第29話 全ての始まりの、その先へ
告白の翌朝。
ベラ亭の厨房で、いつものように仕込みをしていた。
でも、何かが違っていた。
俺の心がふわふわしていた。
包丁を握る手が、いつもより軽かった。
……レイナさん。
昨夜の彼女の言葉を思い出すと、口元が緩んでしまう。
料理人として、集中力を欠くのはよくない。
でも今日だけは、許してほしい。
「一郎」
ベラ亭の厨房の入り口に、レイナが立っていた。
いつものエプロン姿。
でも頬が、わずかに赤かった。
「おはようございます、レイナさん」
「おはよう」
「……」
「……」
二人の間に、変な沈黙が流れた。
昨夜、告白した。受け入れられた。
でも今朝、どう接していいのか分からない。
俺の頬が勝手に熱くなった。
レイナの頬も赤かった。
「あの、レイナさん」
「うん」
「今日もよろしくお願いします」
「うん、よろしくね」
「……」
「……」
また沈黙。ぎこちない。
ベラさんがホールから顔を出した。
「あらあらあらあら、初々しいですねぇ」
「べ、ベラさん!」
「うふふ、田中さん、レイナさん、おめでとうございます」
「……ありがとうございます」
俺たちは揃って頭を下げた。
ベラさんが嬉しそうに笑った。
「これから、もっと仲良くなりますよ」
「はい」
「ベラ亭の料理長と、ホール責任者の結婚」
「け、結婚!?」
俺は思わず声が上がった。
「まだ、そこまでは——」
「あら、田中さん」
「はい」
「真面目な男なら、責任取りますよね?」
ベラさんがにっこり微笑んだ。
その微笑みは優しいが、有無を言わせない迫力があった。
……ベラさん、すごい母親モード。
俺はレイナの方を見た。
レイナが頬を赤らめながら頷いた。
「……結婚、よろしくね、一郎」
「えっ、もう決定なんですか」
「ベラさんが決めた」
「ベラさん、強いですね」
「うふふ、強いですよぉ。母親ですから」
ベラさんが笑った。
俺は深く息を吐いた。
まあ、いい。
いずれそうなる運命だった、ような気がするし。
料理人として、人として、レイナと共に歩む。
それはもう、決まったことだった。
「分かりました。ベラ亭で、結婚式挙げましょう」
「えっ、本当ですか!?」
「はい、本気です」
「うわぁぁぁぁぁ、嬉しいですぅぅぅ……!」
ベラさんがまた号泣し始めた。
もう本当に、号泣しかしない。
でも嬉しい号泣。ベラ亭らしい嬉しい号泣。
その日の昼。
ベラ亭はいつも以上に賑わっていた。
お客さんたちが口々に「王家公認、おめでとうございます!」と声をかけてくれた。
ベラさんはホールで、満面の笑みでお客さんに対応していた。
その姿はもう、十年前の若い頃のベラさんに戻ったようだった。
夫が生きていた頃の輝き。
俺は厨房から、その姿を見ていた。
ベラさん、ようやく人生の二度目の春を迎えたんだな。
「田中殿」
リエラさんが隣で、笑顔で言った。
「はい?」
「母を元に戻してくださって、ありがとうございます」
「いえ、俺は——」
「俺は、ただ料理をしただけ、ですよね」
「あ、はい」
「もう、それは聞き飽きました」
リエラさんが悪戯っぽく笑った。
「貴方はただの料理人じゃありません」
「……」
「人を変える料理人、です」
俺は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ」
リエラさんが丁寧に頭を下げた。
彼女ももう、ベラ亭の立派な副料理長だった。
厨房を任せても、不安はなかった。
ベラ亭の料理人としてのレベルが、確実に上がっている。
俺はそれが嬉しかった。
夕方。
厨房で夜の営業の仕込みをしていた。
その時、ベラ亭の入り口に見覚えのある馬車が止まった。
【鑑定】が走った。
【シャルロッテ・ヴァン・オーランド(19歳)】
職業:王国第二王女
状態:来訪/秘密の訪問
備考:王宮の厳しい警備を抜けてきている。
……ヤバい。
王女、王宮を抜けてきた。
俺は慌ててホールに出た。
ジルベールさんもちょうど来ていた。
ジルベールさんが王女の姿を見て、固まった。
「で、殿下、なぜここに——」
「あら、ジルベールさん、お久しぶり」
王女がにっこり微笑んだ。
いつもの無邪気な笑顔。
でもその目には、決意が宿っていた。
「殿下、ベラ亭に一人で来られたんですか」
「ええ、お忍びで」
「お、お忍び?」
「内緒、ね?」
王女が口の前に指を立てた。
俺は頭を抱えた。
……王女、まさかの家出。
いや、家出じゃないけど、王宮を抜け出す行為は危険すぎる。
「殿下、お父様には何と」
「玉ねぎスープを習いに行く、と伝えました」
「は、はい?」
「で、すでに実は、ベラ亭で住み込み修行をするつもりですわ」
「!?」
俺は絶句した。
