第20話 ベラ亭、母娘の再会
馬車に揺られて三日。
俺たちはオルバの街に戻ってきた。
馬車が街道を進むにつれて、見慣れた景色が広がってきた。
石造りの城壁。木製の門。鍛冶屋の槌の音。
……ただいま、オルバ。
なんだか、胸が熱くなった。
二週間前に出発した時より、ずっと愛着を感じる。
たぶん、それはベラさんが待っているからだ。
「田中、もうすぐ着くぞ」
「はい」
ガリオさんが窓の外を見ながら呟いた。
俺の隣にはレイナ。向かいにはリエラさん。
二人は緊張した面持ちで、窓の外を見ていた。
特に、リエラさん。
十年ぶりの母との再会。
彼女の手が膝の上で強く握られていた。
「リエラさん」
「はい」
「大丈夫ですか」
「……正直、緊張しています」
「はい」
「母は、私を許してくれるでしょうか」
「許す、許さないじゃないと思います」
「え?」
「お母さんは、リエラさんをずっと待ってましたよ」
「……」
「だから、戻ってきた、ということが一番嬉しいことのはずです」
リエラさんが深く息を吐いた。
「田中殿は、母のことを本当によく分かっていらっしゃる」
「料理人特有の勘です」
「またそれですか」
「俺のトレードマーク、です」
俺たちはお互いに笑い合った。
馬車がベラ亭の前に止まった。
馬車から降りた。
ベラ亭の看板が目に飛び込んできた。
『ベラ亭 ~田中一郎の厨房~』
……懐かしい。
たった二週間離れていただけなのに。
まるで何ヶ月も留守にしていたような感覚。
俺は扉に手をかけた。深呼吸をして、開けた。
カラン、と鈴が鳴った。
「いらっしゃ——」
ベラさんの声が止まった。
彼女はホールで皿を運んでいる最中だった。
その手から皿が、ガチャン、と落ちた。
でもベラさんは気にしなかった。
ただ、入り口に立った俺たちをじっと見つめていた。
俺の顔。ガリオさんの顔。レイナの顔。
そして、最後に——リエラさんの顔。
「……」
ベラさんの口がわなわなと震えた。
目に涙がみるみる溜まっていく。
「……リ、リエラ……?」
「お母さん」
リエラさんが震える声で呟いた。
「ただいま」
その瞬間。
ベラさんが走り出した。
ホールの客たちが何事かと振り向いた。
でもベラさんは振り返らなかった。
ただまっすぐ、リエラさんに駆け寄って——強く、強く抱きしめた。
「リエラぁぁぁぁぁっ!」
ベラさんの号泣が店中に響いた。
でも、今日の号泣はいつもと違っていた。
歓喜の号泣だった。
「あんた、あんた、あんた、生きてたのね、生きてたのね……っ」
「お母さん、ごめんね、ごめんね」
「謝らなくていいの、謝らなくていいから……っ!」
ベラさんがリエラさんの頬を、両手で包んだ。
涙だらけの顔で、リエラさんをまじまじと見つめた。
「大きくなった、ねぇ……」
「お母さん」
「立派な女になって、戻って、きたねぇ……」
リエラさんもぽろぽろと涙をこぼしていた。
「私、料理人になったよ」
「……」
「お母さんに認めてもらえる料理人になるために」
「……」
「十年、頑張ったよ」
ベラさんが何度も何度も頷いた。
「立派、よ」
「……」
「あんたは立派だよ……」
ベラさんがリエラさんを、もう一度強く抱きしめた。
二人はしばらく抱き合って、泣き続けた。
ホールのお客さんたちも、もらい泣きしていた。
俺はレイナの方を見た。
レイナがにっこり微笑んでいた。
その目元も、少しだけ潤んでいた。
ガリオさんがぼそっと呟いた。
「……いい光景だな、田中」
「はい」
「お前のおかげだぞ」
「俺、何もしてません」
「いいや、お前のおかげだ」
ガリオさんが笑った。
「リエラを王宮に連れていかなければ、こうはなってない」
「……」
「お前は、母娘を繋いだ」
「……」
俺は何も言わなかった。
ただ、目の前の光景を静かに見つめていた。
料理人として、誰かの心を繋ぐことができたなら——
それはたぶん、俺の最大の幸せだ。
しばらくして、ベラさんが俺たちの方を見た。
涙だらけの顔で、深く深く頭を下げた。
「田中さん」
「はい」
「リエラを、連れて来てくださったんですか」
「いえ、リエラさんが自分の意志で戻ってきたんです」
「……」
「俺は、ただ王宮で彼女と出会っただけです」
「それでも」
ベラさんが何度も頷いた。
「あなたがいてくれたから、リエラは戻る勇気が出たんですよ」
「……」
「本当に、本当にありがとうございます」
ベラさんがまた号泣し始めた。
……今日も号泣だ。
でも、嬉しい号泣だ。
