第19話 王都を離れる、その前夜に
王都での滞在は、結局二週間に及んだ。
最後の数日は、毎日のように貴族たちからの食事会の依頼が舞い込んだ。
俺は数件だけ受けて、残りは丁重に断った。
全員に応じていたら、ベラ亭に戻れなくなる。
料理人としての本拠地はあくまでベラ亭だ。
それは譲れなかった。
最終日の朝。
王宮の厨房で、グスタフさんと向き合っていた。
「田中殿」
「はい」
「明日、お発ちになるとか」
「ええ、ベラさんが待ってるので」
「……」
グスタフさんはしばらく無言だった。
それから深く頭を下げた。
「短い間でしたが、勉強させていただきました」
「グスタフさん、頭を上げてください」
「いえ、これは私の本心です」
彼の声は静かだった。
「四十年、私は宮廷料理人として、自分の腕に自信を持って生きてきました」
「はい」
「でも貴殿に出会って、料理の本質を初めて知りました」
「……」
「料理は、技術ではなく、心だ、と」
俺は何も言えなかった。
グスタフさんがゆっくり顔を上げた。
「田中殿の料理には、必ず『食べる相手の顔』が浮かんでいます」
「……はい」
「私は四十年、『誰が食べても美味しい』料理を追求してきました」
「はい」
「でも、それは違ったのですね」
「……」
「『この人に、美味しいと言ってもらう』料理。それが本物の料理人なのですね」
俺は深く頷いた。
「親父が、よく言ってました」
「親父様」
「『料理は、相手の顔を見て作るんだ』と」
「……」
「『同じレシピでも、出す相手が違えば、味が違う』と」
「……素晴らしいお父様です」
「俺、それを忘れていました」
俺はふと、前世の最後の日を思い出した。
佐藤さんに出した、最後の生姜焼き定食。
あの時、俺は確かに佐藤さんの顔を見て作っていた。
でも店を閉める半年前は、ただ機械的に料理を作っていた気がする。
売り上げを気にして、お客さんの顔ではなく、数字を見ていた。
だから店は潰れたのかもしれない。
……今は、違う。
俺は毎日、誰かの顔を思い浮かべながら料理をしている。
ベラさん。レイナ。シャルロッテ王女。
そして、まだ会ったことのないお客さんの顔。
その全員を笑顔にしたい。
そう思いながら料理をしている。
たぶん、それが答えだ。
「グスタフさん」
「はい」
「四十年の経験は、無駄じゃないですよ」
「……」
「むしろこれからが、グスタフさんの本物の料理人としてのスタートだと思います」
俺の言葉に、グスタフさんが目を見開いた。
それから深く深く頭を下げた。
「……ありがとうございます、田中殿」
「いえ」
「私、もう一度、料理に向き合ってみます」
「はい」
「『誰のために作るのか』を、もう一度考えながら」
「ぜひ、そうしてください」
俺はゆっくり頭を下げた。
四十年のベテランが、また料理人として新しいスタートを切る。
その瞬間に立ち会えたことが、俺にとっても嬉しかった。
夕方。
王宮の中庭に、出発前の小さな送別会が開かれた。
アルフォンス王子、シャルロッテ王女、ガリオさん、レイナ、カインさん、リエラさん、そしてグスタフさんと宮廷料理人たち。
全員、笑顔だった。
王子がワイングラスを掲げた。
「田中殿」
「はい」
「短い滞在だったが、貴殿に出会えたことは王国の宝だ」
「殿下」
「いつでも王宮に戻ってきてくれ」
「ありがとうございます」
「貴殿の席は、いつまでも空けておく」
王子の誠実な言葉に、俺は深く頭を下げた。
シャルロッテ王女が隣で、にっこり微笑んだ。
「師匠」
「はい、王女殿下」
「私、引き続き、料理の修行を続けますわ」
「もちろんです」
「いつかお母さまの味を、完璧に再現できるように」
「きっとできます」
「ありがとう、師匠」
王女が何度も頷いた。
その横で、レイナが静かに立っていた。
ベラ亭まで、彼女は俺と共に戻ることになっていた。
すでに毒師ギルドへの引退届は提出済み。
カインさんが新総帥として引き継ぐことになった。
カインさんは複雑な顔で、レイナに聞いていた。
「総帥」
「だからレイナでいい」
「……レイナさん」
「はい」
「俺、本当に引き継いでいいんですか」
「いいわよ」
「毒師ギルド総帥、ですよ」