王宮を住み込みで抜け出す王女。
なんてことするんだ。
「殿下、それはさすがに——」
「分かっていますわ。でも私、本気で料理を学びたいの」
「……」
「お母様の味を超える料理を作りたいの」
王女の紫の瞳が真剣だった。
俺はガリオさんの方を見た。
ガリオさんが深くため息をついた。
「田中、これはお前の判断だ」
「……」
「だが、王宮との関係を考えれば慎重に決めろ」
「はい」
俺は王女の目を見つめた。
「殿下」
「はい」
「お父様の許可はありますか」
「内緒で来ました」
「……それはダメ、です」
「!」
「殿下、王女として自分の立場を忘れてはいけません」
「……」
「俺、王宮に連絡を入れます」
「……」
王女の目が潤んだ。
俺は続けた。
「ですが、王女殿下が料理を学びたい、というお気持ち、本物ですよね」
「……はい」
「ですから俺、提案があります」
「提案?」
「お父様の許可をもらった上で——」
俺はにっこり微笑んだ。
「年に数回、ベラ亭で修行する、というのはいかがですか」
「……それは」
「年に数回なら、王宮のお仕事も両立できます」
「……」
「お父様も認めてくださるはずです」
王女の目が輝いた。
「本当ですか!?」
「はい、俺がお父様にお願いします」
「!」
「殿下が料理を学びたい、というお気持ちは、誰よりも応援したいです」
王女が、ぱぁぁ、と顔を輝かせた。
「ありがとうございます、師匠!」
彼女の笑顔は、本当に無邪気で可愛かった。
その笑顔を見ていたら——俺の頬が熱くなった。
あ。
ヤバい、レイナの視線。
刺さってる。めっちゃ刺さってる。
俺は慌ててレイナを見た。
レイナがにっこり笑っていた。
でも、目は笑っていなかった。
「レイナさん」
「はい」
「えっと」
「殿下、もう私、田中の婚約者ですから」
「!?」
「だから、料理は教えてもらえますけど、それ以上はダメですからね」
レイナがにっこり微笑んだ。
でもその笑顔の奥には、確かな毒がありそうだった。
王女が目を丸くした。
「こ、婚約者ですって!?」
「はい」
「いつから!?」
「昨日」
「……早すぎますわ!」
「私、毒師ギルド総帥ですから」
「それ、関係ありますの?」
「動きが早いの」
「……」
王女の頬が、ぷくり、と膨らんだ。
「悔しいですわ」
「諦めてくださいね」
「諦めません」
「諦めてください」
「お友達としての立場を超えても、いいですか?」
「ダメです」
二人の視線が火花を散らした。
俺は深くため息をついた。
料理人として、こんなに複雑な人間関係に巻き込まれるとは。
でも今は、これも含めて俺の人生だ。
ベラ亭で料理を続ける限り。
そしてレイナと共に歩む限り。
すべて受け入れる覚悟だ。
夜が更けた頃。
俺は王宮に伝令を送って、王女の保護を依頼した。
王子からすぐに、返信が来た。
田中殿、
妹を保護してくれて感謝する。
妹の料理修行については、貴殿の提案通り、
年数回、ベラ亭で許可しよう。
また近いうちに、王都でお会いしたい。
アルフォンス
王子は寛大だった。
俺はホッと息を吐いた。
王女は明日、王宮の近衛騎士団に迎えに来てもらうことになった。
今夜だけは、ベラ亭の客室に泊まらせる。
ベラさんが嬉しそうに、王女の世話をしていた。
「殿下、お風呂こちらですよ」
「ベラさん、ありがとうございます」
「うふふ、王女様のお世話、生まれて初めてできて感激ですぅ」
ベラさんがはしゃいでいた。
その姿を見て、俺は笑った。
ベラ亭は本当に、不思議な場所だ。
王女が住み込み、貴族が料理修行、毒師ギルド総帥がホール対応。
もう何でもありな状況。
でも、それがベラ亭らしさだった。
その夜。
俺はレイナと、ベラ亭の屋根の上にいた。
いつもの二人の時間。
「レイナさん」
「うん」
「結婚、本当にいいんですか」
「もちろんよ」
「俺、料理人でしかないですよ」
「それでいい」
「……」
「むしろ、それがいい」
レイナが優しく微笑んだ。
「あなたが料理人でいてくれること」
「……」
「私の人生の、一番の幸せ」
俺は深く息を吐いた。
彼女が隣にいてくれる。
それが俺にとっても、最大の幸せだった。
「レイナさん」
「はい」
「ありがとうございます」
「うん」
「俺の料理を信じて、隣にいてくれて」
「うん」
「これからずっと、よろしくお願いします」
「うん、よろしくね」
二人で月を見上げた。
月が変わらず輝いていた。
俺の人生は、まだまだ続く。
ベラ亭で料理を作り続ける。
王宮、ヴィッセル家、仲間たちと共に。
そして、レイナと共に。
俺は笑った。
異世界に来てから初めて——心の底から幸せだった。
異世界、本当に悪くない。
俺は心の中で、何度も繰り返した。




