第22話 謎の貴族、ベラ亭にやって来る
ベラ亭の正式な引き継ぎから、二週間が経った頃。
その日はいつもより穏やかな朝だった。
市場で仕入れを終えて、厨房で仕込みを始めた頃。
店の入り口に、見慣れない馬車が止まった。
窓から覗くと、それは紋章付きの貴族の馬車だった。
……あれ?
ベラ亭に、貴族?
最近は王都から訪ねてくる人が増えていたが、貴族はまだいなかった。
馬車から執事風の男が降りてきた。
扉を開けて、後続の客に深々と頭を下げる。
降りてきたのは若い男だった。
黒髪に、整った顔立ち。
白いシャツに深緑のコート。腰には細身の剣。
でも貴族特有の傲慢さはない。
むしろ品があって、穏やかな雰囲気。
【鑑定】が走った。
【ジルベール・ヴィッセル(28歳)】
職業:ヴィッセル家・当主
状態:来訪/敬意あり
備考:田中一郎を慕い、料理修行に来ている。
……あ。
ジルベールさんだ。
王都で会った、あのヴィッセル家の長男。
そういえば王宮を出る時に、王子から「定期的にベラ亭に通いたい」って話を聞いていた。
まさか本当に来るとは思わなかった。
俺はエプロンを外してホールに出た。
「ジルベールさん!」
「田中殿、お久しぶりです」
ジルベールさんが深く頭を下げた。
「久しぶりです、と言うほど時間は経ってないですけど」
「ええ、二週間ですね」
「お元気そうで、何よりです」
「田中殿のおかげで」
ジルベールさんが優しく微笑んだ。
「あの、田中殿」
「はい」
「先日のお約束、覚えていますか」
「もちろん覚えてます」
「料理を、教えていただけると」
「ええ」
「本当に来てしまいました」
ジルベールさんが少し恥ずかしそうに笑った。
俺はにっこり頷いた。
「ようこそ、ベラ亭へ」
「ありがとうございます」
「奥にどうぞ」
「お邪魔します」
ジルベールさんは執事に、何か小声で指示を出した。
執事が頷いて、馬車に戻った。
ジルベールさんは一人でベラ亭の扉をくぐった。
ベラさんがホールから出てきた。
ジルベールさんを見て、目を丸くした。
「あ、あの、お客様……ですか」
「ジルベール・ヴィッセルと申します」
「ヴィッセル……侯爵家の」
「はい」
ベラさんが固まった。
大貴族がいきなり、ベラ亭に来た。
無理もない反応だ。
「ベラさん」
「は、はい」
「ジルベールさんは、俺の料理のお弟子さんです」
「お、お弟子さん?」
「はい」
「貴族のお方なのに?」
「はい」
「……」
ベラさんが目を白黒させた。
ジルベールさんが深く頭を下げた。
「ベラ夫人、お見知りおきくださいませ」
「い、いえ、こちらこそ……」
「私は田中殿の料理を学びに参りました」
「は、はぁ」
「ベラ亭のホールでも、お手伝いをさせていただければ、と」
「えっ、ヴィッセル様がホールのお手伝いを?」
「ええ。料理を学ぶためには、現場の空気を知ることが大切ですから」
「……」
ベラさんがぽかんと口を開けた。
俺は苦笑いした。
大貴族が田舎の宿屋でホールの手伝い。
……ベラ亭、本当に不思議なお店になってきた。
貴族のお偉いさん。毒師ギルド総帥。元・暗殺者。Aランク冒険者。
もう、何でもありな感じだ。
「ベラさん、ジルベールさんにホールの仕事を教えてもらえますか」
「えっ、私が?」
「ベラさんはホールのプロですから」
「いや、プロ、って」
「俺、そう思ってますよ」
「あ、あら、田中さん、嬉しいこと言って」
ベラさんが頬を赤らめた。
その横で、ジルベールさんが深く頷いていた。
「ベラ夫人、よろしくお願いします」
「は、はい! 精一杯お教えします!」
ベラさんはすぐに立ち直って、ジルベールさんをホールへ案内した。
その姿はどこか誇らしげだった。
……うん、ベラさん、いい接客しそうだ。
俺は厨房に戻った。
その日のジルベールさんのホールデビューは、想像以上に上手くいった。
彼は王宮で貴族として教育を受けているせいか、立ち振る舞いが抜群に優雅だった。
お客さんの扱いも丁寧。
言葉遣いも品があって、温かい。
ベラさんも感心していた。
「ヴィッセル様、本当に上手」
「いえ、まだまだです、ベラ夫人」
「いやいや、私が四十年かけて覚えたこと、初日でこなしていらっしゃる」
「貴族の教育ですから」
