全な料理を選んでくれた。
味は想像以上に、美味しかった。
ガリオさんがワインをすすって、ぼそっと呟いた。
「……田中、お前、本当に規格外だな」
「ガリオさん」
「魔王と握手して、認定料理人までなるとは」
「……俺、料理しかしてませんけど」
「だから、すごいんだ」
ガリオさんがニカッと笑った。
「お前は料理だけで、世界を変えていく」
「世界を変える、なんて大袈裟ですよ」
「大袈裟じゃない」
「……」
「お前の料理は、種族の垣根まで越えた」
「……」
俺は何も言えなかった。
ただ、料理を続けてきただけだった。
でもそれが結果として、世界を変えていくのかもしれない。
料理人として、それは最高の誇りだった。
レイナが隣で、優しく微笑んだ。
「一郎」
「はい」
「あなた、本当に料理人でよかったわね」
「はい」
「私も隣で見ていられて、幸せ」
「……ありがとうございます」
「これからもよろしくね」
「もちろんです」
俺は彼女の手を握った。
彼女が優しく、握り返してきた。
月明かりが、紫色の空に輝いていた。
異世界の月。
でも俺の隣には、愛する人。
最強の仲間たち。
そして新しい友——魔王、グレイヴ。
俺の料理人としての物語は——まだ始まったばかりだった。