「あなたは、料理人を続けながらできる強い子だから」
「……ありがとうございます」
「カイン」
「はい」
「いつか、私と田中の店に、また来てね」
「もちろんです」
レイナが優しく、カインさんの肩を叩いた。
元・上司と元・部下の、温かい別れの瞬間。
でも別れじゃない。また会える別れだった。
送別会の最後。
王子が俺を呼び止めた。
「田中殿」
「はい」
「個別に伝えたいことがある」
「はい」
「ヴィッセル家のジルベール卿、覚えているか」
「もちろんです」
「彼は貴殿の弟子として、ベラ亭にも定期的に伺いたい、と言っている」
「はい」
「許可してもいいか」
「ええ、もちろんです」
「ありがとう」
王子が深く頷いた。
「彼は、貴殿のおかげで変わった」
「俺、何もしてません」
「いや、貴殿の料理が彼を変えた」
「……」
「貴殿は料理人として、私の予想を超えていた」
「殿下」
「これから王国は、変わっていく」
王子の青い瞳がまっすぐ俺を見た。
「貴殿の料理が、変えていく」
「……俺、料理しかしません」
「それでいい」
王子が優しく微笑んだ。
「料理だけで、十分だ」
俺は深く頭を下げた。
料理人としてここまで信頼されたのは、初めてだった。
前世でも、今世でも。
俺はただ、ありがたいと思った。
その夜。
俺は客室のベランダで、夜風に当たっていた。
明日、王都を出発する。
二週間、長いようで短い滞在だった。
でも得たものは大きかった。
料理の腕も、人脈も、自信も。
全部、確実に増えた。
ふと、隣に人の気配がした。
振り向くと、レイナが立っていた。
寝間着姿。相変わらず、夜中の訪問だった。
「師匠」
「はい」
「お疲れ様」
「ありがとうございます」
彼女はベランダの柵に寄りかかった。
月明かりが銀髪を輝かせていた。
俺はそっと視線を逸らした。
……綺麗だ。
また、心の中で呟いてしまった。
「師匠」
「はい」
「ベラ亭に戻ったら、私、本格的に料理人を目指すから」
「はい」
「あなたの隣で、ずっと」
「……」
「迷惑、じゃない?」
「迷惑じゃないです」
俺は即答した。
レイナがふっと微笑んだ。
「即答ね」
「はい」
「嬉しい」
彼女は月を見上げた。
「師匠」
「はい」
「私、二十四年生きてきて、初めて好きな人ができた」
「……え」
俺は固まった。心臓が跳ねた。
レイナが俺を見ないまま、続けた。
「私、毒師として、何百人も会ってきた」
「……」
「貴族、王族、商人、犯罪者」
「……」
「でも誰一人、私の心を動かさなかった」
「……」
「そんな私がある日、田舎の宿屋の料理人に出会った」
彼女の声は静かだった。
「最初は、ただ興味だった」
「はい」
「でも料理を食べるたびに——」
「……」
「私の中で、何かが変わっていった」
彼女はゆっくり俺を見た。
月明かりが、彼女の藍色の瞳を淡く照らしていた。
「師匠」
「はい」
「答えはまだ要らない」
「……」
「ただ、私の気持ちを知っていてほしい」
「……レイナさん」
「私、あなたの料理が好き」
「……」
「そして、あなた自身も好き」
俺は何も言えなかった。
胸が熱かった。
でも、その熱さが何なのか、まだわからなかった。
レイナがにっこり微笑んだ。
「無理に答えを出さないでね」
「……」
「私は待つから」
「……」
「いつまでも待つから」
彼女はそっと、俺の手の甲に自分の手を重ねた。
暖かかった。その手が震えていた。
毒師ギルド総帥として、何百人もの命を奪ってきたその手。
でもその手は今、俺の手の上で震えながら、温かく触れていた。
俺はゆっくり頷いた。
「分かりました」
「うん」
「俺、ちゃんと考えます」
「焦らなくていい」
「はい」
「じゃ、おやすみ」
レイナはそっと手を離した。
ベランダから客室の奥へ消えていった。
俺はしばらく、夜風に当たっていた。
月が優しく王宮を照らしていた。
……俺、どうしたらいいんだろう。
料理はわかる。
でも、人の心はまだよくわからない。
とりあえず明日、ベラ亭に戻ろう。
ベラさんに会えば、何かヒントがもらえる気がした。
俺はそっとベランダから客室に戻った。
明日は長い旅路になる。




