第30話 田中食堂、異世界に開店
ベラ亭の増築工事が、ついに完成した。
あれから半年が経っていた。
元のベラ亭の隣に、新しい建物が建っていた。
二階建ての、立派な石造りの店舗。
看板にはこう書かれていた。
『ベラ亭 別館 〜田中食堂〜 王家公認』
……田中食堂。
俺の前世の店の名前。
親父から引き継いだ、店の名前。
異世界で、もう一度田中食堂を開く。
それが俺の、密かな夢だった。
ガリオさんが増築の話の時から、知っていてくれた。
別館の名前を田中食堂にすることを、勝手に提案してくれた。
俺は感動した。
最初は断ろうとしたけど——ガリオさんが「お前の夢だろ」とにやりと笑った。
……バレてた。
料理人として、心の中でずっと抱いていた夢を。
ガリオさんはすべて気付いていた。
俺は深く頭を下げた。
ありがとうございます、ガリオさん。
俺の夢を、形にしてくれて。
オープン当日。
ベラ亭と田中食堂の両方の前に、長蛇の列ができていた。
オルバの街の人たち。
遠方からわざわざ来てくれた、お客さん。
王都から訪ねてきた、貴族たち。
ジルベールさんと、ヴィッセル家の人々。
そして王宮から、特別に来てくださった——アルフォンス王子と、シャルロッテ王女。
近衛騎士団率いる、ダミアン。
王家公認の店としての、特別な開店祝い。
みんな、ベラ亭の開店を祝いに来てくれた。
「田中殿、おめでとう」
「殿下、ありがとうございます」
「私も楽しみにしていた」
王子がにっこり微笑んだ。
シャルロッテ王女も隣で、はしゃいでいた。
「師匠、私、お父様の許可、もらいましたから!」
「それは本当に、よかったです」
「来月から、月に一度、ベラ亭で修行ですわ!」
「お待ちしています」
「うふふ、楽しみ!」
王女が無邪気に笑った。
その横で、レイナがにっこり微笑んでいた。
「殿下、レッスンの日には必ず、私もいますからね」
「……分かっていますわ、レイナさん」
「目の届く範囲で、修行してください」
「……承知しました」
二人の火花は健在だった。
俺は深くため息をついた。
でもこれも、ベラ亭らしさだった。
ベラ亭の別館——田中食堂の扉を、俺が開けた。
「ようこそ、田中食堂へ!」
お客さんたちが、一斉に店内に入ってきた。
石造りの温かい内装。
大きな窓から、日光が降り注いでいた。
厨房は最新の設備。
ホールにはベラさんの、温かい笑顔。
すべてが完璧だった。
俺は白いコック服を身に纏った。
胸には、新しい刺繍。
『田中食堂 二代目店主 田中一郎』
……二代目。
親父が初代。俺が二代目。
異世界で、田中食堂を引き継ぐ形になった。
親父、見えていますか。
俺、こっちの世界で田中食堂を開きました。
親父の教えてくれた味を、こっちの世界でお客さんに届けます。
褒めてもらえますか。
俺の目に、自然と涙がにじんだ。
でもすぐに、エプロンで拭いた。
料理人は厨房で泣いてはいけない。
涙は料理に入る。
料理人として最低限のルールだ。
最初のお客さんが席に着いた。
俺はル・オニオンを手に取った。
いつものように、薄く薄く切り始めた。
【鑑定】が走った。
【ル・オニオン・最高級・特注品】
ジルベール卿が、ヴィッセル領から特別に献納
糖度ポテンシャル:通常品の3倍
備考:田中食堂の開店祝いとして。
……うわぁ。
ジルベールさん、領地から最高級のル・オニオンを贈ってくれた。
ありがたい贈り物だ。
俺はジルベールさんに、深く頭を下げた。
彼がにっこり微笑んで頷いた。
包丁を握る。
左手の親指を、包丁の背に添える。
優しく押さえる。
ス、と刃が滑る。
切り口からふわりと、甘い香りが立った。
ベラ亭の最初の玉ねぎスープと、同じ香り。
でもレベルが違う。
半年前と比べて、料理人としての俺の腕は確実に上達していた。
仲間たちの応援が、俺をここまで運んできた。
ル・オニオンを鍋に落とした。
弱火でじっくり炒め始めた。
厨房中に温かい香りが、広がっていった。
完成した玉ねぎスープを、最初のお客さんに運んだ。
お客さんが一口すすった。目が潤んだ。
涙がぽろり、とこぼれた。
「……これ、本当に美味しい」
「ありがとうございます」
「私、こんなに温かいスープ、飲んだの初めてです」
俺は笑顔で頭を下げた。
「またのお越しを、お待ちしております」
「もちろん、来ます」
お客さんが温かい目で頷いた。
ベラ亭の開店、初日。
俺の玉ねぎスープが、また誰かを笑顔にした。
料理人として、これ以上の喜びはない。
その日の夜。
ベラ亭の奥の食堂で、開店祝いの宴会が開かれた。
俺、レイナ、ベラさん、リエラさん、ガリオさん、カインさん。
そして王子、王女、ジルベールさん、ダミアン。
全員揃って、料理を楽しんでいた。
ガリオさんがワインを掲げた。
「乾杯だ、田中」
「乾杯」
「お前の夢が叶った」
「皆さんのおかげです」
「いや、お前の努力の賜物だ」
ガリオさんがニカッと笑った。
ベラさんが横で号泣していた。