「素敵な教育ですね」
「平民のベラ夫人の方が、ずっと自然で温かい接客です」
「あら、まあ」
ベラさんとジルベールさんが、和気あいあいと話していた。
……身分の差が、料理の現場では消える。
それがベラ亭の魅力なのかもしれない。
その夜。
俺はジルベールさんに、料理の基本を教えていた。
ル・オニオンの皮剥きから始めた。
彼は最初はぎこちなかったが、すぐに慣れた。
貴族の繊細な手の動き。
料理にも向いているらしい。
「田中殿」
「はい」
「料理は本当に奥が深いですね」
「そうですね」
「素材を見て、相手を想って作る」
「はい」
「貴族の政治や経営とは、まるで違う世界だ」
「違う、ですよね」
「ですが——」
ジルベールさんがふと手を止めた。
「共通する部分もある気がする」
「と、言いますと?」
「『相手を想う』こと」
「……」
「料理は、食べる相手を想って作る」
「はい」
「政治も、本来は国民を想って行うべきものだ」
「……」
「父はそれを忘れていた、と思います」
彼の声は静かだった。
「私は忘れない」
「……」
「料理を通じて、人を想う心を思い出したい」
俺は頷いた。
「ジルベールさんなら、できますよ」
「……」
「真剣に料理に向き合っている人は、必ず人を大切にできます」
「ありがとうございます」
ジルベールさんが深く頭を下げた。
俺は彼の横に立って、一緒に料理を続けた。
貴族と平民の料理人。
でも厨房の中では対等な関係だった。
それがベラ亭の決まりだった。
夜が更けて、ジルベールさんが帰る時間になった。
「田中殿、本当にありがとうございました」
「いえ、こちらこそ」
「次回もよろしいですか」
「もちろんです」
ジルベールさんが深く頭を下げた。
彼が馬車に乗り込もうとした、その時。
ふと思い出したように振り返った。
「あ、田中殿」
「はい?」
「お土産を持って来ました」
「お土産?」
「ヴィッセル家の領地で採れる特産品です」
ジルベールさんが馬車の執事に合図した。
執事が大きな木箱を持って降りてきた。
俺の目の前で開けた。
中には——見慣れない植物がぎっしり入っていた。
【鑑定】が走った。
【ヴィッセル領産・赤血のキノコ】
人間への効果:摂取で即死/致死率99%
備考:1000年に一度、ヴィッセル領の深い森で自生する伝説の素材。
完全処理すれば、最高級の旨味成分を持つ。
処理法は非常に難しい。
……うわぁ。
まさかの伝説素材。
俺はジルベールさんに聞いた。
「ジルベールさん、これ、どこで」
「ヴィッセル家の領地で採れたのです」
「……」
「父が宝物として保管していたものを見つけました」
「これは毒ですよ」
「もちろん知っています」
「処理、できますか」
「私にはできません」
ジルベールさんがにっこり微笑んだ。
「ですが、田中殿ならできると思いまして」
「……」
「父が誰にも扱えなかった伝説の素材を」
「ジルベールさん」
「貴殿の手で、最高の料理に変えてみてほしい」
彼の声には強い信頼がこもっていた。
俺は深く頷いた。
「分かりました。挑戦してみます」
「楽しみにしております」
ジルベールさんが馬車に乗り込んだ。
馬車が夜道を走り去っていった。
俺は目の前の木箱を見つめた。
……伝説の毒キノコ。
処理が非常に難しい、と書いてある。
でも、俺の【鑑定】がある。
レイナの毒術知識もある。
二人で力を合わせれば、できるはずだ。
俺はにっこり笑った。
料理人として、新しい挑戦だ。
ワクワクしてきた。
その夜。
ベラ亭の奥の食堂で。
俺はレイナと二人で、伝説の素材を見つめていた。
「これ、本当にヴィッセル領の奥にしかないやつね」
「すごいですか、これ」
「すごいわよ」
「毒師ギルド総帥として知ってますか」
「知ってる。聞いたことだけね」
「処理、できそうですか」
「やってみましょう」
レイナが目を輝かせた。
「あなたと一緒なら、絶対できる」
「……」
「料理人と毒師の最強コンビ」
「最強、ですか」
「ええ」
彼女が悪戯っぽく笑った。
「ベラ亭の新メニュー、誕生するわよ」
「楽しみですね」
俺も笑った。
二人で深夜まで、伝説素材と向き合った。
それは新しいメニュー開発の始まりだった。