俺は頭を下げた。
「ベラさん」
「はい」
「リエラさんは、本当に立派な料理人ですよ」
「……」
「俺の教えなんて必要ないくらい、腕がいい」
「リエラ……」
「お母さん、私、王都で副料理長を務めてたよ」
「……」
「だからこれからは、お母さんと一緒にベラ亭を、もっといいお店にしたい」
ベラさんが目を見開いた。
「リエラ、本気で戻って来たの?」
「うん」
「……」
「もう、家を出ない、ってこと?」
「うん」
「……」
ベラさんがまた、ボロボロと泣き始めた。
「リエラぁぁぁぁ、ありがとうねぇぇぇぇ……!」
二人の母娘がもう一度抱き合った。
俺はレイナと目を合わせた。
レイナが優しく微笑んだ。
「ベラ亭、賑やかになるわね」
「はい」
「楽しみ」
「……はい」
俺も笑顔で頷いた。
その日の夜。
ベラ亭の奥の食堂で、俺たちは久しぶりの、家族みたいな夕食を食べていた。
俺、ガリオさん、レイナ、リエラさん、ベラさん。
ベラさんがずっと、リエラさんに料理を取り分けていた。
まるで十年分の、母親の愛情を注ぐかのように。
リエラさんも嬉しそうに、ベラさんの作った料理を食べていた。
「お母さんの料理、相変わらず優しい味」
「あんたの好きだった、肉とジャガイモの煮込みよ」
「覚えていてくれたんだね」
「忘れるわけないでしょ」
ベラさんがまた涙ぐんだ。
……いや、もう本当にベラさん、号泣の回数、限界超えてる。
でも今夜はいい。
今夜だけは、いくらでも泣いてもらおう。
ガリオさんがワインを一口すすった。
「田中」
「はい」
「お前の家族が増えたな」
「家族、ですか」
「俺、レイナ、カイン、ベラさん、リエラさん」
「……」
「全員、お前の料理に惹かれて集まった家族だ」
ガリオさんがニカッと笑った。
「親父さんに感謝しろよ」
「……」
「お前を料理人として育ててくれた、親父さんに」
「……はい」
俺は深く頷いた。
親父。見ていますか。
俺、こっちの世界でちゃんと家族を作れました。
血は繋がってないけど。
でも料理を通じて繋がった、本当の家族です。
夜が更けて、皆が寝静まった後。
俺はベラ亭の屋根の上で、月を見上げていた。
オルバの夜空は王都より、ずっと星がよく見える。
何度見ても綺麗だった。
「……一郎」
屋根に登ってきたのはレイナだった。
寝間着に、肩からショールを羽織った姿。
「危ないですよ、レイナさん」
「大丈夫」
彼女は俺の隣にそっと腰を下ろした。
月明かりが、彼女の銀髪を淡く照らしていた。
「ベラさん、嬉しそうだったわね」
「はい」
「リエラも、よかった」
「ええ」
「あなたの料理のおかげ」
「……俺、何もしてないですよ」
「またそれ」
レイナが肩を揺らして笑った。
「あなた、いい加減自覚しなさい」
「自覚、ですか」
「あなたが特別だ、ってこと」
「……」
「料理人として、人として、特別」
彼女の声は優しかった。
でもその奥に、確かな強さがあった。
「レイナさん」
「はい」
「答え、です」
「……え?」
レイナが息を飲んだ。
俺は月を見上げたまま続けた。
「昨日の告白の、答えです」
「……はい」
「俺、レイナさんにちゃんと答えたい」
「……」
「だからもう少しだけ、時間をください」
「……」
「俺、料理人としてちゃんと自分の店を構えて、生活が安定してから——」
「うん」
「それから、ちゃんと答えます」
レイナがしばらく無言だった。
それからふっと微笑んだ。
「分かった」
「……」
「待つわ」
「……」
「あなたが自分の店を構えて、料理人として自立するまで」
「ありがとうございます」
「でも、一郎」
「はい」
「私、横で見守るからね」
「はい」
「あなたの隣で」
「……はい」
俺はゆっくり頷いた。
月が優しく二人を照らしていた。
答えを出すのは、まだ先。
でもそれまで、俺は料理人としてちゃんと自分の道を歩く。
レイナが隣で待ってくれている。
それはすごく幸せなことだった。
翌朝。
俺はいつものように、ベラ亭の厨房で朝食の仕込みをしていた。
隣にリエラさんが立っていた。
今日からベラ亭の新しい料理人。
ベラさんは別の厨房で、朝食のサービスを準備していた。
母娘が一緒に厨房に立つ。
その光景は、本当に幸せそうだった。
俺はル・オニオンを手に取った。
いつも通り、薄く薄く切り始めた。
ふわり、と甘い香りが立ち上った。
……今日もいい一日になる。
俺は笑顔で頷いた。
第二章——王都編はこうして幕を閉じた。