「うわぁぁぁぁぁ、田中さん、本当に立派な料理人になりましたねぇぇ……!」
「ベラさん、また泣いてる」
「だってぇぇぇ、嬉しいんですものぉぉ……!」
「ベラさん、田中食堂は、ベラ亭のおかげですよ」
「あらぁ、それはお互い様ですよぉ」
ベラさんがエプロンで目を押さえながら笑った。
リエラさんも隣で、優しく微笑んでいた。
王子がワインをすすった。
「田中殿」
「はい」
「私、王国の未来は、料理から変わると信じている」
「殿下」
「貴殿が田中食堂を開いた、これは王国の新しい章の始まりだ」
「……」
「料理が人をつなぎ、王国を温める」
「殿下、私、料理人としてできることを続けるだけです」
「それが最大の貢献だ」
王子がにっこり微笑んだ。
シャルロッテ王女も隣で、にこにこしていた。
「師匠、本当におめでとうございます」
「ありがとうございます」
「私、いつか田中食堂で、料理人として働きたいですわ」
「殿下、王女としてお仕事がありますよ」
「両立しますわ」
「無理はしないでください」
王女が笑って頷いた。
その横で、レイナがぴくりと反応した。
「殿下、ご質問が」
「はい?」
「料理人として働きたい、というのはどういう意味ですの?」
「私、田中食堂の副料理長を目指しますわ」
「……既にリエラさんが、副料理長です」
「では、副々料理長で」
「それはない、と思います」
「諦めません」
「諦めてください」
二人の視線がまた、火花を散らした。
ガリオさんがぼそっと呟いた。
「……田中、お前、頑張れよ」
「はい」
「女の戦いは収まらないぞ」
「分かっています」
「料理だけ作っていればいい」
「はい」
俺は深く頷いた。
……結局、俺、料理人としての運命は変わらない。
女性たちの火花の中で——美味い料理を作り続ける。
それが俺の生き方だ。
夜が更けた頃。
俺は田中食堂の看板の前に立っていた。
月明かりが看板を淡く照らしていた。
『田中食堂 〜異世界の新しい田中食堂〜 王家公認』
俺は看板にそっと、手を触れた。
冷たい木の感触。
でも温かい想いが込められていた。
親父の想い。ベラさんの想い。
仲間たちの想い。お客さんたちの想い。
全部、この看板に込められている。
「一郎」
後ろからレイナの声がした。
「はい」
「お疲れ様」
「ありがとうございます」
彼女が隣に立った。
二人で看板を見上げた。
「田中食堂、本当に開店したわね」
「はい」
「親父さんも喜んでいるわ」
「……ありがとうございます」
俺は深く息を吸った。
月の光が空気に満ちていた。
春の気配。
……前世で店を潰した、あの日。
俺、絶望していた。
でもこっちの世界で、俺、もう一度田中食堂を開けた。
しかも、王家公認の立派な店として。
仲間たちと共に。愛する人と共に。
俺の人生、捨てたもんじゃなかった。
むしろ最高だった。
「レイナさん」
「はい」
「俺、料理人を続けます」
「うん」
「ずっと、ずっと」
「うん」
「あなたと共に」
「……うん」
俺は彼女の手を握った。
彼女がしっかりと、握り返してきた。
二人の影が、月明かりに長く伸びていた。
料理人として、夫として、父として——
いつか俺はレイナとの間に、子供もできるかもしれない。
その子に、田中食堂の味を伝えていく。
親父が俺に伝えてくれた、ように。
そして俺の子がまた、次の世代に伝えていく。
料理は人と人をつなぐ橋。
時間を超えてつなぐ橋。
俺はその橋の、一つの橋脚になる。
それが俺の、料理人としての人生だった。
「レイナさん」
「はい」
「ありがとうございます」
「何が?」
「俺の人生を、温かくしてくれて」
「……」
「俺の世界に、色をつけてくれて」
「……」
「ありがとう」
彼女が目を潤ませながら、頷いた。
「私の方が感謝してるわ」
「……」
「あなたの料理が、私の人生を変えた」
「……」
「ありがとう、一郎」
二人でしばらく、月を見ていた。
ベラ亭の屋根の上から、温かい笑い声が聞こえてきた。
仲間たちがまだ、宴会を楽しんでいる。
俺たちも戻ろう。仲間たちの輪の中に。
料理人としての新しい人生の、第一歩。
それが今日、始まった。
俺はレイナの手をしっかり握って、ベラ亭に戻った。
ル・オニオンの甘い香りが、まだ店内に漂っていた。
……ありがとう、異世界。
ありがとう、料理。
ありがとう、仲間たち。
ありがとう、レイナ。
そして、ありがとう、親父。
俺は心の中で、何度も繰り返した。
俺の料理人としての物語は——まだ始まったばかりだった。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
第一部はこれで完結です。
田中一郎の料理人としての物語は、これからも続いていきます。
魔王との出会い、新たな伝説の素材、世界中の料理大会——
第二部でお会いできることを、楽しみにしています。
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